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 九時に消灯したあとも、〇歳児は五分間隔、一、二歳児は十分間隔、三歳以上の子どもたちは十五分間隔に、呼吸・姿勢・顔色などをチェックして睡眠状態を確認する。つねに子どもたちの状態を見ることができるようにと、布団を敷いている畳敷きの和室と、食事やあそびに使っている保育室との間にあるふすまは開けて顔が見えるようにしている。
「みんなよく寝てる」
 坂寄がもどってくるタイミングで、園長がトレーにマグカップと小皿をのせてきた。
「少し休憩しましょう」
「やった豆庵の葛餅!」
 坂寄には珍しく声をあげて、しまったとばかりに舌を出した。
「千温先生は葛餅好きよね」
「甘いものはあんまり得意じゃないんですけど、これは別物です」
 真面目な顔で言う坂寄に園長は苦笑して、どうぞとテーブルにのせた。
 いただきますと坂寄がピックフォークを葛餅にあてたとき、拓士君が泣きだした。
「おれ行きまーす」とベビーベッドの拓士君を抱き上げて、ん、とおしりに鼻をつけた。
 うんちだ。
「いま替えるよ、すっきりするぞぉ」
 風汰は拓士君を一度ベッドにおろして、「たくし」とマジックで名前の書いてある紙おむつを準備して、ロンパースのボタンをはずした。慣れた手つきでおしりを拭き、新しいおむつに替えると、拓士君は気持ちよさそうに「おうおう」と声をあげて、足を動かしている。うんちのついた紙おむつを手早くまるめて専用のゴミ箱に捨て、手を洗ってアルコール消毒をしてから、拓士君の連絡帳に「大 〇」と記入する。〇歳児の連絡帳には、園での様子を自由に書く欄のほかに、ミルクや離乳食の量、排泄、睡眠の記録を書く欄があるのだ。これは後回しにするとあたりまえに書き漏らす。以前、帰宅したお母さんから「今日は一度もおしっこもうんちもしていないんですか」と、心配して電話がかかってきたことがあった。
 排泄ゼロなどありえるはずもない。冷静に考えれば書き忘れたのだとわかるだろうと風汰は憮然としたけれど、その考えがどれだけ怠慢なことか、いまはわかる。
 テーブルに戻ると、園長が熱いお茶を入れてくれた。葛餅を口に入れて、ほうじ茶をすすっていると、坂寄が風汰の皿の上にある葛餅をじっと見ている。
「あげないっすよ」
「いらないわよ」
 坂寄は咳払いをしてマグカップに口をつけた。
「そうだ、拓士君のおむつ、少し小さくないっすか?」
「じゃあサイズを上げてもらうようにお母さんに伝えておいてね。次に買うときでいいからって」
「りょーかいっす。連絡帳にも書いときます」
 風汰と坂寄のやり取りを、お茶を飲みながらにこやかに聞いていた園長がふいに「ごめんなさいね」と風汰に言った。
 へ? と首をかしげる風汰に、「ノコちゃんのこと」と言った。
 ああ、と指で額をこすった。
「千温センセーに、そのうちそういうことは言われなくなるって言ってもらって少し元気出たっていうか」
 へへっと風汰が笑うと、「そんなものよ」とうなずいて坂寄はこう続けた。
「昔の医療もそうだったでしょ」
「医療?」
「そっ。女の人は男性の医者に診察してもらえなかったんだって」
「え、そうなんすか!?」
「李氏朝鮮ではね」
 リシチョウセン……いったいなんの話をしているんだ、と風汰がぽかんとしていると、「千温先生は相変わらず好きね」と園長が笑った。
「なんなんすか?」
「え? 韓国ドラマでそう言ってたって話だけど」
「……」
「まあ、医療の世界でも変わっていったんだから、おむつ替えだってそのうちね」
 感謝なんてするんじゃなかった、と風汰がため息をつくと、園長は「まあまあ」と、お茶をつぎ足した。
「ってか、おれ、園長先生はびしって言ってくれるって思ってたんすけど」
「あら」と園長はマグカップのふちを指でこすった。
「でも、言ったところでお母さんは納得しないでしょ」
「それはそーかもしんないっすけど」
「お母さんたちもいろいろなのよね。子どもに対する思いも、価値観も不安の尺度も。だからいくら大丈夫です、問題ありませんってわたしたちが言っても、嫌なものは嫌なのよ。それなら、まずはお母さんの気持ちを汲んであげるしかないでしょ。そうやってお互いに信頼関係ができてきたら、お母さんの気持ちも変わっていくんじゃないかしらね」
 そんな信頼ができるころには、ノコちゃんはおむつからパンツに移行してるだろうけど、と風汰は唇を尖らせた。
「あたしはクレームを言ってくれる保護者の方がラクかな」
「マジっすか、千温センセーマゾっすね」
 ばか、と坂寄は鼻を鳴らした。
「そりゃあ、言われたときはショックだったり、ムカッとすることもあるけど、やっぱりなにも言ってくれない保護者のほうが難しいな」
「えー、おれはそっちのほうがいいっす」
 風汰が最後の一口を食べると、「若いね」と坂寄は腰を上げて、ままごと道具の入ったケースと布巾を持ってきた。中に入っているプラスチック製の食器や野菜などの玩具をひとつずつエタノール消毒するのだ。風汰と園長も一緒に拭いていく。
「単純な話だけど、思っていることをことばにしてくれたら、なにをしてほしいのか、どんなことに困っているかもわかるじゃない?」
「そりゃまあ」
「わかれば、それをどうすればいいのか考えることができる」
「まあ、そっすね」
 ぼそぼそ答えている風汰に、今度は園長が言った。
「風汰先生は、保育士の仕事で一番大事なのはなんだと思う?」
「子ども」と即答した。
「正解。それは間違いない。でも、子どもを大事にするっていうのはどういうことだろう?」
 やわらかな口調だけれど、なにか保育士としての素養を確かめられているようで風汰は答えにつまった。
「……幸せ、とか」
 そう言ってはみたけれど、風汰にはよくわからなかった。そもそも幸せってなんだ? いや、幸せなんていうのは人によって違うんじゃないかとも思う。つっと視線をあげると園長は目を細めた。
 え、あたり? あたったのか? と頬を緩めた風汰に園長はことばをつないだ。
「子どもの幸せを考えるとき、親を無視することはできないの」
 子どもを幸せにする最短ルートは、親を幸せにすること、というのは、園長の口癖だ。
「単純な話だけど、お母さんやお父さんの笑顔を見ると子どもは安心するでしょ」
 それはわかる。子どもたちを見ていても感じる。夜中に迎えに来たお母さんが、「ただいま」と笑顔で言った瞬間、寝ぼけまなこの子どもがはっとするほど嬉しそうに笑う。だけど……保育士は親の幸せまで考えなければいけないんだろうか。そもそもそんなことができるのだろうか。少なくとも風汰は無理だと思った。
「保護者対応とかムズいっす」
 風汰がぼそりと呟くと、「そりゃあそうよ」と園長は目を見開いた。
「だって、保護者のお母さんやお父さんは、送り迎えのときに数分顔を合わせるだけでしょ。その短い時間のなかで、信頼関係を築いたり、ニーズを汲み上げるって誰にとっても至難の業なのよ」
「そっすよね……」と、ちらとマゾ坂寄を見た。
「だからって親の言いなりになるしかないっていうのは、ちょっと違くないっすか? おむつのことってノコちゃんのためっていうか、お母さんが感情的になってるだけだし。そんなに気になるんなら、預けたりなんかしないで自分で」
「風汰先生」と、園長が風汰のことばを遮った。
「それは違うよ。保育園は寿司屋でもラーメン屋でもないんだから」 
 寿司、ラーメン? 
「うちの方針に合わないならお帰りくださいっていうことはできないし、しちゃいけない。保護者はお客さんじゃなくて、子どもを育てるうえでの対等なパートナーだと思うの。だから、子どもの成長だとか幸せに必要なことはちゃんと伝えるし、お母さんたちもなんだって言ってほしい。もちろん、お互いにできることもできないこともあるけどね」
 そうですよね、と数度うなずいて坂寄はままごとの鍋をふきながら言った。
「お母さんもお父さんもみんな、どこかに痛みだとか不安を感じて子どもを預けているんだと思うの。とくにうちみたいな夜間保育は、同じ保育士ですら肯定的に見ている人ばかりじゃないしね。夜まで保育園に預けるなんてかわいそうだとか、子どもの発達によろしくないとか、夜に子どもを預けないといけないっていう親の働き方がおかしいとか、いろいろ言うじゃない。たしかに間違ったことを言ってるわけじゃないよ。でも、そういう正論がなんの役に立つんだろう」
 風汰はじっと坂寄を見た。
「家って一番安心できるところだし、誰にとってもそういう場であってほしいって思う。でも、同じじゃないけど、ここも子どもにとって居心地のいい場になっているといいなって。夜間の場合はとくにね。そういう場で子どもが過ごしているって安心してもらえることが、保護者への支援なんだって思ってるの。わたしはね」
 ん? 風汰は首を傾げた。
「ってことは結局子どもの保育が大事ってこと?」
「そりゃあそうよ!」と、坂寄は笑った。
「お母さんたちの仕事を手伝うわけにはいかないし、金銭的な援助をするわけでもない。あたりまえだけど、あたしたちと保護者の真ん中にあるのは子どもたちでしょ。ってことは、子どもが保育園で安心して過ごしているってことを実感できることが保護者への一番の支援なんじゃない?」
 ああ、と大きくうなずく風汰に、園長は笑みを浮かべた。
「ノコちゃんのおむつ替えのこともね、本当はわたしも信頼してくださいって言いたかったのよ」
「そうなんすか?」
「わたしは風汰先生を信頼しているしね。だからあのとき、うちではそういう対応はできませんって言いきっちゃえば、お母さんはしぶしぶでもそれをのんでくれたと思うの。でも、それって違うでしょ? 押し付けたら、お母さんは仕事中もずっと気になるだろうし。それに、ごめんなさいね」と、園長は風汰の目を見ていたずらそうに笑った。
「どうでもいいことかなって思ったのよ」
 はぁ!? 思わず風汰は声をあげて、慌てて子どもたちの方を振り返った。
 よかった、みんなぐっすりだ……。
 坂寄もおかしそうに口にこぶしを当てた。
「マジっすか……」
 そう呟きながら風汰は眉を寄せて首を傾げた。たしかに、なぜ自分はそんなにおむつ替えにこだわっているのだろう。べつにおむつ替えをしたいわけでも、おむつ替えが好きなわけでもない。赤ん坊とはいえ、下の世話は下の世話で、間違いなく積極的にやりたいという類の業務ではない。考えてみたら学生時代に行った実習先で、うんちをした子のおむつ替えをしたとき「くっせー」と言ってしこたま怒られたことがあった。そのあと幼児クラスに替わったとき、これでおむつ替えから解放されたとめちゃくちゃテンションがあがったものだった。
 さすがにいまは、うんちだろうとなんだろうと余裕でできるようになったけれど、他の保育士がやってくれるのであれば、それはそれでラクなはず。それならなぜ、あんなにへこんだのだろう。と考えて気が付いた。
 へこんだのは、「おむつ替えを拒否された」=「保育士であることを否定された」と感じたからだ。
 でも、ノコちゃんのお母さんはそんなことは言っていない。だったらそれ以外の保育でいくらだって信頼してもらえるはず……。
「ってことは、逆にラッ」
 園長と坂寄が同時に風汰を見た。
 へへっと笑って、風汰は「ラッキー!」ということばは、のみ込んだ。

 午前零時を過ぎたところで、明日奈ちゃん、翔真君、芹香ちゃんのお迎えが立て続けにあり、零時半過ぎに空君の迎えがあった。空君は父子家庭でお父さんは広告代理店に勤めている。半年前に入園してから、日曜日以外の午前十一時から十三、四時間を園で過ごしている。
「お父さん、お帰りなさい」
 風汰が玄関に顔を出すと、「どうも」と言ってあがってきた。
「今日も暑かったっすね。空君、昼間にビニールプールに入って」
 と、話しかける風汰に、「タクシーを待たせてるんで」とお父さんがことばを遮った。
「あ、いま空君を連れてきます」とお父さんを廊下に残して保育室のドアを開けると、園長が空君の着替えや連絡帳を入れたカバンを持ってきた。
「空君、いま千温先生がトイレに連れて行ってるからちょっと待ってね」
「了解っす」と、風汰はカバンを持って廊下に戻った。
「すみません、いま空君トイレに行ってるんで、ちょっと待っててもらえますか」
 お父さんは小さく舌打ちしてうなずくと、ポケットからスマホを出した。
「お仕事お忙しそうですね」
「まあ、こんなもんですよ」
「えっと、空君、おうちではどんなですか?」
 空君の連絡帳には、いつも(見ました)という印のハンコが押してあるだけで、家庭からの欄は空白になっている。細かな字でびっちり書いてある〇歳児の拓士君の連絡帳とは対照的だ。
「まあ、ふつうです」
 お父さんはスマホを見ながら答える。
「ふつうなんすね、どんなふうに?」
「だから」と、苛立ったようにお父さんはスマホから視線を上げると、「そういえば!」と風汰は手を打った。
「お父さん、カレー作ります?」
「はぁ? ……ときどきですけど」
 やっぱり! と風汰はすきっとしたように笑った。
「今日、散歩のときにカレーの匂いがして、そしたら空君がカレーすき!!って大きな声で言ったんです。園でもときどきカレーは出るんすけど、空君の大好物っていう印象なくって。ちょっと意外だなって。そっかそっか、お父さんの作るカレーが好きなんすね」
「市販のルーで作るだけですよ」
「そうなんすか?」
「……りんごかな」
「りんご?」
「小さめに切ったりんごをルーを入れるときにいっしょに入れるんです」
「うまそっ、おれも今度やってみようかな」
 お父さんの表情がふっとやわらいだ。
「空は、そんなにカレーが好きなんですか」
「めちゃくちゃ好きみたいっす。道端で叫んでましたから」
 お父さんは苦笑して、「今度の休みに、また作ってみます」とうなずいた。
「お待たせしましたー」と保育室から坂寄と空君が出てきて、「おとー」と空君が駆けてきた。
「ただいま」と、お父さんが空君を抱き上げると空君はくすぐったそうに腕の中で笑った。
「お父さん、空君どんな反応だったか今度教えてくださいね」
 ええ、とうなずいて「ありがとうございました」と玄関を出て行った。扉越しに、タクシーのドアの閉まる音がした。
 本当は、連絡帳には書かなかった散歩中に気になったことを伝えようと思っていたけれど、風汰は口にしなかった。保護者との共有は必要なことだけれど、ただやみくもに伝えればいいとは思わない。わが子のことは誰よりも喜び、誰よりも悲しみ、誰よりも不安になり、誰よりも期待をする……。それが親だからだ。
 今日のお父さんと共有するのは、不安ではなく喜びがいい。
 それが正しいのか、そうでないのかはわからないけれど、お父さんに抱き上げられた空君も、抱きかかえたお父さんも、いい顔をしていた。いまの瞬間、ふたりが幸せそうに見えたのはたしかだ。
「お父さん、なんだか今日は機嫌よかったね」
 坂寄が言うと、そっすか? と風汰はとぼけたように笑った。
 
 最後のお迎えは琉生君だった。お母さんは髪を頭の上で団子のようにまとめ、化粧っ気のない顔で息を切らせて、二時少し前に迎えに来た。
「遅くなってすみません」
「お帰りなさい。暑かったでしょ」
 坂寄は、ここ涼しいよと冷房の風が当たる場所にイスを置いた。
「わー、気持ちいい!」
「琉生君連れてきますね」
 お願いします、とお母さんはハンドタオルを額に当てている。
 お母さんは駅向こうで助産院を開いている。琉生君が生まれる二年前、もう子どもは望めないとあきらめて、四十歳のときに助産師仲間二人で開業したのだと言っていた。琉生君の誕生はうれしいサプライズだったという。いまは夜間にお産があるときだけ、琉生君を「すずめ」に預けて、日頃は公立の認可保育園を利用している。
 風汰は湯呑に麦茶を入れて「どうぞ」と差し出した。
「わー、嬉しい。いただきます」
 一気に飲み干すと、ごちそうさまでした、と風汰に湯呑を返した。
「ここに来るとなんかほっとしちゃう」
「おれもっす」と風汰が言うと、琉生君のお母さんはくすくす笑った。
「風汰先生っておもしろいね」
「そっすか?」
「うん。でもわたし、そういうのってすごくいいと思う。産院でも病院でもお店でも、そこで働いている人が働きやすいとか、好きだって思えないところは、やっぱりだめなんだよね」
 そう言って、笑顔を見せた。
 奥の部屋から坂寄が琉生君を連れてくると、お母さんは爆睡中の琉生君を抱いて「ただいま」と眠っている琉生君に頬をよせた。
「遅くまですみませんでした。助かりました」
「いいんですよ。お母さんも疲れてるのに、走ってお迎えにこなくてもいいんですよ」
 坂寄が着替えの入った布バッグを渡しながら言うと、お母さんは目尻にしわを寄せてくしゃっと笑った。
「お産のあとって、テンションあがるのかな。早く琉生の顔を見たくなっちゃって」
「なんとなくわかります」
 坂寄は笑みを浮かべて、琉生君の荷物を渡した。
 お母さんはベビーカーに琉生君を乗せると、薄手のブランケットをかけて「ありがとうございました」とベビーカーを押した。
 空にはブーメランのような月が浮かび、車のタイヤ音が波音のように絶え間なく聞こえる。
 ベビーカーを押すお母さんが角を曲がると、園長は門を閉めて部屋の中に入った。一番最後に帰る親子は、姿が見えなくなるまで見送り、十分ほど玄関のあかりをつけておく。お母さんが振り返ったとき、淋しい気持ちにさせないように。
「夜中のコンビニみたいっすね」と言った風汰に園長はくすりと笑った。

 午前二時過ぎ、子どもたちの帰ったあとの保育室は、がらんとしているような、それでいてホッとするような、不思議な気配になる。子どもたちの布団を片付けると、園長は「お先にね」と自宅である二階へ上がっていく。風汰と坂寄も着替えを済ませて園を出た。
 空は暗い。目を凝らすと、針の先ほどの小さな星の光が見えた。
「お疲れっした」
 風汰はジョルノのセルスイッチを押して、アクセルをひらいた。

 

(つづく)