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 保育園に着くと、門の中から子どもを抱きかかえた保護者が出てきて驚いたように足を止めた。
「先生たちどうしたんですか? こんな時間に」
 芹香ちゃん親子だ。
「あ、お母さん、お疲れさま」
 坂寄はお母さんの前で自転車を降りると、さりげなく腰元で手を動かして風汰に先に入るよう促した。
「お疲れっす」と、自転車に乗ったまま門の中へ入っていく風汰を振り返って、「めぐちゃん?」とお母さんはつぶやいた。
「めぐちゃん、なにかあったんですか?」
「ええ、まあ」と、坂寄は曖昧に答えながらお母さんが抱えている芹香ちゃんの顔を覗き込んで、「ぐっすりですね」と話題をそらした。

 ハムとレタスと卵のチャーハンを半分ほど食べたところで、めぐみちゃんはこくりこくりし始めた。
「めぐみちゃん、食べないの?」
 風汰が言うと、園長は「風汰先生」と首を振った。
「寝かせてあげましょ。布団敷いてくるわね」と園長は立ち上がった。
 うとうとしているめぐみちゃんの手からスプーンをとって抱き上げると、想像より軽くて驚いた。卒園時より背は伸びているけれど、体重はさほど変わっていないのかもしれない。そのまま抱っこして畳の部屋へ行くと、眠っていた四歳児の萌ちゃんがむくりと起き上がった。
「ママ、もうすぐお迎えに来るから寝ていようね」
 坂寄が静かに声をかけると、萌ちゃんはぱたんと横になった。
 めぐみちゃんの布団は、萌ちゃんと空君とは少し離れた位置に敷いてあった。そこに寝かせると、風汰はため息をついた。
「どうしたの?」
 園長が小声で言う。
「連絡来るかなって」
 そうね、と園長はそれ以上のことは口にしなかった。
 ほどなくして、萌ちゃんのお母さんが来て、二時少し前に空君のお父さんが迎えに来た。
「めぐみちゃんのことはわたしが見ているから、二人はあがってね」
「でも園長先生、今日は午前中からでしたよね。少し寝ないと」
「そっすよ」と、坂寄と風汰は目を見合わせた。
「大丈夫。わたしショートスリーパーなのよ」
「ショートスリーパー? なんすか」
「短い睡眠時間で足りちゃう人のこと」
 坂寄が言うと、風汰は「あー」と首を上下させた。
「うちのばあちゃんも言ってたっす。年取るとそんなに眠れないって」
 それとはちょっと違うかなと園長が苦笑すると、坂寄は風汰の背中をばちっと叩いた。
「喩えるならナポレオンでしょ。だいたい園長先生はまだ四十代じゃない」
 ナポレオン? と首をひねる風汰を無視して、園長はめぐみちゃんの隣にマットを広げた。
「わたしもここで横になるから大丈夫よ」
「だったらおれも残るっす」
 風汰は当然のように言った。
「一人だとなんかあったときやばいし、それにおれ、どこでも寝れるんで」
 たしかに、と坂寄はうなずいた。寝かしつけのとき、風汰は子どもたちより先にうとうとしている。
「園長先生、わたしも風汰先生がいてくれたほうが安心です」
 でも、と園長が迷っていると、風汰はにっと笑って親指を立てた。
「……じゃあ、お願いしようかな。でも風汰先生は休憩室でちゃんと寝てちょうだい」
 そう言って、タオルケット持ってくるね、と園長は二階へ上がって行った。
「こういうとき、自宅が二階にあるって便利っすね」
「その分、切り替えができにくいっていうのもあるけどね。いい悪いは別として」
 神妙な面持ちでそう言って、じゃあ、あがらせてもらうねと坂寄は背中を向けた。

「ふうたせんせー、おきなさーい!」
 キーの高い声と同時に腹が圧迫されて目が覚めた。めぐみちゃんが馬乗りになって、「おきなさーい」とからだを揺らす。
 おれはトトロか。
「起きるから降りて」と声を絞り出すと、めぐみちゃんは素直に降りて、風汰を見下ろしている。
 めちゃくちゃ元気じゃないか。
「いま何時?」
「八時」
「はやっ」
 いつも起きるのは昼前だ。もう少し寝ようと風汰が横になろうとすると、めぐみちゃんが腕を引っ張った。
「えんちょうせんせいが、ごはんできたよって」
「おれ、あとで」
「じゃあ、めぐみもあとでにする」
 薄目を開けると、めぐみちゃんはせつなげにお腹に両手をあてて、空腹をアピールしている。
 なんというあざとさ……。昨日は泣きながら電話をしてきて、あんなにもたよりなげに見えたのに、今朝のめぐみちゃんは、在園中のしっかりもので、ちょっとませた女の子のめぐみちゃんとなにも変わっていない。子どもってたくましい。
「……起きるよ、起きればいいんだろ」と、今度は勢いよく起き上がった。
 廊下に出るとかつお出汁のいい匂いがした。ばあちゃんちの朝食みたいだなと、風汰がしみじみした気分で保育室に顔を出すと、「もう起きたの?」と背中から園長の声がした。手にしているトレーの上には二人分の茶碗とお椀がのっている。
「おはようございます」と言いながら、(お母さんから連絡は?)と風汰が目で問いかけると、園長は小さく頭をゆらした。
 あまり期待はしていなかったけれど、胃のあたりが重たくなった。
 お母さんは、めぐみちゃんのことが心配ではないのだろうか。それとも、事故かなにかで連絡ができない状態に……。
 どちらであっても良かったとは思えない。
「風汰先生の分も持ってくるね」と、園長はトレーを風汰に渡して調理室に戻って行った。
 テーブルの上をごしごし拭いているめぐみちゃんを見てトレーを持つ手に力が入った。
 余計なことを考えるのはやめよう。いまはめぐみちゃんと一緒にお母さんからの連絡を待つしかない。
 ごはんに、豆腐とわかめとねぎの味噌汁に、ベーコンエッグに納豆。
 オーソドックスな日本の朝食というメニューがテーブルに並んだ。
「園長先生って毎日こういうの食べてるんすか?」
「だいたいそうかな。でもわざわざ作るっていうより前の日の給食の残りに納豆をプラスするとかそんな感じよ。めぐみちゃんのおうちは、いつもどんな朝ごはん?」
 風汰は視線だけめぐみちゃんに向けた。
「めぐみのうちはね……おすしとかピザとか、ハンバーグ!」
 どう考えてもそれは朝食の献立じゃない。もちろんまれに前の日に残った寿司だとかピザを食べるということはあるかもしれないけれど、いつもの朝ごはんと言われてその答えはさすがに違和感がある。けれど園長は「すごいね」と笑顔で返している。
「ママね、おりょうりじょうずなんだよ」
「そうだったそうだった。遠足のときのめぐみちゃんのお弁当、すごくおいしそうだったの園長先生覚えてるよ」
 ベーコンをくわえたまま、めぐみちゃんは嬉しそうに顔をくしゃっとさせた。
「あ、おれも思いだした! ミニオンのキャラ弁。オムライスになってたやつだ」
 めちゃくちゃ手が込んでいて、ここまで来るともはや芸術、と感嘆したことを覚えている。
『すずめ夜間保育園』は、他園のような運動会や発表会といった保護者参加型の行事は行っていない。行事となると、どうしても日中に行うことになる。そうすると参加できない保護者が一定数いるということはもちろん、参加するために無理をする保護者が出るからだ。子どもにとっても行事のための練習をしたり、準備をしたりと負担がかかる。昼間の保育だけであれば、それも子どもの経験としてアリなのだろう。けれど超長時間保育の夜間保育では、ごく当たり前の日常の生活を最優先に考えている。
 その代わり、というわけでもないが、年に一度、お弁当遠足を行っている。べつに電車やバスに乗って出かけるわけではなく、いつもよりほんの少し足を延ばしたところにある公園であそび、お弁当を食べるという行事だ。
〈保育園でできることは保育園で。保護者へはなるべく負担をかけない〉
 というのが『すずめ夜間保育園』のひとつの方針ではあるが、年に一度だけ子どものためのお弁当作りをお願いしている。
 手の込んだものでなくていい。冷凍食品や総菜を入れてもいい。もっと言ってしまえば、コンビニ弁当を弁当箱に詰め直したものでもかまわない。お母さんやお父さんが、自分のために作ってくれた “自分のお弁当”を食べるという喜びを味わわせてあげてほしいと、園長が毎年保護者にお願いをしている。
 でも本当はね、と園長は風汰にこそっと言った。
「子どものためっていうより、親のためなんだけどね」
 日頃、ほとんどの園児たちは昼ごはんも夜ごはんも保育園で食べている。保護者は口にするしないに拘わらず、心のどこかで子どもに対して申し訳なさを抱えている。たった一日のことだけれど、わが子の喜ぶ顔を思い浮かべながら弁当を作ることで、そうした思いをほんの少し、軽くすることができるのだと。
 なら毎月、お弁当の日を作ったらいいんじゃないっすか? と風汰が言うと、年に一度だからいいの、と園長は笑った。
「……ママ、どこにいるのかな」
 ぼそりと言って、皿の上の目玉焼きをめぐみちゃんは箸先で突いた。とろっと半熟の黄身がこぼれ、皿に広がる。
 スイッチが切れたように暗いまなざしで皿の上を見つめているめぐみちゃんの姿に、風汰は奥歯を噛みしめた。
 一面だけを見て、元気そうだとほっとして、子どもはたくましいなどと都合のいいように安心していた。そんなわけないのに。これがいまの、めぐみちゃんの本当だ。
 ひとりでさみしくて、不安で、怖くて、だから保育園に電話をしてきた。卒園して一年以上経っているのに電話してきた。それは、ほかに助けを求める人も、場所もなかったということじゃないか。
「ごはん食べちゃお。あとでまたママに電話してみよう」
 園長が言うと、めぐみちゃんはごはんを口に入れた。

 十時になると、早番の二宮ゆり子と井浦茉莉絵が出勤してきた。二人ともめぐみちゃんを見ると「久しぶり!」と駆け寄って、お姉ちゃんっぽくなっただの、通知表はどうだっただのと盛り上がっている。夏休みや冬休みに、卒園児があそびに来るのは珍しいことではないからだ。
「ていうか、風汰先生なんでいるの?」
 二宮に言われて、風汰は数度まばたきをして、ははっと空笑いでやり過ごした。
 二人とも保育に入る前にはタブレットで遅番からの申し送りを確認する。それで昨夜からの出来事もめぐみちゃんの状況も把握できるはずだ。
「めぐみちゃん、畑の野菜にお水あげてきてくれる?」
 園長が言うと、「いいよ」とめぐみちゃんは園庭に飛び出していった。園庭の隅にある小さな畑では毎年子どもたちと相談して、数種類の野菜を育てている。めぐみちゃんが五歳児のときもだ。たしか栽培していたきゅうりがやたらと大きくなって、みんなして「おばけきゅうり」「おばけきゅうり」と喜んで、毎日せっせと水をあげていた。
 アパートの玄関横にあった植木鉢のミニトマトも、めぐみちゃんはちゃんと水をあげていたんだろう。緑色の大きな葉の間にいくつも実をつけて茎が重たそうにしなっていた。
「風汰先生、一度帰ってひと眠りしてきたら?」
「おれはあっちで爆睡してたんで。園長先生こそ少し休んだ方がいいっすよ。昨日、ほとんど寝てないんじゃないっすか」
 園長は大丈夫と口角を上げた。
「連絡、まだとれないっすか」
「留守電にも入れているし、LINEもしてるんだけど既読もつかない。さっきお母さんの職場にも連絡してみたけど、退職したんですって」
「えっ」
「転職先も聞いたんだけどわからないって」
 風汰は唇を指でこすった。
「とにかく連絡だけでもくれればいいんだけど」
 そっすよね、と風汰は庭にいるめぐみちゃんを見た。
「もし、このまま連絡がつかなかったら、あ、そんなこと考えないほうがいいってことはわかってんすけど」
「そんなことはないよ」と、園長はめぐみちゃんに目をやった。
「考えたくないことも考えておくことは大事なことだから」
 今日中に連絡がないときは、児童相談所に連絡するしかないと園長は言った。
「お父さんはダメなんすか?」
 入園時に提出してもらった緊急連絡先の欄には、めぐみちゃんの父親の携帯番号が書いてあった。インドネシアへ赴任した段階で緊急連絡先としては実質成り立ってはいなかったけれど。
「離婚しているっていってもめぐみちゃんの父親なんだし、まだインドネシアにいるかもっすけど、親戚とかに連絡してくれるかもしれないじゃないっすか」
「それをわたしたちで判断するのはまずいでしょ。お母さんが削除しているわけだし」
 離婚したあと、お母さんから緊急連絡先にある元夫の番号を削除してほしいと言われて二本線が引いてある。
「けど……」
 児相に通報すればめぐみちゃんは保護される。母親が見つかっても、育児放棄とみなされたら簡単にはめぐみちゃんとお母さんは一緒に暮らせなくなる。
「めぐみちゃん、お母さんのことすげー好きっすよ」
 そうだね、と園長は園庭に目をやった。

「めぐちゃーん!」
 お昼前に登園してきた芹香ちゃんは、通園カバンをさげたまま、ブロックをしているめぐみちゃんに抱き着く勢いで突進した。
「ほんとうにめぐちゃんいた!」
 おはようございます、と芹香ちゃんのお母さんが保育室に入ってきて、風汰と目が合うと肩をすくめた。
「ごめんなさい、めぐちゃんが保育園にいたってうっかり言っちゃったんです。そうしたらテンションあがっちゃって」
「仲良かったっすからね、姉妹みたいに」
「うちもめぐちゃんちも一人っ子だったから」
 そう言ってお母さんは、あの、と声をひそめた。
「めぐちゃんママ、なにかあったんですか?」
 風汰が口ごもると、お母さんは子どもたちに背中を向けて続けた。
「この間、うちのお父さんがめぐちゃんママを見かけたって言ってて」
 えっ、と風汰はお母さんの目を見た。
「ちょっといいっすか」とお母さんを連れて廊下へ出ると、向かいにある調理室の窓から園長を呼び、耳うちした。
 ちょっと待って、と園長はコンロの火を止めて廊下に出てきた。
「お父さんが見かけたっていうのはいつのことですか?」
「日曜です。定休日の前の日だったので」
 お母さんがめぐみちゃんに帰ると言っていた日だ。
「お店終わってからうちのお父さん、常連さんたちと飲みに行ったんです。そのとき歌舞伎町で見かけたって。でも前とぜんぜん印象が違ったらしくて、ほら、めぐちゃんママってかちっとしたデキる女って感じだったじゃないですか。でもその人はなんていうか……それで人違いかもって思ったらしいんです」
 お母さんは「でも」と、ちらと風汰を見て続けた。
「昨日のお迎えのとき、風汰先生の自転車のうしろにめぐちゃんが乗ってたって話をしたら『そういえば』って。……めぐちゃんママ、どうかしたんですか?」
「それはっ」と風汰は声に出したけれど、そのあとのことばは飲み込んだ。
 芹香ちゃんのお母さんの目が真剣だったから。単なる好奇や興味のそれはまるで感じられない。だからこそ、適当なことを言ってごまかすようなことはしたくなかったし、かといって、個人的な問題を憶測だけで話すわけにもいかなかった。
「連絡がつかないんです」
 抑揚なく園長が言うと、芹香ちゃんのお母さんは「早く連絡がつくといいですね」と保育園をあとにした。
 日中、めぐみちゃんはずっと元気だった。めぐみちゃんが在園していた時期と重なっているのは、芹香ちゃんと翔真君の二人だけれど、翔真君は当時二歳だったので覚えていないようだ。つまり、めぐみちゃんのことを知っていると言えるのは、芹香ちゃん一人だった。それでもすぐにみんな、保育士とは違う、年齢の近い大きなお姉ちゃんに懐いて、「めぐちゃん、おひめさまかいて」「おねえちゃんこっちおいで」と人気者だった。朝食のときに見せたあの表情が嘘のように、めぐみちゃんは楽しげに見えた。
「やっぱ子どもってすごいっすね。めぐみちゃんの顔つきが全然違う。それって、みんながめぐみちゃんにパワーくれてるってことっすよね」
 のびをしながら風汰が言うと、早番保育士の二宮は刹那口ごもり、おさえた声で言った。
「夕方は気を配ってあげてね。昼間と夜は違うから」
「大丈夫っすよ。うちは夜中までみんないるし、昼間と変わんないんじゃないっすか?」
「そういうことじゃなくて……。周りに何人いても、ふとしたときに心細くなったり。日が暮れるとそんな気持ちになったりって経験、風汰先生はない?」
「ないっす」
 即答する風汰に頬をひきつらせながら、「風汰先生らしいね」と二宮は言った。
「大丈夫っすよ」
 めぐみちゃんはここにいれば大丈夫。園の子どもたちと一緒にいれば自然と元気になる。お母さんのことばかり考えて、不安になるようなことだってないはずだ。

 そう思っていた己の甘さを、数時間後、風汰は実感することになる。
 午睡あけ、めぐみちゃんがいなくなった。

 

(つづく)