「ふーたせんせー、まだぁ?」
目の前に萌ちゃんと明日奈ちゃんがトレーを持って立っている。
「ごめんごめん、はい、ごはんどれくらいにする?」
「ちょっとすくなめ」
「じゃあ、ひと口ぶん減らすか」
風汰は気持ち少なめにごはんを盛り、「はいどうぞ」と萌ちゃんのトレーにのせた。
「明日奈ちゃんはどれくらいにする?」
「うんとね、いっぱい」とけらけらと笑う。
「よーし、大盛!」
ごはんとおかずは、三歳くらいになるとこういうやりとりをして保育士がよそい、それを子どもたちがおのおのテーブルに運ぶ。調理室で手伝いをしていた坂寄も戻ってきて、おかずの煮魚、キュウリとわかめの酢の物も同じように大きさや量を聞きながらよそう。保育士がテーブルに配膳をするのは、汁物と麦茶、それから年齢の低いノコちゃんの食事だ。今日はそれらを中込が手際よく行っている。
六時を少し過ぎたところで「いただきます」をして夕食になる。食事中、一歳児のノコちゃんには二宮がマンツーマンでつき、おかわりや片付けのサポートは中込、もう一人の早番保育士、井浦は奥の和室に子どもたちの布団を敷いていく。遅番の風汰と坂寄は子どもたちといっしょにテーブルについて食事をする。
「風汰先生は全部大盛ね」
トレーの上を見て二宮が言うと、子どもたちは大きな口を開けて笑う。口の中が丸見えだ。
「食ってるときは手を当てる」と風汰が言うと、「くってるじゃないよ、たべてるだよ」とまた芹香ちゃんに注意された。
「はいはい、食べているときは手を当てる」
そういえば芹香ちゃんみたいな子がエンジェル保育園にもいたな、とふと思いだした。昨日、林田と再会したせいだろうか。
中学生のときの職場体験はたった五日間だったけれど、一日一日がやたらと長く感じて、体験先に保育園を選んだことを心底後悔しまくった。そんな自分がまさか保育士になっているとは……。人生ってのはつくづくわからない。
――あたしはきみの恩人だね。
――中二のときから保育士を目指してたなんて、見直したよ。
そういえば林田はなにか誤解をしているようだったけれど……。まあいいか、と風汰はやや薄味の煮魚を口に入れた。
食事の片付けがあらかた終わる午後七時に早番の二宮と井浦、パートの中込は仕事をあがる。
ここから午前二時の閉園時間まで、遅番の坂寄と風汰、それから園長の三人態勢での保育になる。
夕方からの保育でいちばんの大仕事は沐浴だ。〇歳児の拓士君は夕方に井浦が沐浴を済ませてくれているのでいいとして、残りは女児四人、男児が三人。冬場はともかく夏場は汗をかいているのでシャワーは欠かせない。先に坂寄が女の子たち四人を入れて、そのあと男の子三人は風汰が入れる。
ジャージの裾を膝までまくり、頭にタオルを巻いて「風呂入るぞー」と声をかけるのだけれど、子どもたちはなかなか腰を上げない。たしかに風汰も昔、母親に何度風呂に入れと言われても「うーん」と気のない返事をし、最後はやや切れ気味に「お風呂!」と言われてしぶしぶという感じだったことを思いだすと、えらそうなことは言えない。とはいえ、どうぞご自由にとほうっておくわけにもいかず、考えたのがおもちゃ誘導作戦だ。ペットボトルで作った水鉄砲やピンポン玉とザルを使った玉入れあそびなどをちらつかせながら風呂場まで誘う。これはてき面だった。が、いざ風呂に入ると子どもたちはテンションがあがり、今度はなかなか出ようとしない。なんとか沐浴を終えて出てくるときには、風汰はびしょ濡れのうえ汗だくになっている。「わ、早く着替えてきて」と、坂寄に半ば呆れられながら言われて風汰が着替えに行っているその間、はだかで部屋の中をかけまわる三人を園長と坂寄が捕まえてパジャマを着させる……というのが、最近お決まりのルーティーンだ。
パジャマに着替えると子どもたちのスイッチは自然とオフモードに変わっていく。麦茶で水分補給をして、歯磨きとトイレを済ませると自分の布団でごろんとする子もいれば、「読んで」と絵本を持ってくる子もいる。絵本は持ってきた子を膝に乗せて小さな声で一対一で読むときもあれば、ほかの子もやってきて、読み聞かせをすることもある。
日中は、乳児をのぞいて異年齢の集団保育を行っている。保育士たちは紙芝居をしたり、絵本の読み聞かせをしたり、歌や体操やお遊戯をしたりと、昼の保育園と同じように保育計画に則っていろいろな活動をする。風汰の保育士の仕事のイメージはまさにこちらだった。一方、夕方からは「保育園」というより「家」を意識して、くつろげる空気、気を抜ける環境、個を重視した保育を行っている。
九時になると和室の照明を落とし、オレンジ色の小さな間接照明に切り替える。部屋の中が薄暗くなると、ぱらぱらと子どもたちは布団に横になる。すぐに寝入る子もいれば、しばらく寝返りを打ったり、もぞもぞしている子もいる。風汰と坂寄は、そういう子どもの横に座って、タオルケットの上からとんとんしたり、額から目元をゆっくりなでるなどして寝かしつける。
「せんせぇ」
右の布団で横になって指をくわえていた萌ちゃんがぱちんと目を開けた。
「どうした?」
萌ちゃんは口の横に両手を添えた。ナイショ話か? と風汰は萌ちゃんの手に耳を近づける。
「あしたね、どうぶつえんにいくの」
ああ、萌ちゃんは明日お休みだったなと、耳を離して笑顔を向けた。
「よかったじゃん。どんな動物がいるかな」
うんとね、と萌ちゃんは鼻の穴を膨らませた。
「ぞうと、きりんと、ぱんだ」
「白くまもいんじゃね?」
うん! と大きくうなずいた。
「じゃあ、早く寝なきゃな」
「わかった」と、満足したように目をぎゅっとつぶった。
すげー楽しみにしてんな。でも、そういうことを得意げに友だちに言ったりしないことに、ほんの少し切なくもなる。
晴れるといいな、と思いながらタオルケットの上をとんとんとんとんした。
かくん、と頭が揺れて風汰は慌てて口元をぬぐった。周りに目をやると、子どもたちはもう寝息をたてている。一緒に寝かしつけていたはずの坂寄は保育室の長テーブルで書き物をしていた。
風汰は小さくあくびをしながら布団のあいだをつま先立ちで保育室の方へ行くと、連絡帳入れに残っているノート四冊を持って坂寄の向かいに座った。スタンドの明かりがまぶしい。
「よく寝てたね」
顔をあげずに、少し笑いを含んだ声で坂寄が言った。
「え、寝てないっす」と風汰がとぼけると、坂寄はそれ以上なにも言わず連絡帳をつけている。
連絡帳は保育園と保護者の重要なコミュニケーションツールだ。それは学校でも実習先でも言われたけれど、つい最近まで連絡帳は風汰にとって厄介、というより苦手な業務だった。まず連絡帳を開いても、なにを書けばいいのか思い浮かばない。毎日なんとかひねり出して、
『お友だちと三角公園へ行きました。ブランコと砂場で二十分くらいあそびました。桜がきれいでした』
『折り紙を上手に折っていました。夕食はポテトサラダがおいしかったみたいで、おいしいと言っていました』
行動記録にもならないようなざっくりとしたことを書いていたら、芹香ちゃんのお母さんにずばり言われた。
「風汰先生の書く連絡帳って小学生の日記みたいでつまんない」
親子って似ている……。ただ、言い得て妙だと、風汰はむっとするより前に感心してしまった。
「連絡帳に書くより話した方が早くないっすか」と園長に提案してみたこともあったけれど、秒で却下された。
「連絡帳はコミュニケーションツールっていうだけじゃなくて、保育士にとっても大切なのよ」
園長はそう言ったけれど、風汰にはまるで意味が分からなかった。
毎日連絡帳に苦労している風汰を見かねたのか、坂寄に「うまくなくてもいいんだよ」と言われたことがある。
「たとえば芹香ちゃん、さっき明日奈ちゃんをとんとんしてあげてたでしょ。あれって寝かしつけだよね。この頃、小さい子のそばによくいるし、お世話してくれてるんじゃない?」
そう言われれば、と風汰がうなずくと、坂寄は口角をあげた。
「風汰先生の目に映った今日の芹香ちゃんを具体的に書けばいいんだと思うよ」
なるほど、と連絡帳を書くためにと意識して子どもたちを見るようにした。忘れそうなエピソードは簡単にメモをしておく。すると、自然と書くことにも困らなくなった。とはいえ、「子ども達の『達』、羊の横棒が一本少なかったよ」だの、「熊度ってなんだろうって考えちゃった。態度のことですね! もう夜中にめっちゃ笑った」と、保護者から誤字脱字等々でよく笑われるが、内容についてのクレームはなくなった。
「ママがね、ふうたせんせーのれんらくちょうがおもしろいってわらってた」と、芹香ちゃんから聞いたときは、思わず「しゃっ!」と声をあげた。
連絡帳は、子ども一人ひとりをきちんと見て保育するという意識を高める――。
それに気づいたとき、風汰は園長のことばの意味がちょっとわかった気がした。
よし、と風汰は連絡帳をテーブルに並べた。空君、萌ちゃん、翔真君、芹香ちゃんの四人分だ。坂寄とは子どもの担当分けはせずに、全体をふたりで見るようにしている。連絡帳も半分ずつ担当するが、どの子の連絡帳を書くかは決めていない。今日は散歩に行った子と居残り組の子とで坂寄は分けたようだった。厳密に言うと、ノコちゃんは散歩組だが、そこはノコちゃんママのこともあって坂寄が引き受けてくれたのだろう。
ポケットのメモ帳に目を通した。
翔真君は散歩で取ってきた猫じゃらしを留守番をしていたお友だちにあげていたこと、芹香ちゃんの連絡帳には、芹香ちゃんに挨拶のダメ出しをされたということを自虐を込めて書いた。萌ちゃんは散歩のときの猫じゃらしの話と、明日、動物園に行くのだとこっそり教えてくれたことを書いて、楽しんできてください! と付け加えた。
最後に空君の連絡帳を開いた。絵本を熱心にめくっていたことを書きながら、ふと、お散歩でのことが気になった。猫のおばあさんが、猫の新しい家がどうのと話しているとき、空君は不安そうな顔で風汰の指をにぎった。なんであんな顔をしたんだろう……。
気にはなったけれど、それは連絡帳に書かなかった。
「おわったー」
ボールペンを置いて、ぐっと伸びをした。
「誤字脱字のチェックね」と坂寄は風汰にひとこと言って、子どもたちの布団の方へ行った。
(つづく)