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 みんなそろったところで、「いただきます」をする。ノコちゃんには井浦がマンツーマンでつき、園長と遅番の千温と斗羽は子どもたちの間に入って、一緒に食事をする。数年前までは子どもたちが寝た後、順番で食事をとっていたけれど、「家ではお母さんたちも一緒に食事しているよね」と園長が言い出して、いまは保育士も一緒に食事をするようになった。途中でおかわりをする子や食事が進んでいない子のところへ行くなどで席を立つことはあるが、それも家庭で親がしていることと変わらない。
「これね、ママがつくったんだよ」
 芹香ちゃんが髪を結わいているシュシュを指さして浩介に見せている。
「すごいね」と言うと、大きくうなずく。
「ママはね、おしごともがんばってるんだよ」
「もえのママもがんばりやさんだよ」
「おとーも!」と空君がイスに座ったままからだを揺らした。
 浩介は圧倒されたように「すごいね」と引きつった笑みを浮かべている。
「おにいちゃんのおかあさんもがんばってるよ」と、芹香ちゃんが振り返って千温を指さすと、浩介は小さくうなずいてきゅうりを口に入れた。
 もくもくとごはんを食べる子、おしゃべりに夢中になってなかなかお皿の料理が減らない子、スープをこぼす子、箸を落とす子、食事中は忙しくてにぎやかだけれど穏やかだ。そんな様子をさっきから浩介は神妙な表情で見ている。
「浩介?」と千温が声をかけると、「こーすけ」と明日奈ちゃんが真似をしてけらけら笑った。
「あすなちゃんはね、やさしいこなんだけど、いじわるなの」と、真面目な顔をして浩介に耳打ちする芹香ちゃんに、浩介はくすりと笑った。それを見ていた翔真君が立ち上がって、「あのね」と浩介のところに行こうとすると、「翔真君」と斗羽が注意をする。
「ごはん中は立ち歩いていいんだっけ?」
「だめだよね」と萌ちゃんと空君がうなずき合っている。唇を尖らせる翔真君に「あとでね」と浩介が申し訳なさそうに言った。
 食べ終わった子は配膳台に食器を戻して、思い思いのあそびを始める。十八時半を過ぎても食べているのは萌ちゃんだけだけれど、隣に斗羽が座って麦茶を飲んでいる。これは、最後ひとりになった子どもを焦らせたり、取り残されたような気持ちにさせないための配慮だ。
 千温が和室に布団を広げていると、浩介がそろりと近づいてきた。
「本当にみんなここで寝るんだ」
「そうよ。夜だからね」
 タオルケットをたたみながら千温が笑うと、浩介は保育室であそんでいる子どもたちに目をやった。
「千温先生」と、拓士君をおぶった園長が来た。
「茉莉絵先生が少し残ってくれるっていうから、いまいいわよ、浩介君と」
「あの」と浩介が口をはさんだ。
「おれ、じゃなくて、ぼく、もうちょっとここにいてもいいですか?」
 えっ? と驚いて浩介を見た。
「かまわないけど、でもあんまり遅くならないほうが」
 と園長が千温に目をやった。
「それならわたしが送っていくので!」
 千温は思わず口にして、ごくりとつばを飲んだ。
「わたしも、もう少し浩介に子どもたちを見てもらいたいと思って」
「……千温先生がそう言うなら。でも浩介君はまだ五年生なんだから、子どもたちが寝るまでね」と言って、園長は戻って行った。
「ありがと」とぼそりと言う浩介に、千温はううん、とかぶりを振った。
「でも、礼香さんにはいま連絡をして」
「……しなきゃだめ?」
「だめ。塾に行くってうそをついたこともちゃんとあやまらないとね」
 浩介はため息をついて、ポケットからスマホを出すと園庭に出た。

 夕食の片付け、風呂、歯磨きをすませて、二十時半になると部屋のあかりを間接照明のやわらかなあかりに替えていく。眠たくなった子は布団の部屋に行ってごろごろし始め、二十一時には全員布団に入る。
「浩介君もこっち来て」と斗羽に言われて、浩介は空君と明日奈ちゃんの布団のあいだに座った。
「眠かったら、浩介君も寝ちゃっていいよ」
「眠たくないです」と浩介は真面目な顔をして、「あの子は寝ないんですか?」と保育室で園長に絵本を読んでもらっている、あーちゃんに目をやった。
「ああ、うん。あーちゃんは一時保育で九時半のお迎えだから」
「イチジ保育?」
「えっと一時的って言えばわかりやすいかな。いま寝てる子たちは、毎日登園してくるんだけど、あーちゃんは今日一日だけ預かってるわけ」
 斗羽の説明に浩介はへーっとうなずいた。
「そういうのもあるんですね」
「あるよ。そんなに多くないけどさ、家族が入院して親が付き添わないといけないとか」
「そっか、子どもを連れて行けないとこってありますよね」
「そうそう。ほかにも美容院に行きたいとか、少し息抜きしたいって親もいるよ」
 えっ、と目を見開く浩介を見て斗羽はにやりとした。
「いま、そんなことで子どもを預けるの? とか思ったっしょ」
 気まずそうに浩介はうなずいた。
「だよね、おれも最初はそう思ったし。でもさ、ワンオペでずっと育児するって想像するよりきついんだと思うんだ。そりゃあ三人も四人も一人で子どもを育てたっていう人もいると思うよ。でもそれができる人と、苦しくなる人っているんじゃないかな。ほら、大食いの人っているじゃん。三キロのラーメン食っちゃいます、みたいな。そういう人もいれば一人前のラーメンも完食厳しいって人もいるっしょ。あれと同じだと思うわけ。同じ人間でも頑張れるラインみたいなのってみんな違うんだなって思ったらなんか納得できたんだよね」
 なるほどね、と千温はノコちゃんを寝かしつけながら二人の会話を聞いていた。
「大食い……」
 浩介がつぶやくと、そうそう、と斗羽がうなずいた。「ふうたせんせい、おしゃべりうるさーい」と、芹香ちゃんにぴしゃりと言われて、「ごめんごめん。しー、ね」と、斗羽は舌をのぞかせた。
 斗羽に促されて、浩介が空君と明日奈ちゃんにとんとんしはじめると、空君はことんと眠ってしまった。一方の明日奈ちゃんは両手の指を絡めてカエルの形を作ったり、隣の萌ちゃんの布団に転がったりと、まだまだ眠りそうもない。
「目をつぶったほうがいいよ」
 おそるおそる浩介が声をかけると、「ねむくないもん!」と明日奈ちゃんは足をばたばたさせた。浩介は助けを求めるように斗羽に視線を送ったけれど、肝心の指導役はこくりこくりと居眠りをして、寝かしつけているはずの翔真君に「ねえねえ」と揺すられている。
「代わろうか」
 千温が声をかけると、浩介はほっとした顔を見せて、いそいそと立ち上がった。千温が座ると、明日奈ちゃんはもぞもぞと起き上がって抱きつくようにして千温のひざの上に座った。背中に手を当ててからだを揺すっていると、すっと明日奈ちゃんのからだの力が抜けていった。
 二十一時半過ぎ、あーちゃんのお母さんが迎えに来た。チャイムの音で一歳児のノコちゃんが目を覚まして、「ママ、ママ」と起き上がった。「ノコちゃんのママはまだお仕事だからね」と千温はもう一度寝かしつけた。
 眠りの深さも子どもによって違う。眠ったままお母さんに抱えられて、朝、目を覚ますと家の布団の中という子もいれば、いままで眠っていたはずなのに、お母さんの足音で目を覚ます子や、お迎えはいつも一時半から二時の間だけれど、少し前の時期に零時半ごろのお迎えが続いていたせいか、いつも零時半に一度目を覚ます子もいる。
 どの子もお母さんやお父さんのお迎えを待っている。
「向こうへ行こうか」
 浩介に声をかけると、あくびをしながら斗羽もあとからついてきた。
「浩介君を送っていくんすよね。おれ、子どもたち見てるんで、もしあれだったらいいっすよ。ね、園長」
「そうね、わたしもいるし、慌てないでいいから」
 壁掛け時計をちらと見た。もう二十二時近い。
「すみません。十一時半までには戻れると思うので、よろしくお願いします」
「ところで、保育体験はどうだった?」
 園長が言うと、浩介はわずかに首を傾げた。
「思ってたのとちょっと……けっこう違ってました」
「だよねー、わかるわかる。おれも中学んとき職場体験で保育園に行ったんだけど、そんとき思ったもん。マジでミスったって」
 そう言って鼻をこする斗羽に、浩介は「そういうんじゃなくて」と苦笑しながら、ん? と眉を寄せた。
「ミスったって思ったのに、保育士になったんですか?」
 意外そうに言う浩介に、斗羽はへへっと笑った。
「そろそろ行こう」と声をかけると、浩介はうなずいて、園長と斗羽に会釈をした。
「また来いよ、浩介君はおれの弟子第一号だからさ」
「だれが弟子なのよ」と、千温は笑いながら、行ってきますと二人に頭を下げた。

 園の外に出ると蒸し暑い空気が肌にまとわりつく。大通りを走る車のタイヤ音にまじって聞こえる虫のに耳を澄ませながら、千温は浩介の手をにぎった。
「なに?」
「いいじゃない、たまには」
「……まあいいけど」
 浩介の手をにぎったのは二歳の頃以来だ。これから思春期になって、こんなふうに母親と手をつないでくれることもなくなっていくのだろう。想像していたより大きくなっている手を握り直した。
「あれ、冗談じゃなかったんじゃない?」
「あれって?」
「お母さんと暮らしたいって言ったらどうするって」
 千温は隣を歩く浩介を見た。
「もし、浩介が」
「違う」と、浩介が足を止めた。アスファルトの上にふたりの影がのびている。
「おれ、今度にいちゃんになるんだって」
「……礼香さんに赤ちゃんが」
「来年の春に生まれるんだって」
「そうなの」
 浩介は不安なんだろうか、礼香の愛情が生まれてくる妹か弟に移ってしまうのではないかと。それとも、祖母になにか言われたのだろうか。
「みんなすごく楽しみにしてて、おれも嬉しいって言った。でも、本当はぜんぜん嬉しいとか思えなくて……やだなって」
「赤ちゃんが生まれてくるのがいやなの?」
 じゃなくて、と浩介はかぶりを振ってぼそりと言った。
「嬉しいって思えないこと。こんなんじゃ、おれ、にいちゃんになんかなれない」
 ふっ、と千温は息をついた。
「大丈夫」
 浩介が顔を上げた。
「大丈夫。浩介は妹か弟が生まれてきたら自然と嬉しいって思えるから」
「そんなのわからないよ」
「わかる。あのね、浩介がおにいちゃんになろうとしなくても、生まれてきた赤ちゃんが浩介をおにいちゃんにしてくれるから。……でも、もしどうしても苦しかったら、お母さんのところへ来たらいいよ。逃げておいで」
「……」
「浩介の居場所は、お母さんのところにもあるってことは忘れないで」
 浩介は唇を噛んで、それから小さくうなずいた。
 どこかに自分の居場所がある。受け入れてくれる人がいる。そう思えることで人はほんの少し強くなれる。
 千温にとってのそれは、『すずめ夜間保育園』だった。
 九年前、浩介を置いて逃げるように家を出たあと、研修で夜間保育園の話を聞く機会があった。無認可で、しかも深夜まで子どもを預かる夜間保育というものに偏見がなかったといえばうそになる。昼間のほうが保育士としてのやりがいも満たされるし、保育士としてのスキルも生かせると思う。
 けれど、『すずめ』の園長の話を聞いた直後、やってみたいと思った。

「夜間に保育を必要としている子どもと親がいます。親の働き方がどうの、子どもの発達がどうのといろいろな意見はあると思います。理想ならわたしもいくらでも言えます。でも、現実に、目の前に、夜間の保育を必要としている家族がいます。その親子を切り捨てていいんでしょうか。昼間の保育を必要としている子どもと同じように、夜間に保育を必要としている子どもがいます。この子たちにも平等に保育を受ける権利があります」

 夜間保育に必要なのは保育士としてのスキルより、ある意味のゆるさと母性、なのではないか。
 わたしを必要としてくれるのは、わたしが必要としているのは、ここかもしれない――。
 あのとき千温はそう思った。

「おれ、夜間保育園の子ってもっとかわいそうな感じかと思った」
 この間も浩介はそんなことを言っていた。昼間の保育園ですら、蔑んでいた祖母になにか言われていたのかもしれない。
「どんなふうに見えた?」
 浩介は、しばらく考えて首をひねった。
「ふつう……」
「ふつう?」
「そう。ふつう。あ、これみたいに」と、胸のポケットから芹香ちゃんにもらった三つ葉のクローバーを取り出した。
「ふつうにあそんでて、ふつうにごはん食べて、ふつうに笑ってて」
 千温はふっと笑みをこぼした。
「そうね。ふつうだね」
 四つ葉ではなくどこにでもある三つ葉のクローバー。それって最高ではないか。保育園は子どもたちにとって特別な場所ではなく、あたりまえに生活できる場であってほしい。あたりまえに甘えて、笑って泣いて、くつろげる場所であってほしい。
「でもね、みんな待ってるんだよ。お母さんやお父さんがお迎えに来てくれるの」
「……」
「すごいなって思うの、みんな。子どもたちもお母さんたちも、みんな一生懸命なんだよ。そういう姿に、お母さんのほうが勇気をもらってる」
「……ちょっと、わかるかも」
 そう、と千温は前を向いたままうなずいた。
 高田馬場の駅まで着くと、「浩介君!」と声がして、改札口から礼香が駆けてきた。千温に頭を下げて泣きそうな顔をしていた。
 浩介は千温の手を離して、「迎えに来なくていいのに」と少し拗ねたような、甘えたような声音で礼香に言った。
「そうなんだけど、でも、うん」
 二人を見て、ほんの少し胸の奥がちくりとした。
「礼香さん、わざわざすみません。最寄り駅まで送るつもりだったんですけど」
「あ、すみません。勝手にわたし」
「いえ、子どもたちを同僚に任せてきているので。本当はあまり時間がなかったんです」
 そう言うと、礼香はほっとしたように表情を緩めた。
「お母さん、じゃあね」と、浩介は手を上げて、「帰ろ」と礼香さんに言った。
 じゃあね。千温も手を上げて、改札口の中へ入って行くふたりを見送った。

 もしもあのとき別の選択をしていたら、そんなことをふと考えるときがある。
 あのときの判断が、選択が、正しかったのか間違っていたのか、それは分からない。分からなくていいのだと千温は思っている。
 結局はいまを生きるしかないから。懸命に、勇気をもって、ときに誰かの手をにぎり、もたれ、誰かにとっての支えになって。
 保育園に帰ろう。雑踏の中、千温は踵を返した。

 

(つづく)