最初から読む

 

 二十三時、電話が鳴った。
「はい、『すずめ夜間保育園』です」
 保育士の斗羽風汰が出ると、受話器の向こうで荒い息遣いが聞こえた。
 ……イタ電かよ。
「もしもーし、くだらない電話してないで寝てくださーい」と、終話ボタンに指を当てたとき、『もしもし』と声がした。子どもの声だ。続けて受話器の向こうから『ふうたせんせ?』と声が聞こえた。
 少しこもっているけれど、この声、この呼び方には覚えがある。
「めぐみちゃん?」
 風汰が言うと、テーブルを挟んだ正面でパソコンをかちゃかちゃやっていた先輩保育士の坂寄千温が顔をあげた。
「もしもし? めぐみちゃんだよね」
 うん。という返事といっしょにノイズのように鼻水をすする音がする。風汰は受話器を握り直して耳に押しあてた。
 去年の三月に卒園した、片平めぐみちゃんだ。
「どうした? 大丈夫? 泣いてるの?」
「風汰先生」と坂寄がかぶりを振る。
 あまり一度にいろいろ聞くなということだろう。風汰は息をつき、もう一度聞き直した。
「めぐみちゃん、どうした?」
『ママが』
「ママ? ママがどうした?」
 すんすんと鼻をすすりながら「かえってこない」と言った。
「……いまひとりなの?」
『ひとり』
「ママは何時に帰ってくるって言ってたの?」
『わかんない』
「あのさ、昨日は何時に帰ってきた?」
『かえってきてない』
 風汰は坂寄を見た。
「えっと、ママはいつから帰ってきてないの?」
『どようび』
 二日前だ。
『にちようびに、かえるって、ママいってた』
「めぐみちゃん、電話切らないでちょっと待ってね」
 そう言って、風汰は受話器を手で押さえた。
「めぐみちゃんのお母さん、土曜から帰ってないみたいっす」
「めぐみちゃん、いまひとりってこと?」
 坂寄の問いに、たぶんとうなずくと「貸して」と坂寄は受話器に手を伸ばした。
「もしもし、めぐみちゃん、千温先生だよ。めぐみちゃん、ごはん食べた? ――うん、そうか。ママの携帯電話に電話してみた? ――でないのね。めぐみちゃん、いまおうちに行くから、もう少しひとりでお留守番できるかな。――えらい。ちゃんと鍵を閉めて待っててね」
 坂寄は終話ボタンを押すと、園長先生に言ってくる、と風汰に受話器を渡した。
 めぐみちゃんは四歳のときに私立の認可保育園から転園してきたと聞いている。商社勤めの父親がインドネシアへ赴任することになり、ほぼ同時期に出版社で編集の仕事をしている母親も雑誌編集部へ異動になったことで、『すずめ夜間保育園』へ転園してきたのだという。一年後、両親は離婚して、めぐみちゃんの家は母子家庭になった。とはいえ、父親は一年近く単身赴任をしていたこともあり、めぐみちゃんにとって父親と離れて暮らすことは特別なことではなかったし、経済的にも不安はないようだった。
 少なくとも在園中のめぐみちゃん親子を思い返しても、気になる出来事は見当たらなかった。
 ほどなくして、坂寄が園長と一緒に戻ってきた。
「めぐみちゃんちに行くんすか?」
「二日間もお母さんが帰ってきていないっていうし、とにかくわたしが行ってみる」
 口早に言う園長に、「おれ行きましょうか」と風汰が言った。
「風汰先生が?」
「だって園長先生めちゃくそ方向音痴じゃないっすか。地図アプリをスマホまわしながら見てたし」
 園長と坂寄は顔を見合わせた。
「でも風汰先生一人を行かせるわけには」
 いま園にいる保育士は園長を含めて三人。園児の保育やお迎えに来る保護者への対応を考えても二名は必要だ。
「おれ一人でも平気っすよ」と風汰が言うと、園長は首を横に振った。
「家庭への訪問は原則二人。一人だとおかしな誤解を受けることもあるし、そのリスクを職員に負わせるわけには。なにかあったとき判断も対応も遅れるから。……じゃあ、めぐみちゃんのところには、千温先生と二人で行ってもらえますか、園にはわたしが残ります」
 風汰が不満そうに頷くと、園長は住所を書いたメモを坂寄に渡した。
「状況がわかったら連絡を入れます。行くよ」と、背を向けた坂寄のあとを風汰は追った。

 自転車で坂道を上り、早稲田通りに出る。高田馬場は日本屈指の学生街と言われる街だ。駅周辺には学生向けの低価格の飲食店やカラオケボックスなども多くあり、この時間になっても雑居ビルの前で声をあげている集団や、酔いつぶれて道端に寝転がっている学生やそれを介抱している子、ビルの入り口付近に座り込んでいる若者の姿をちらほら見かける。
 駅前を抜けて、つつじ通りの緩やかな坂を新大久保方面へのぼっていき、都営アパートにぶつかるとT字路を右へ曲がった。
「ねえ、道わかってるの?」
「大丈夫っす」と、自転車のハンドルにセットしたスマホを確認して道沿いに数分行ったところで、風汰は軽くブレーキを握ってアスファルトに足をついた。
「住所はこの辺なんすけど」と周囲に目をやって、あれかも、と古いマンションのまえで自転車を降りた。
「ここっす」
 声を抑えて指をさした。
「五〇三号室だったよね」と坂寄はメモを確認した。
 部屋のインターフォンを押したけれど反応がない。もう一度鳴らすと、「はい」とインターフォン越しに低い声がした。
 ん? 二人は思わず顔を見合わせた。
「あ、夜分申し訳ありません。めぐみちゃんから電話をいただいて」
「はぁ?」と不機嫌そうな声が返ってきた。
 表札に名前はない。
「片平さんのお宅ではないですか?」
 坂寄があわてて言うと、「中村だけど」と返ってきて通話を切られた。
 二人が立ち尽くしていると、錠を回す音がして玄関のドアが開いた。Tシャツに短パン姿の中年の男だ。
 無意識に一歩下がった風汰を、坂寄が押した。
「や、夜分にどうもっす」
 へへっと笑いながら風汰は部屋の中に視線を向けた。
「なんなんだよ、こんな時間に。てか、あんたらだれ」
 すみません、と坂寄は風汰のうしろから頭を下げて『すずめ夜間保育園』の保育士だと名乗り、卒園児から連絡があって訪ねて来たのだと話した。
「在園中の住所がこちらだったので」
「おれが越してきたのは一年も前だけど」
「そうでしたか……。前に住んでいた人の引っ越し先とか、わかりませんよね」
 男は苦笑して、首を振った。
「ドラマのセリフみたいなこと言われたの初めてだけど、現実にも言うんだな」
 ですよね、と首をすくめる坂寄に、風汰は「んでも」と続けた。
「大家さんとかなら、知ってる可能性ないっすか?」
 それなら、と男は上を指さした。
「ばあさんだから、もう寝てるかもしれないけど」
 六階には玄関は一つしかなかった。つまりペントハウスってやつだ。
 チャイムを鳴らすと、インターフォンに明かりがついた。カメラ付きだ。
 インターフォンひとつとっても、あきらかに五階までの賃貸部屋とはクオリティーが違う。
「どなたさま」
「夜分、おやすみのところ申し訳ございません。わたくし、高田馬場〇丁目にある『すずめ夜間保育園』で保育士をしております坂寄と申します」
 二度目で要領をつかんだのか、さっきより坂寄の口は滑らかだ。
「……」
 返答はない。深夜にいきなり訪問されているのだから、当たり前と言えば当たり前の反応だ。
 坂寄はかまわずインターフォン越しに話を続けた。
「うちの卒園児の片平めぐみちゃんから電話があって、いま、同僚と二人で五〇三号室のお宅へ行ったんですが、片平さんはもう引っ越されたと伺って。大家さんがこちらにお住まいだとお聞きして、失礼を承知で伺いました。……片平さんの引っ越し先の住所をご存じないかと」
 そう言ったところで玄関のドアが薄く開いた。チェーンがかかっている。
「片平さんだったら去年の春に越しましたよ」
「引っ越し先はご存じないでしょうか」
「住所までは聞きませんでしたけど……。なにかあったんですか? うちのマンションにいたころから、帰りが遅くてね。夜中に子どもを連れ歩いてるってちょっと噂になったこともあったんですよ」
「それは」と口を挟もうとする風汰を坂寄はたしなめるようにシャツを引き、「夜分申し訳ありませんでした」と、大家に頭を下げた。
 エレベーターのドアが閉まると、坂寄はため息をついた。
「まさか引っ越しているとは思わなかった」
「そっすよね」と、風汰はスマホを見た。二十三時四十分。めぐみちゃんから電話がかかってきてから四十分になる。
 とりあえず連絡してみる、とエレベーターを降りると坂寄は園長の携帯に電話した。
「坂寄です。マンションには着いたんですけど、めぐみちゃんは引っ越していて。――はい、大家さんとも話せたんですけど、引っ越し先はわからなくて。――あ、お母さんの携帯もだめですか。なんとかめぐみちゃんに連絡がつくといいんですけど。もう一度かけてきてくれれば」
「あっ!」唐突に声をあげた風汰に、坂寄はびくりとからだを揺らした。
「こっちから電話すればいいじゃないっすか」
「だから、お母さんの携帯には連絡つかないし、家電の登録は園にはないのっ」
「ナンバーディスプレー!」
 風汰の声に電話の向こうで園長がすぐに反応した。
「いま見てくれてる」と坂寄は風汰に言ってスマホを握りしめた。
「わかったって。番号メモして」
 坂寄が園長の言う数字を復唱すると、風汰はそのままスマホのキーパッドにその番号を入れて、通話マークをタップした。
 呼出音が鳴る。一回、二回、三回……、「もしもし」勢いよく風汰が話しかけると、留守番電話に切り替わった。
「もしもし、めぐみちゃん、いたら出て。おれ、風汰せんせーだよ。めぐみちゃん!」
『もしもし』
 でた! 風汰はスマホを耳に押し付けた。
「めぐみちゃん、いまね、おれと千温先生、めぐみちゃんちに来たんだけど、ここ、まえの家だったみたいなんだ。めぐみちゃんのいまのおうちどこか教えてくれる?」
『ふうたせんせえ?』
「うん、そう。いまからめぐみちゃんち行くからな」
 うん、と言って、すんすん鼻をすすっている。
「住所言える?」
『……いえない』
「なら、小学校の名前教えて」
『とびしょうがっこう』
 戸尾小学校ならここからそう遠くない。
「家の周りになにがある?」
『ポストとこうえん』
 このあたりで公園といえば戸山公園だ。明治通りをはさんで西側と東側にある。尾張藩主の徳川光友が造った庭園の跡地だとかで、その一角にある箱根山は山手線の内側で一番標高が高いと言われている。風汰も一度行ってみたけれど、「山」とつけているのが申し訳ないような丘だった。
「そのほかになにかない?」
 えっとね、と言ったあと、しゃーっとカーテンを開ける音がした。
『めぐみんちのまえにね、おおきなぼうしがある』
「帽子って、頭にかぶる帽子!?」
 ……小学二年生の理解度とボキャブラリーを買いかぶりすぎていた。帽子って、それは落とし物かなにかだろう。肩を落とす風汰に「これじゃない?」と、坂寄がスマホを見せた。
 画面には店の壁面に巨大な麦わら帽子が引っ付いている。帽子屋の立体看板のことか!
「めぐみちゃん! 先生たちめぐみちゃんち分かったから、いまから行くからね」
 坂寄は風汰が手にしているスマホに向かって声を張った。
 帽子屋の場所は検索するとすぐにわかった。
 再び自転車に乗り、しっとりと湿度の高い深夜の街を走る。戸山公園を外からなぞるように進み、突き当たりを左折して進んだ先を曲がっていく。
 ナビではその帽子屋はもうすぐだ。左手に小さな公園もあった。
「あそこ!」
 坂寄が伸ばした指の先に視線を向けると、さっきスマホの画面で見た店があった。
 たしかに帽子だ。
「ってことはこのへんっすよね」
 自転車を止めて周囲を見回しながら、めぐみちゃんの番号をタップした。
『ふうたせんせえ?』
「うん。いま帽子のところまできたよ。……めぐみちゃん? もしもーし」
 風汰がスマホに話しかけていると、帽子屋の斜向かいにあるアパートの二階のドアが開いてめぐみちゃんが顔を出した。
「めぐみちゃん!」
 風汰と坂寄はアパートの前に自転車を止めると階段を駆け上がった。
「ちはるせんせー」
 駆け出してきためぐみちゃんを坂寄が抱きしめた。
 風汰はほっと息をついて、とりあえずめぐみちゃんと会えたことを園長にLINEすると、すぐに既読がついた。返信がないのはお迎えに来た保護者の対応に追われているからだろう。今日は零時から一時までのお迎えが三人いる。
「一度おうちに入ろうか」
 額にぺたりと張りついているめぐみちゃんの髪をそっとなでながら坂寄が言うと、めぐみちゃんは「うん」と坂寄の手を引いた。
 玄関の横にミニトマトの苗を植えた小さな青いプラスチック製の植木鉢があった。夏休みに学校から持ち帰ったものだろう。大きな葉があちこちに張りだし、支柱にもたれるようにして赤や青い実をいくつもつけている。
「おじゃまします」と玄関のドアを開けた瞬間、むっとこもった空気が肌にまとわりついた。部屋のなかは蒸し風呂のようだった。エアコンは設置されているけれどついていない。
「冷房つけないと熱中症になっちゃうよ」と風汰がテーブルの上のリモコンを手に取ると、「つかなくなっちゃった」とめぐみちゃんは残念そうに言った。
「窓あけるね」と、坂寄が言うと、「だめ」とめぐみちゃんは坂寄の前に回り込んだ。
「まどはあけちゃダメ」
「どうして?」
「ママが、どろぼうがはいってきたらこわいから、まどはあけちゃだめって」
 そうだね、と坂寄は腰をかがめた。
「でもいまは、先生たちがいるから大丈夫。ね、風汰先生」
 おうっ、とファイティングポーズをとると、めぐみちゃんは「いいよ」とこくんとした。
 部屋の中はきれいだった。というよりあまりモノがなくがらんとしている。ただ、ゴミ箱の中には菓子パンやスナック菓子の空き袋がいくつも入っていた。
「めぐみちゃん、おなかすいたでしょ」
 坂寄が言うと、「すいた」とめぐみちゃんはこたえた。
「じゃあ、先生たちとこれから保育園に行かない? 園長先生がごはん作ってくれるし、シャワーもしたらさっぱりするよ」
「でも、ママが」
 めぐみちゃんはTシャツの裾を両手で握ってこすり合わせている。
「大丈夫。ママには、めぐみちゃんは保育園にいますって、お手紙を書いておくから」
 ね、と坂寄が目じりを下げると、めぐみちゃんは小さく頭を動かした。

 めぐみちゃんのお母さんへ
 すずめ夜間保育園の坂寄です。十一時過ぎにめぐみちゃんから電話があって、斗羽先生と様子を見に来ました。
 お母さんが帰っていないようですので、いったん保育園でめぐみちゃんをお預かりします。お帰りになったら、ご連絡ください。
       〇三-××××-××××
      すずめ夜間保育園 坂寄千温

 着替え一式を持ち、お絵描き帳にお母さんにあててメモを残してアパートを出た。
「ほいよ」と風汰が自転車のハンドルを握ると、めぐみちゃんはうしろのチャイルドシートによじのぼった。小学生にはシートのサイズは少し小さいけれど、めぐみちゃんはすんなり収まった。

 

(つづく)