女性専用車と書かれたステッカーを斗羽風汰はまじまじと見た。
 女性専用はべつにいい。あったってかまわない。女子にしてみたら、混んでいる車内で加齢臭を放つおっさんに挟まれるなんて苦痛だろうし、痴漢対策にも役立っているのだろう。それなら朝のラッシュ時くらい女性専用もアリだと思っていた。
 でもいま、目の前に貼られているこのステッカーがとてつもなく忌まわしいものに見えてしかたがない。
 そもそも加齢臭のおっさんと密着したくないのは女子だけじゃないし、痴漢の被害だって女子に限られたことでもない。レディースデイだ、女子会割引だ、女性限定なんちゃらサービスだと、性別でサービスが変わるというのもわからない。
 ジェンダー平等、男女同権はどこへ行った。
 ステッカーを指ではじいて、風汰は電車に乗った。
 風汰が保育士として「すずめ夜間保育園」に勤務して二年三か月になる。決して誇れることではないが、これまで保護者からクレームを受けたことはあまたある。
 ひと口にクレームと言っても、それには大きく三つのパターンがある、と風汰は分析している。
 ひとつは、「連絡帳の書き方が大雑把すぎる」「お迎えに行ったらあくびをしながらでてきた」などといった、保育士としての未熟さや意識の低さが招いたもの。二つめは、「うちの子の腕、蚊に刺されて赤くなってるんですけど! 刺されないようにして」というような、無理難題をぶつけられる場合。そして三つめは「誰に噛まれたんですか? 名前を教えて!」と、保育中に起きた子ども間のトラブルにまつわるケースだ。
 保育士としての未熟さや意識の低さが原因のものについては、それなりに反省し、改善していこうと意識することで解決できる。が、「蚊に刺されないようにして」というようなことについては、まちがっても「わかりました」などと言ってはいけない。どんなに虫よけスプレーをシューシューしても、あるいは保育室にを設置したとしても、一〇〇%蚊に刺されない環境など作れるものではない。そもそも家では普通に蚊に刺されているのに、そのことはきれいにスルーしているのだ。思わずお母さんにつっこみそうになるが、それはこらえている。そして、保育中のケガやトラブルに関して言えば、保育中に起きた出来事はすべて園側に責任がある、というのが園の方針であることから、噛んだ子の名前を伝えることはない。ただ、どんな状況でトラブルが起きたのかを報告し、改善策を丁寧に伝えることで、たいていの場合は理解してもらえる。
 というように、クレームにはある一定のパターンがあるが、昨日のクレームは衝撃だった。
 
「おむつ替え、風汰先生以外の先生にしてもらいたいんですけど」
 そう言ってきたのは一歳児のノコちゃんのお母さんだった。風汰がきょとんとしていると、「どうかしました?」と園長が来た。
「だから、ノコのおむつ替え、風汰先生にはしてもらいたくないんです」
「えっと、お母さん、なにか気になることでもありました?」と園長が問うと、ノコちゃんのお母さんは、さも当然というようにこう言った。
「だって、風汰先生って男性じゃないですか」
 風汰が絶句していると、園長が口を開いた。
「うちは無認可の保育園ですけれど、職員は全員保育士の資格を持っています。もちろん風汰先生も保育士です」
 そうだ。と風汰は力強くうなずいた。
「でもぉ、学校の先生で児童を盗撮したとか変なニュースいっぱいあるじゃないですか。子どもに興味があったとか。わたし、聞いていてぞっとしちゃいました。気にしているお母さん、けっこういると思いますよ」
 男というだけで、そんな犯罪者と同類にされたらたまらない。鼻息荒く「おれはそんなこと」と声をあげる風汰を園長は制して、うなずいた。
「わかりました。それじゃあノコちゃんのおむつ替えは、女性の保育士が担当しますね」

 無意識にため息がこぼれた。
 まさか「わかりました」などということを園長が言うとは思わなかった。
 おれ、そんなに信用ないんかな……。
 むしゃくしゃして、高校時代の友だちふたりを誘ってさっきまで飲んでいたけど、まったく気分は晴れなかった。今年大学を卒業してそれぞれIT関連の企業と商社に入社したふたりは、愚痴りながらも「スタートアップ」がどうの「イノベーション」がどうの「バイアウトで」「イグジットで大きなリターン」がどうのと、風汰にはまったくわけのわからない会話で盛り上がっていた。そんなところに「おむつ替えをチェンジされた」などという話題を出せる空気でもなく、無心に枝豆を食べていると、「暗くね?」と笑われた。
 がたんと揺れて、手すりにつかまった。二十二時を過ぎているが、車内は結構な混み具合だ。
 隣に立っている人に軽く腕があたり、すみません、と頭を下げると「斗羽君?」と名前を言われた。
 顔をむけると、セミロングの三十代後半くらいの女の人が驚いたように目を見開いている。
 だれ? 風汰が首をかしげると腕を叩かれた。
 なんなんだこの女、と風汰がからだを引くと女はくいとあごをあげて笑った。
「斗羽風汰。ちょんまげのふーたくん、でしょ」と女は自分の前髪をくしゃりとつかんだ。
「えっ?」と風汰は数度まばたきをして声をあげた。
「リンダ!?」
「ハ・ヤ・シ・ダね」
 そう言って、にっと笑った。
 林田りつ。風汰が中学生のとき、職場体験で世話になったエンジェル保育園の保育士だ。
 職場体験に行く直前、クラス担任から「前髪が長すぎる。切れ!」と注意された風汰は、目にかかってないならセーフのはずだと、苦し紛れに前髪を結わいて体験先である保育園へ行った。それを見た園児たちが、「ちょんまげ」「ちょんまげ」と言ったのだ。
 おおおおっ、と風汰が声をあげると、林田は「しー」と人差し指を鼻の前に立てた。
 やべ、と風汰は周囲に目をやってへらっと笑った。
「斗羽君、大人っぽくなったじゃない。相変わらず前髪は長いけど」
「てか、リンダこそしっかり年食ってるね」
 そう言うと林田は風汰の腹に軽く肘をあてた。
「いま、なにやってるの?」
「なにって、ちょっとうさばらしに友だちと飲みに行ってた」
「飲みにって、お酒なんて飲んでるの!?」
「そーだよ。あのさ、おれもう二十二。とっくに成人してるから」
 風汰が言うと、林田は数度まばたきをして遠い目をした。
「なに?」
「べつに。あの中坊がねーって思っただけ。……って、そうじゃなくて、いまなにしてるのよ」
「だから友だちと」
「じゃなくて、二十二歳ならもう就職してるの? それともまだ大学生とか?」
 あ、そっちね、と風汰は肩を上げた。
「同業」
「農業?」
「農業じゃなくて、同業」
 刹那、林田は沈黙し、「えーーーー」と声をあげた。
 しっ、と今度は風汰が人差し指を立てる。電車は速度を落として小さな駅に滑り込んでいく。
「おれ、ここで降りるんで」とドアの方にからだを向けると、がしっと腕をつかまれた。
「せっかくだし、一杯付き合ってよ」
「えー、おれいま飲んできたし」
「だらしないなぁ、いいよ、それなら斗羽君はジュースでも飲んでて」と、林田は風汰の腕を引いてホームへ降りた。
 線路沿いにある小さな居酒屋へ入ると、林田はメニューを見ることもなくビールを頼んだ。
「斗羽君はコーラ? オレンジジュース?」
「ビール」
「なんだ、飲むんじゃない」と林田は苦笑して、「生をもうひとつお願いします」と店員に言い直した。
 林田と会うのは中学二年生のとき以来だ。
「おごるから好きなの頼んで。あ、わたしはレバーとカシラとタンね」と、林田はテーブルの上にメニューを広げた。今さっきまで飲んでいてまったく腹は空いていなかったけれど、せっかくだからと、もつ煮と手羽ねぎを注文した。
「じゃあ、乾杯」と、林田はビールのジョッキを軽く上げて、一気に半分ほど飲んだ。「おー」と風汰が言うと、林田は口元をぬぐった。
「それにしてもびっくりだわ」
「そっすよね、偶然っていうか」
「じゃなくて」と、林田は眉を寄せた。
「きみが保育士になってるってこと」
 ああ、と中学のときの職場体験を思い出して風汰は肩をすぼめた。あのとき風汰が体験先に保育園を選んだのは、保育に興味があったわけでも、子どもが好きだったわけでもない。単に、子どもとあそんでいればいいだけのラクな職場だと思ったからだ。ところがその思惑は見事にはずれた。子どもたちはうるさい、きたない、しつこくて面倒くさい。そのうえ、担当保育士の林田にはこき使われるし、怒られるしと散々だった。
「斗羽君のあとも、毎年、職場体験の子たちが来たけど、斗羽君はダントツだった」
「マジっすか?」
「とんでもなさがね」
 なんだ、と風汰がビールをのどに流し込んで小さくゲップすると、林田はふっと笑って頬杖をついた。
「でも、子どもたちはふーたくんのこと、みんな好きだったんだよね」
「……やっぱ子どもは正直っすよね」と応えると、林田はそれを無視して「しいたけ焼きくださーい」と手を上げて、ついでにもう一杯ビールを頼んだ。
「で、いまどんな保育園にいるの?」
「夜間保育園っす」
「へー! 夜間なんだ」
「そっす」
 制度的にはベビーホテルに括られる無認可の夜間保育園だけれど、そこはスルーした。
「開園時間は?」林田は興味深そうに身を乗り出した。
「一応、午前十一時から深夜二時までなんすけど、イレギュラー的に朝まで延長ってことも」
「そうなんだ。けっこうハードだね」
「まあそーっすね。最初の頃はあれっすけど、いまは慣れたっていうか」
 風汰が鼻をこすると、「斗羽君のことじゃなくて子どもたちのこと」と林田はぴしゃりと言った。
「お昼寝でも保育園で眠るのを嫌がる子っているじゃない?」
「しおん君とか?」
「覚えてるの!?」
 あたりまえじゃん、と風汰はちょっとむっとした。しおん君は、体験期間中になぜか風汰に懐いていて、ふうたくん、ふうたくんとくっついてきた四歳児だ。お母さんからどこか疎まれていて、それでもしおん君はお母さんが大好きで。そんなしおん君のことが気になって、なにかできることはないかと真剣に思ったけれど、親子の問題は簡単ではない。しかもなんの経験も知識もない中学生がたった五日間という短い体験期間中にできることなどあるはずもなく、あのとき風汰はただそばにいて、しおん君の手をにぎることしかできなかった。
「元気っすか? しおん君」
 林田は小さくうなずいた。
「もう中学一年生よ。あと一年で、きみが職場体験に来たときと同じ歳になるんだから、時の流れを感じるよね」
 おー、っと言いながら、テーブルに置かれたもつ煮に一味をたんまりふった。
「しおん君もエンジェル保育園に来たりして。職場体験で」
 風汰が言うと、「それは、ないかな」と林田はすっと視線を下げた。
「……しおん君ね、卒園したあと、おばあちゃんと暮らすことになって石川県に引っ越したの」
「お母さんもいっしょに?」
 ううん、と林田はかぶりを振り、「でもね」と口角をあげた。
「しおん君、毎年年賀状をくれるのよ。字もすっごく上手なんだから」
 そっすか、と口に含んだビールがやけに苦く感じた。
「そうだ、あたし一度しおん君に会いに行ったの。しおん君が小二の夏だったかな」
「石川まで?」
「いいとこだったよ。山間にある集落なんだけど、水は美味しいし見渡す限り緑、緑、緑のザ・自然よ」
 なにそれ、と風汰が笑うと林田は「マジだから」と箸を風汰に向けた。
「おばあさんの家は畑と田んぼをやっててね、しおん君もどろんこになって手伝ってた」
 どろんこねぇ、ともつ煮を箸でつつきながら、風汰は「あっ」と顔をあげた。目が合うと林田は目尻を下げた。
「しおん君、ちゃんとどろんこになってあそべてたよ」
 あの頃、みんなが園庭でどろんこになってあそんでいても、しおん君は絶対にそこには入って行かなかった。いつも汚れ一つついていない白いシャツを着て、遠くからみんなを見ていた。お母さんが服を汚すことを嫌っていたからだ。林田が園の服を貸してあげるからと言っても首を縦には振らなかった。しおん君はお母さんが嫌がることはしない。お母さんに嫌われたくなかったからだ。
 ――どろんこあそびって、子どものバロメーターだと思うの。
 林田が言ったことばだ。もう何年も前のことなのに、保育士になってからふいに思いだすことがある。
「すげー」
「でしょ。すごいよね」
「うん、すげー」「すごいよね」とふたりは繰り返しながら、テーブルの上に並んだ料理を黙々と胃袋に入れ、林田はビールをさらに二回おかわりした。
 四杯目のビールを飲み終わる頃、ほんのり頬を赤くした林田は風汰を見据えた。
「あたしはきみの恩人だね」
「はっ?」
「らって、保育士になったのは、職場体験でこの仕事のすばらしさを感じたからっしょ」
 やばい、酔ってる。ちょっと呂律がまわらなくなってるし。
「まさかあの斗羽風汰が保育士になるなんて……感動した!」
 声がでかい。横の席のおっさんに、すんませんと風汰が愛想笑いをしていると、林田に手をつかまれた。
「中二のときから保育士を目指してたなんて、見直したよ。斗羽風汰。あんたはすごい。中坊のころの夢を実現したんだもん」
「いや、おれはそういうんじゃ」
 と、風汰が口を開いたとき、林田は壁掛け時計を見て「やばっ」と背筋を伸ばした。
「終電!」
 そう言うと、紙ナプキンにボールペンを走らせ、その上にお札を重ねて風汰に渡した。
「これ連絡先。あ、おつりはいいから、じゃあね」と口早に言いながら、林田はあわただしく店を出て行った。
 紙ナプキンを見ると十一桁の数字が並んでいた。
 携帯番号……。
「連絡先、メモで渡す人ってまだいるんだ」
 ぼそっとつぶやいて、紙ナプキンをシャツの胸ポケットに入れた。

 

(つづく)