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 そのことに最初に気づいたのは、遅番の坂寄だった。
 いつもより一時間半ほど早くに出勤した坂寄は、保育室に顔を出すと「めぐみちゃんのお母さん来たの?」と、風汰に聞いた。
「えっ? おれいま休憩入ってて」
 風汰は保育室を見渡して、おやつの準備をしている二宮と井浦に「めぐみちゃんは?」と声をかけた。
 はい? と首をかしげる二人に「めぐみちゃんのお母さん、お迎えに来たの?」と坂寄が繰り返すと、「園庭見てきます」と井浦は園庭に足を向け、二宮はなにも言わず、トイレと押入れの中を捜して、ままごとをしている明日奈ちゃんと翔真君に「めぐみちゃんは?」と尋ねたけれど、二人とも知らないと言った。
 園庭から戻ってきた井浦が表情をこわばらせながらかぶりを振ると、二宮の顔色がすっと白くなった。
「門は? 閉まってた?」
「閉まってました」
 井浦の答えに、みな一様に息を漏らした。それなら園のどこかにいるはずだ。
「おれ、事務室見てきます」と、風汰は踵を返した。
 事務室へ行くと、園長は電話中だった。すみません、と事務机の下を覗き込んでいると、園長は受話器を耳にあてたまま、どうしたの? というように首を傾げた。
「めぐみちゃん、きてないっすか」小声で言う風汰に園長は首を横に振った。手のひらが汗ばむ。
 いないってどういうことだ。昼寝の時間、めぐみちゃんと芹香ちゃんは眠くないといって、二人で折り紙をしていたのは風汰も見ている。そのあと……と考えているとインターフォンが鳴った。
「でます」と、言ってカメラモニターを見ると萌ちゃんとお母さんが映っている。
「おはようございます」と門の解錠ボタンを押して、風汰は廊下に出た。
「おはよーございます!」と、萌ちゃんが玄関から駆け込んできた。
「はい、おはよーございます。萌ちゃん、今日も元気だね」
 うん! と靴を下駄箱に入れて萌ちゃんが廊下を駆けていくと、お母さんがうしろを振り返りながら入ってきた。
 おはようございます、と風汰が声をかけると、お母さんは不思議そうな目をして顔を向けた。
「どうかしたんすか?」
「あ、いえ……、いまの子って小学生ですよね」
「いまの子って」
「いま入れ違いに出て行った女の子」
「出て行った!?」
 めぐみちゃんだ。
 風汰はサンダルをつっかけて門まで行くと振り返った。
「お母さん! その女の子、どっちに行ったんすか」
 萌ちゃんのお母さんは戸惑ったように駅の方を指さす。
 めぐみちゃんのアパートも、もともと住んでいたマンションも駅向こうだ。当時の記憶がどこまであるかはわからないけれど、二年間、毎日お母さんの自転車のうしろに座って通った道なのだから、駅までの道順は覚えているかもしれない。
 風汰は門の左上にあるキーに暗証番号を入れて門を開けた。
「風汰先生!」
 園長の声が聞こえたけれど、風汰は振り返らず駆け出した。
 夕方のこの時間、駅前通りは、人でごった返している。そこに紛れたら背の低い子どもを捜すのは容易ではない。事故や事件に巻き込まれる可能性だって……。
 どうしても通りに出る前に見つける。大丈夫、めぐみちゃんが出ていってからまだ二分も経っていないはずだ。角を曲がれば、次の角を曲がれば必ずいるはず。
 上り坂を駆けあがりながら、めぐみちゃんの姿を捜した。
 どうして出ていった? 助けを求めて連絡してきてくれたのにどうして? さっきまで『すずめ』の子たちと楽しそうにあそんでいたのになんで? なんで黙って出ていくんだ。
 風汰はぎゅっとこぶしを握った。そんなことはどうでもいい。いまは無事にめぐみちゃんを見つけること。ただそれだけだ。
 首筋に汗が流れる。気持ちはせいているのにサンダルでは思うように走れない。どこだ、どこにいる。
 気づくと風汰は早稲田通りに出ていた。
 園から駅方面へ最短の道を駆けてきたのにめぐみちゃんはいなかった。さすがに小学二年生の足に追いつけないはずはない。ということは、通りに出るまでのルートが違ったと考えたほうが自然だ。
 風汰は足を止めた。
 強い日差しに頭がじりじりする。空気が重い。襟足からぽたぽたと汗が垂れる。額の汗をポロシャツの袖でぬぐいながら周囲に目を凝らしていると、突然、目の前が金粉がばらまかれたようにきらきら光った。強く目をつぶってもその光は消えない。足元がふらつき、目がまわる。街の音が遠のく。
 やばい、なんなんだこれ。風汰は膝に手を突いた。
 ………………………。
「先生? 風汰先生?」
 誰かが名前を呼んでいる……。
「え、大丈夫ですか? ちょっとここに座って」
 やわらかな手が風汰の腕をつかんで、歩道の端に座らせた。
「ちょっと待っててくださいね」
 小さくあえぐように息をしていると、首元がひやっとした。
「冷やすと落ち着くと思うから。それからこれ」と、ペットボトルを握らされて、飲むように促された。ほのかな甘みと塩分がからだにしみていく。
 呼吸が整っていくと雑踏の音が耳に戻ってきた。つぶっていた目を薄く開けると、目の前に化粧っ気のない女の人がいた。
「大丈夫ですか?」
「琉生君の」
 助産院を営んでいる琉生君のお母さんだ。琉生君は日ごろは昼間の認可保育園に通っているが、お産が夜間にかかるときなど一時保育として『すずめ』にやってくる。
「すみません」
 そう言って首にあてられている氷入りのビニール袋を手にして風汰は立ち上がった。
「もう少しからだを冷やして休んでいた方がいいですよ」
「大丈夫っす。ちょっと寝不足気味だっただけで」
 風汰はへへっと笑い、「これありがとうございます」と、首のビニール袋を持ち上げた。
「飲み物代を」とポケットに手を入れて、なにも持ってきていないことに気がついた。
「いいんですよ、これくらい。氷はそこのお蕎麦屋さんがくれたものだし。いつも保育園にお迎えに行くとおいしい麦茶を飲ませてくれるじゃないですか。そのお礼」
 琉生君のお母さんは目じりにしわを寄せた。
 すみません、と風汰は頭を小さく動かした。
「でも、こんな時間にどうしたんですか?」
 あっ、と風汰は思わず声をあげて周囲に視線を走らせた。
「おれ、何分くらい座ってました?」
 琉生君のお母さんは腕時計を見て「十二分」と答えた。
「……めちゃくちゃ正確っすね」
 風汰が言うと、お母さんは「癖なんです。職業病」と苦笑した。
 さすが助産師……。
 風汰は「ありがとうございました」ともう一度、今度は深く頭を下げて駆け出した。
 早稲田通りから駅前ロータリーの方へ行くと正面にビッグボックスがある。ビッグボックスは高田馬場のいわゆるランドマーク的な建物で、入り口付近はいつも待ち合わせをする人でにぎわっている。それを横目につつじ通りに足を向けたとき、目の端になにかが映った。
 めぐみちゃん?
 足を止めると、うしろからの通行人が肩にぶつかり舌打ちをされたけれど無視をして、じっと目を凝らした。
 たしかにめぐみちゃんだ。交番の前で、腰をかがめた警察官と話をしている。
「めぐみちゃん、めぐみちゃん!」
 名前を呼んで駆けていくと、めぐみちゃんは驚いた顔をして、それから困ったように視線を落とした。
「よかった。マジでよかった!」
 めぐみちゃんの両肩に手をのせた風汰に、「お父さん? じゃないよね。ご家族のかた?」と頭上から警察官の声がした。口調も表情も柔らかいし、年も風汰とさして変わらないくらいの若い警察官だけれど、どことなく威圧感があるのは制服のせいだろうか。風汰は警察官のことばに無意識にこくりとうなずいて、あわててかぶりを振った。
「え、どっち、違うの?」
 警察官がめぐみちゃんを見ると、めぐみちゃんは肩をすくめた。
「おれは保育士です。めぐみちゃんはうちの園の卒園児で、昨日から園で預かっていて」
 風汰が言うと警察官はじっと風汰を見た。眼光が鋭い……ような気がする。
「昨日からって、保育園って何時までやってるんですか? だいたい卒園児って」
 ごもっともな反応に風汰がへらっと笑うと、警察官は不審な目を向けて、「ちょっとお話聞かせてもらっていいですか」と、交番を指さした。
「えっと、おれはべつに話とかないっすけど……」
「お時間はとらせませんので、ね」
 強制力はないのだろうけれど、下手にごねると面倒なことになりかねない。たいした問題でもないのに、反発したことでかえって厄介なことに発展していく、という負のループは中学や高校のとき学校でちょいちょいあった。
 仕方なく交番へ行くと、パイプイスに座るよう促された。警察官も正面に腰を下ろしてバインダーを開いた。
「名前は?」
「斗羽風汰と片平めぐみ、です」
「斗羽さんは保育士さんでしたね。身分証明書を見せてもらえますか」
 なぜそんなものを見せなきゃいけないんだ、と内心愚痴りながらポケットに手を伸ばしてひやりとした。
「持ってないです」
 警察官はなにやらメモをとりながら「免許証でもいいんですよ」と顔をあげた。
「財布、持って出るのを忘れちゃって」
「忘れたのに、それは買えたんですか」と、風汰が持っているペットボトルに警察官は目をやった。
「これはたまたま会った、うちの園の保護者からもらって」
 そう言いながら風汰自身、そんな都合のいい話があるかとつっこみたくなった。が、事実なのだからしかたがない。
「マジで」と付け加えてみたけれど、自分のことながらますますあやしく感じた。
「そうですか」と言いながらも、風汰を見る警察官の目は不審の色が濃くなっているし、めぐみちゃんも心配そうな顔で風汰を見上げている。
「片平めぐみちゃんはなぜ一人で? 先ほどのお話ですと、保育園で預かっているということでしたね」
 めぐみちゃんを園で預かっている経緯を話せば、めぐみちゃんのお母さんはネグレクトの疑いがあると児相に通報されかねない。慎重にことばを選ぶ必要がある。なにより、となりにめぐみちゃんがいるのだ。母親を悪く言うようなことは口にしたくないが、うまくいく気がしない。
 風汰が口ごもっていると、警察官は今度はめぐみちゃんを見た。
「どうして保育園から一人で出てきちゃったの? 先生、心配して捜しに来てくれたんじゃないかな」
 そこは信じてもらえているんだ、とほっとしながら、風汰はそっとめぐみちゃんを見た。
「かぶきちょーにいきたかったから」
「カブキチョー?」
 警察官と風汰の声が重なって、二人は顔を見合わせた。
「せりかちゃんのパパが、せりかちゃんのママにいってたって、せりかちゃんがおしえてくれた」
 ……歌舞伎町か。
 芹香ちゃん、お母さんとお父さんの会話を聞いていたんだ……。
「なにを教えてくれたの?」と首をかしげる警察官を無視して、風汰はめぐみちゃんの方にからだを向けた。
「めぐみちゃんの気持ちはわかった。でもそういうときは先生たちに相談して」
「だって」と、めぐみちゃんが上目遣いで風汰を見た。
「ひとりで頑張るんじゃなくてさ。先生たちも園長先生によく言われるんだ、一人でやろうとするなって。突っ走らないで、ちゃんと相談して、保育は協力しあわないといけないって」
「いま、ひとりですよね」
 警察官が横から余計なことを口出しする。
「……だからこういうことになっちゃってるんじゃないっすかね」と風汰が返すと、なるほどと複雑な表情をした。
「身分証明書がないということなので、職場に連絡して確認をとらせてもらいますけど」
 はい、と軽く頭を動かすと、奥から年配の警察官が出てきて、めぐみちゃんの前に「どうぞ」と紙パックのりんごジュースを置いた。
「すみません。ありがとうございます」
 風汰が言うと、めぐみちゃんも「ありがとうございます」と言った。
「じゃあ、ここに保育園名と電話番号を記入してください」
 受け取った用紙に、『すずめ夜間保育園』と書いたところで、「逢沢さんのとこ!?」と年配の警察官が声をあげた。
 風汰が顔をあげると、「園長先生、逢沢鈴音先生でしょ」とその警察官は嬉しそうに言った。
「三宅さん、お知り合いなんですか?」
 さっきから対応している若い警察官が言うと三宅という警察官はうんうんとうなずいてまじまじと風汰を見た。
「逢沢さん破天荒な人でしょ。熱いっていうかね。そうか、こんなに若い男の保育士さんが逢沢さんのところで頑張ってるんだなぁ。捨てたもんじゃないね、日本も」
「そっすか、まあ、そうっすね」
 風汰は照れたように笑いながら、園長ってそんなに破天荒だったっけ? と記入した用紙を机の上で若い警察官の方に滑らした。
「おれとめぐみちゃん、いま帰るんで心配しないでくださいって伝えてください」
 若い警察官は用紙を確認して、「はいはい」と受話器をあげた。

「無事でよかった」
 園長が玄関に飛び出してきてめぐみちゃんを抱きしめると、めぐみちゃんは目を赤くして「ごめんなさい」と、園長の背中に腕を回した。
 子どもは素直というか残酷というか……。さっき風汰が声をかけたときとは雲泥の差だ。
 複雑な気持ちで風汰が二人を見ていると、廊下からトレーを持って坂寄が入ってきた。
「めぐみちゃん、よかった」と笑顔を向け、隣にいる風汰には軽く拳骨を落とした。
 すんません、と風汰は肩をすくめる。
「おやつ、とっておいたからね。手を洗ってらっしゃい」と事務室の端にある小さなシンクを指さした。めぐみちゃんが手を洗っている間に、坂寄は麦茶とおからドーナツをテーブルに並べ、風汰にも麦茶の入ったコップを渡すと保育室へ戻って行った。
「それで、めぐみちゃんはどこへ行きたかったのかな」
 ドーナツを食べ終わると園長は質問した。めぐみちゃんは少し迷ってから「かぶきちょー」と答えた。
「歌舞伎町のことっす」と風汰が補足すると園長はぴくりと眉を上げて、風汰に目をやった。
「おれ、話していいかな」
 風汰が問うと、めぐみちゃんはこくりとうなずいた。じゃあ、と風汰はゆっくりまばたきをした。
「めぐみちゃん、お母さんが歌舞伎町にいたって芹香ちゃんから聞いたんです。で、これはおれの推測なんっすけど、芹香ちゃんは昨日、降園中に車の中で目が覚めてお父さんとお母さんの会話を聞いちゃったんじゃないかって。で、めぐみちゃんは歌舞伎町に行こうとしてたんだよな?」
「うん」
「めぐみちゃん、歌舞伎町ってどこにあるか知ってるの?」
 園長が尋ねた。
「しんじゅく。せりかちゃんちのおみせのそばだって」
 ん? 風汰は首を傾げた。
「どうやって新宿に行こうとしてた?」
 西武線に乗れば一駅だけれど、めぐみちゃんはお金を持っていないはずだ。
「歩いて行こうとしたの?」
 うん、とめぐみちゃんは頭を縦に動かした。
「でも、道わかってなかったよね? ビッグボックスのところでもう迷子になってたわけだし」
 風汰が言うと、めぐみちゃんは唇を尖らせた。
「さがしてたんだもん」
「なにを?」
「おおきなまゆのビル。まゆのビルはしんじゅくにあるんだよってママがまえにいってたもん」
 大きな繭のビルといえば西新宿にあるなんとかという専門学校が造った奇抜なビルだ。そういえば、駅からめぐみちゃんの家に向かう途中のつつじ通りから真正面に見える。
「まゆのビルがみつかったら、めぐみ、しんじゅくいけるもん」
「すげえな」
 思わず風汰は呟いた。無謀に思える行動についてではない。めぐみちゃんの強さにだ。
 風汰はすっと息を吸った。
「園長先生、お母さんと連絡はついたっすか?」
 お母さんのことはめぐみちゃんの前では言ってはいけないと思っていた。コンセンサスなど図らずとも、当然の配慮だと保育士全員が思っていたはずだ。でも、それはめぐみちゃんに対しての最善だったんだろうか。
 知る権利が、めぐみちゃんにはあるはずだ。それでめぐみちゃんが傷つくことがあったとしても、少なくとも信頼できる大人が、めぐみちゃんのことを思っている大人たちがここにいることに気づいてほしい。知っていてほしい。
 風汰は園長をじっと見た。その思いを感じ取ったように、園長はめぐみちゃんと目を合わせた。
「お母さんを捜してもらおうか」
 めぐみちゃんは、じっと園長の顔を見た。
「昨日からずっとお母さんの携帯電話に連絡しているけど、お母さんは出ないの」
「めぐみも、きのうもそのまえもでんわしたけどでなかった」
 うん、と園長は頷いた。
「何か御用があって、どうしても連絡できないのかもしれない。でも、もしかしたら事故とか事件に巻き込まれていることだってあるかもしれない」
 園長はめぐみちゃんの隣に座って肩を抱いた。
「めぐみちゃんも、お母さんのことをいろいろ考えたんだよね。だから保育園に電話してくれたんじゃない?」
 風汰はどきりとした。めぐみちゃんは一人でさみしくて連絡をしてきたのだと思った。そう思い込んでいた。めぐみちゃんの気持ちを聞くことはしなかった。
 スカートを握るめぐみちゃんのこぶしが小さく震えた。
 めぐみちゃんは自分のことではなく、お母さんが心配だったんだ……。
 風汰は声が詰まった。

 届けを出すのは早い方がいいと、夕食前に園長はめぐみちゃんと戸塚警察署へ行き、お母さんの行方不明届を提出した。

 

(つづく)