二十二時半。子どもたちを寝かしつけたあとは、園長も坂寄も風汰も放心状態だった。
さすがの園長もさっきから何度かあくびをしている。
「園長先生、今日はもう上がってください」
坂寄が言うと、やつれた顔に笑みを浮かべて「大丈夫」と言うが、どう見ても大丈夫とは思えない。
「園長先生に倒れられたらそれこそまずいんで。今日はわたしと風汰先生でお迎えの対応はできるので任せてください」
ねっ、と言う坂寄に風汰も大きく頷いた。
「……じゃあ、お願いします。めぐみちゃんはわたしと一緒に二階で寝るから、子どもたちのお迎えが終わったら先生たちはあがってください」
そう言って子どもたちが寝ている畳の部屋へ行こうとする園長に、「めぐみちゃんは、おれが運びます」と風汰は立ち上がった。
めぐみちゃんを抱いて二階へ上がると、園長は押入れから布団を出して、「ここにお願い」と手早くシーツを広げた。
布団の上に寝かせると、風汰はその寝顔をまじまじと眺めた。
「警察に行って少し安心したんすかね」
「そうね、多少は。でもそれより疲れが限界だったんじゃないかな。昨日はほとんど眠れていなかったから」
「そうなんすか?」
園長はめぐみちゃんを見つめながら力なく笑みを浮かべた。
「風汰先生も昨日からごめんなさいね」
下からチャイムの音が聞こえると、「おれはまだ若いんで」と、風汰はひょいと立ち上がって階段を駆け下りていった。
二十二時四十分にノコちゃんのお迎えがあり、つづいて拓士君のお母さんが来た。そのあと少し間を置いて、零時半前後に翔真君、芹香ちゃん、空君、萌ちゃんが降園した。
「今日はみんなお迎え早いっすね」
残っているのは明日奈ちゃんだけだ。
「ほんと、まだ一時まえなのに」
坂寄が熱いお茶をいれた。
どうも、と風汰は湯呑を受け取ると、あちっとあわてて机の上に置いて、指に息を吹きかけた。
「若い子って熱いもの持つの苦手だよね」
「そっすか?」
「なんとなくそんな気がする。わたしも若いときは持てなかったもん。母親が熱い丼でも鍋でも平気で素手で持ったりするの、本当に信じられなかった」
「あ、たしかにおれんちのかあちゃんもそうっす」
「でしょ。けど最近わたしもけっこういけちゃうんだよね」
「あー、年ってことっすね。感度鈍くなってるとか」
こらっ、と坂寄がにらむと、風汰はへへっと笑った。湯呑に口をつける。渋いけれど甘みのある緑茶の風味が鼻に抜ける。
「お茶をうまいって思うようになったのも、年をとったってことなんすかね」
「あぁ、うん。味覚も変わるよね」
坂寄もお茶に口をつけた。窓の外からアスファルトを走る車のタイヤ音に交じって、虫の声が聞こえてくる。
「……大人になるって、慣れるってことなんすかね」
「ん?」
「慣れるっていうか、鈍くなる?」
風汰はそう口にして首をひねって続けた。
「大人は子どもよりいろんなことを知ってるし、できるし、わかってるはずなのに、平気で大事なものを傷つける。傷つけてることだってわかってるはずなのに気づかないふりをして……。でも子どもはそういうことできないじゃないっすか。大事なものは全身で全力で大事で。できるわけないってことでもやろうとして、大切なものは必死で守ろうとして」
それが切ない。なぜならそういう子どもに大人は甘えるからだ。
子どもはもっと頼っていい。甘えていい。わがままでいい。そうやって育った子どもは自分を大切にできるから。人を信じることができるようになるから。
「そうだね」
「おれ、嫌なんすよ。そういう子どもにもたれる大人。子どもが肩に力入れて踏ん張ってるの見ると、マジでなんでだよって」
坂寄は眠っている明日奈ちゃんに目をやって湯呑を机の上に置くと、抑えた声で言った。
「めぐみちゃんのことを言ってる?」
「だけじゃないっすけど、まあ、そうっすね」
「まだ事情はわかってないよ。考えたくはないけど、事故とか事件とかに巻き込まれている可能性だってあるでしょ」
「でも、どんな事情があったとしても、一晩だけのつもりだったとしても、めぐみちゃんを置いて行ったのは事実じゃないっすか」
食べ物を用意しておけば一日や二日なら留守番できるって……、めぐみちゃんは猫じゃない。
「お母さん、折れちゃったのかな……」
はっ? と風汰は眉を寄せた。
「お母さん、ずっといいお母さんしてたでしょ。連絡帳だって毎日びっしり書いてきて」
たしかに、在園中のお母さんはめぐみちゃんを蔑ろにするようなこともなく、むしろ熱心で真面目な母親だった。忘れ物をしたこともない。提出物も確実で、記入漏れなどもなく出してくれた。疲れていてもいつも笑顔でお迎えに来て礼を言って帰る、そんなお母さんだった。
「連絡帳って、お母さんたちは家での様子を書いてくれるじゃない。最近なかなか寝てくれないとか、朝ごはんを食べてくれないとか、こだわりが強くて困っているとかさ。あとは、ついイラっとして怒鳴ってしまいました、みたいに反省したこととか後悔したこととかね。でもめぐみちゃんのお母さんが書く連絡帳って、ものすごくポジティブだったんだよ。『家に帰ると目を覚まします。睡眠をちゃんととらせたいと思いつつ、おしゃべりをしているのが楽しくて、ベッドの上で一時間くらいおしゃべりしたり、絵本を読んでいます』みたいに」
そうっすね、と頷きながら風汰も思い出していた。連絡帳を読みながら、そこ、怒るんじゃなくて“成長している”って喜ぶんだと感心したことがあった。
「完璧なのよ。育児書に書いてあるみたいに正しい子育て、正しいお母さんなの」
「正しいお母さんっすか」
坂寄はため息をついて、机の上で手を組んだ。
「それって、すごく苦しいことだと思う。だいたい正しい母親なんて存在しないからね。みんな間違えるし、感情的になることもあるし、そもそも母親ってお母さん単独ではなれないでしょ」
「あ、子どもか」
「うん。子どもがいるから親になれるんだもん。育児書に書いてある、どこかの偉い先生の言ういい母親、正しい母親が、わが子にとってのいい母親とは限らない」
そう言って、「わたしも息子が生まれたとき、いい母親になるんだって思った口だけど」と、坂寄は苦笑した。
「そうなんすか?」
「みんな、一度はそんなこと思うんじゃないかな。いいお母さんって、呪いのことばだよね。でもふつうは続かないし、できないんだよ。だから楽になれるの」
「めぐみちゃんのお母さんは」
「できちゃったんだと思う。でもそれはいつまでもできるものじゃないから」
だから折れた。黙り込んだタイミングで机の上に立ててある電話の子機が鳴り、二人はびくりとからだを揺らした。この時間に電話が鳴ることは珍しい。風汰が子機をつかんで通話ボタンを押す。
「はい」と言うと間髪を容れず『もしもし』と声がした。
『風汰先生? 貝瀬です』
「あ、明日奈ちゃんのお母さん。どうかしました?」
『門の前にさっきから変な人がいて、怖くて入れないんです』
「門って保育園の?」
『そうですっ』
お母さんの声があきらかに苛ついている。すみません、と風汰は子機を耳にあてたまま頭をさげる。
「おれ、いま見てくるんで。お母さんは門から離れててください」
『タクシーの中にいるので大丈夫です』
「いいって言うまで出ちゃダメっすよ」
通話を切り子機をテーブルの上に置いた。
「門の前に不審者がいるらしいんで、おれ、見てきます」
えっ、と坂寄は驚いて風汰の手首をつかんだ。
「一人じゃあぶない」
「でも、門は施錠されてるし、やばいってなったら一一〇番しなきゃだけど、二人で行ったらそれできないし」
園内にはまだ明日奈ちゃんもいるし、二階にはめぐみちゃんと園長もいる。
一瞬、坂寄は間をおいて、「わかった」とうなずいた。
「玄関で待機してるから慎重にね。門の外に出たら絶対にだめだから」
坂寄はテーブルの上の子機をつかんだ。
「大丈夫っすよ。それよかその子機、門の解錠用のやつっす」
風汰が言うと、坂寄ははっとしたように握っている子機を見てテーブルの上に置いた。
「間違って門の解錠ボタン押さないでくださいよ」
じゃあ、と廊下に出た。玄関で風汰はサンダルではなく、履きなれたスニーカーに足を入れた。いざというときスニーカーの方が動きやすい。
玄関のドアを押して顔を出した。いつもは優しく穏やかに感じる電球色の灯りが薄気味悪く感じる。
「いた?」
背中からの声に風汰の心臓が跳ねた。
「急に話しかけないでくださいよっ」
ごめんごめんと坂寄は子機を持ったまま手を合わせた。
まったくもう、と言いながら風汰は玄関の外に出た。
施錠されているとわかっていても、正直怖い。そろりそろりと歩きながら門の向こうに目を凝らす。
「あのぉ、だれかいますか?」
小声で言ったけれど、昼間より声が響く。これでいきなり「います!」などと声がしたらホラーだ。と思いつつ門まで辿りついた。
なんだ、いないじゃん。
ほっとしたとき、右手の門柱の陰から人影が現れた。
ひぃ、と情けない声が口から洩れて、半歩後ずさる。と、次の瞬間、風汰は目をむいた。
門の向こうに、めぐみちゃんのお母さんがいた。覇気がない。シワのよった服とどことなくうねっている髪……。雰囲気が以前とはあきらかに違う。
「ちょっと待ってください、いま開けるんで」
門のわきにある解錠ボックスを開けて暗証番号を入れると門を引いた。立ちすくんだままのお母さんに「どうぞ」と言うと、ためらいがちに足を出した。風汰のうしろをついてくるお母さんはなにも言わない。めぐみちゃんの所在を確かめることも、なぜここにめぐみちゃんがいるのかと問うことも、謝ることも怒ることも泣くこともない。
玄関のドアを引いて「どうぞ」と、お母さんを中に促すと坂寄の眉があがった。
「明日奈ちゃんのお母さんに、大丈夫だからお迎え来てくださいって連絡してもらっていいっすか」
「あ、うん、伝える」と、坂寄は握っていた子機に耳を当てた。
「関係者の人だったんですね」と、明日奈ちゃんのお母さんは、事務室をちらちら見ていたけれど、それ以上のことは聞かなかった。
明日奈ちゃん親子を見送ると、「園長先生呼んでくる」と坂寄は二階にあがって行き、すぐに髪を無造作にヘアクリップでまとめた園長と事務室へ戻って来た。
「お母さん……心配したんだよ」
お母さんの手を握って「無事でよかった」と園長が言うと、お母さんは小さく頭をゆらした。
「冷たいお茶、いれますね」
坂寄は冷蔵庫から麦茶を出してグラスにそそいだ。
「留守番電話を聞いてくれたのね?」
お母さんはうつろな目でこくりとした。
「来てくれてよかった。めぐみちゃん、すごくお母さんのこと心配していたの。わかるよね。帰ってくるって言った日を過ぎても帰ってこないって、どれだけ不安になるか。それで保育園に電話をくれたの」
お母さんはまばたきもせず、じっと足元を見つめている。
「わたしたちも心配したんだよ。どんな事情があったとしても連絡だけはしなきゃ。めぐみちゃんからの電話、気づいてたでしょ。電話してもLINEしても返信がなかったら、事故にあったんじゃないかとか、なにか事件に巻き込まれたんじゃないかって、待っている方はいろいろ想像して不安になるの」
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。園長は静かに息をついた。
「言わなくてもわかってるよね。……こういうこと、以前にもあった?」
風汰と坂寄は顔を見合わせた。
「めぐみちゃんを置いて数日家を空けるとか、夜ひとりにさせるとか」
「……だったらなんなんですか」
かすれるような声でお母さんがつぶやいた。
「大事なことだから聞いているの」
園長は冷静だった。
「関係ないじゃないですか、もう」
膝の上でこぶしを握るお母さんの手に、園長が手を重ねると、お母さんは視線を落としたままびくりとした。
「頑張りすぎちゃったかな」
お母さんは園長の手をふりほどいて立ち上がった。
「めぐみはどこですか」
「上で寝ています」
「連れて帰ります」
お母さんのことばに風汰は反射的にドアの前に立った。
「ダメっす。めぐみちゃん、返せません」
お母さんは顔をゆがめた。
「めぐみはわたしの子どもです」
「おれは、保育士です」
お母さんは数度まばたきをして、くっと笑った。
なんで笑うんだ。風汰は奥歯をかみしめてあごをあげた。
「だからなんなんですか。保育士って仕事でしょ。降園したら子どもから解放されて、卒園したらさよならで、なんの責任もなくなる。でも、親はちがう」
「……それはそうよね」
ひりついた空気のなか、そう呟いた園長を、風汰は思わず二度見した。
「園長までなに言ってんすか」
憮然とする風汰を見て、園長はふっと笑った。
「お母さんの言ってることはその通りだなって思って。保育士は親とは違う。当たり前でしょ」
どっちの味方なんだ、と風汰は眉をひそめた。
「だからって、子どもは親だけで育てられるものじゃないし、そもそも育児って親だけでするものでもないと思うの。でも残念だけど現実は、圧倒的に親にのしかかってる」
だから親は追い詰められて、そのしわ寄せが子どもにいく……。
「……保育園のときは夜中まで預けられたから仕事もちゃんとできていたし、疲れてしんどいことはあっても、子育てにも手を抜かずに頑張れたんです」
お母さんは、すとんとソファーに腰を落として、ぼそぼそと続けた。
「でも、小学校へ行くとぜんぜん違うんです。学童保育は遅くても九時までで、六時を過ぎたらお迎えが必要で。仕事も残業はあまりできなくなって、でもわたし、家でできることは全部持ち帰ってやったんです。めぐみの面倒を見る時間もなくて、でもあの子はひとりでお風呂にも入ったし、歯磨きもしてひとりで寝てくれました。どうしても家ではできない仕事があるときは、お迎えなしで子どもだけで帰宅していい六時に帰らせるようにして、何時間も一人で留守番させました。しっかりしていても子どもですから、鍵をかけ忘れていることもあったし、雨の日に泥のついた足を拭かずに入って、部屋中足跡がついていたり、蛇口を閉め忘れて水が出しっぱなしになっているなんてこともありましたけど」
小さく笑ってお母さんは視線を泳がせた。
「最初は心配で、なるべく早く帰っていたんです。でも慣れてくると、もう少し大丈夫、あと少しと帰宅時間が遅くなって」とお母さんは呟いて息をついた。
「めぐみにも我慢させて、わたし、保育園のときと変わらないくらいのペースで仕事しました。そしたら、子どもを一人で留守番させているらしいって、上司に言った人がいて……。だれが言ったかは見当はついているんですけど。家庭に負担がかからないようにって、総務へ異動になりました。めぐみのせいじゃないって頭ではわかっていても、どうしても……。そんなふうに考えてしまう自分が嫌で」
「それで、転職を? あ、すみません。会社に電話をしたら退職されたって聞いて」
園長が言うと、お母さんは小さく頷いた。
「小さな出版社ですけれど、編集職で採用してもらいました。以前より忙しくて、でもめぐみは一人でちゃんとやれていました。夜遅くなってもさみしいなんて言われたこともありません」
「それは」と口をはさむ坂寄に園長は首を振った。
「家に帰ればちゃんと寝ているし、だから仕事のあと飲みにも付き合うようになりました。楽しかったんです。自分のしたいことをして生きるって、解放された気分になったんです。以前のわたしが一番軽蔑していた母親です」
まるで他人のことのように淡々と話すお母さんの顔には表情がなかった。
「四日間どこにいたの?」
「出張で伊豆へ。一泊で日曜には帰る予定だったんです。でも新宿まで戻ってきたとき足が動かなくなったんです。それで、もう一日、もう一日って」
「お仕事は大丈夫なの?」
「職場には具合が悪くなったって連絡を入れていました」
そう、と静かに言う園長を、お母さんはガラス玉のような目で見つめて唇を動かした。
「……もういいかなって。めぐみのこと、思ったのかもしれません」
風汰は心臓がきゅっとなった。
「もうとっくにいい母親なんかじゃなくなっていたんです。だったら、自由になりたいって」
園長も坂寄もなにも言わなかった。
「なら、なんで迎えにきたんすか」
「なんででしょう」
お母さんはふざけているわけでも、適当に答えているわけでもなく、本当に自分でもわからない、という目をしていた。
「心配だったんじゃないんですか?」
坂寄が言うと、かぶりを振った。
「めぐみはしっかりしているので。もう二年生だし」
「もう、じゃなくてまだ二年生っすよ」
「慣れているんです。母親がいないことに」
慣れてるって……。
お母さんの話をしているときの、めぐみちゃんの表情を思いだして風汰はいたたまれなくなった。
「慣れてなんてないっすよ、めぐみちゃん。慣れるわけないじゃないっすか。もしもそう見えたのだとしたら、それはお母さんのことを思って」
風汰が絞り出すように言ったとき、「ママ!」と背中から声がした。次の瞬間、めぐみちゃんは風汰の横を走り抜けるようにして事務室に飛び込んでくると、お母さんに抱きついた。
こわばっていたお母さんの表情がわずかに崩れた。
まだ、やり直せるのだろうか。
この親子は繋がっていられるのだろうか。
その可能性はあるのだろうか。
「ママかえろ! めぐみおきがえしてくるね」
廊下に駆け出していっためぐみちゃんを坂寄が追いかけていくと、園長はさっき風汰がした質問をもう一度した。
「どうして迎えに来たんですか?」
「……会いたくて、めぐみに。わたし、勝手なんです。自分のことばかりで」
園長はやわらかく微笑んだ。
「お母さん、ひとりで抱えられないときはここにおいで」
驚いたようにお母さんが顔をあげる。
「しんどくなったり、迷ったときは誰かを頼って息をつくの。……お仕事で遅くなるときは、めぐみちゃん、預かろうか?」
「小学生もいいんすかっ!?」
思わず風汰が口をはさむと、園長は肩をあげた。
「だってうち、無認可保育園だもん。自己裁量でなんだって決められるでしょ」
なるほど、破天荒。と風汰は納得した。
「ただし、必ず連絡はとれるようにしてね」
「……それって、わたしは、一人じゃ無理ってことですよね」
「へっ?」園長が首を傾げた。
「みんなはちゃんと母親をやっているのに。わたしもいい母親になろうって思っていたはずなのに」
お母さんの声が震えていた。
「ちゃんとした母親にも、いい母親にもならなくていいんじゃない?」
あのね、と園長は笑みを浮かべてお母さんの顔を覗き込んだ。
「ちゃんとしたお母さんとか、いいお母さんっていう基準を作っているのは、大人なのよね」
大人……とお母さんは戸惑ったようにつぶやく。
「子どもがどう思うか、わたしもわからない。けど、一つ間違いないのは、お母さんに大好きだって思われている、大事に思われているって感じること。親から愛されているって実感できる子どもは幸せだと思う」
「それ、おれも思ったことあります。お母さんとかお父さんがお迎えに来たときの子どもたちって、めちゃ嬉しそうなんすよ。めぐみちゃんも」
マジで、と風汰は付け加えて頷いた。
廊下から、めぐみちゃんが走ってくる足音が聞こえた。
門のところまで二人を見送った。
――親から愛されているって実感できる子どもは幸せだと思う。
手をつないで歩く親子の背中を見つめながら、「マジで」と風汰は呟いた。
「なにが?」
坂寄が問うと、風汰は「ん?」と、とぼけながら空を見上げて指さした。
東の空に橙色の帯が広がっている。
「やだー」という坂寄の声が静かな住宅街に響く。
また、朝が来た。
(つづく)