最初から読む

 

 もしもあのとき別の選択をしていたら、いまどんな人生を送っているだろう。そんなことをふと考えるときがある。考えても意味のないことだとわかっているし、いまの生活に不満があるわけでもない。それでも、ふとしたときに「もしも」を考えてしまう。
 カップに入ったコーヒーを飲み干して、坂寄千温はコーヒーショップを出た。
 土曜日の夕方だけあって街はいつも以上に人があふれている。待ち合わせをしている西武新宿駅の駅前広場へ行くと、こうすけが「こっちこっち」と手をあげた。それに応えて千温も手を上げた。
「ごめん、待たせちゃって」
「いいよ。まだ約束より前だし」
 そっか、と千温は目じりを下げて隣にいる女性に会釈をした。
「千温さん、お久しぶりです」
「こちらこそ。わざわざ新宿まで来ていただいてすみません」
 いえ、とかぶりを振って口角を上げた。
「浩介君、九時にここでね」
 浩介は無言でうなずいて、「行こ」と千温のシャツを引いた。
れいさんは過保護すぎるんだ」
 雑踏の中をしばらく行くと浩介はシャツを離した。
「まあ、お母さんだからね」
「ちげーし。義母だし」
「義母もお母さんには違いないけどね」
 千温はおかしそうに笑って、浩介の頭にぽんと手を当てた。
 浩介は千温の一人息子だ。九年前、浩介が二歳になった春に離婚をして、いまは離れて暮らしている。
「みなさん元気?」
 千温が言うと、浩介はちらと顔を上げて不機嫌そうにうなずいた。
 二か月前よりまた少し背が伸びた。
「ねえ、今日はなに食べる!? 焼き肉でもお寿司でもなんでもいいよ。あ、ステーキとかどう?」
 浩介はうーんと視線を上げた。
「おれ、ファミレスがいい」
「また?」
「だってファミレスならいろんなの頼めるしさ。面白いじゃん。いいでしょ、行こっ」
 このところ三回続けてファミレスだ。最初は、子どもはファミレス好きだよね、程度に思っていたが、次にファミレスと言ったとき、もしかしたらこの子は気を遣っているのではないかと思い、今日で確信した。浩介は母親の懐事情を考えているのだろう。それはちょっと切なくもあったけれど、千温は気づかないふりをした。
「おれ、これにする」と、浩介はイタリアンハンバーグとライスとドリンクバーを頼んだ。
「ピザとかパスタは?」
「そんなに食べられないよ」と笑って、ドリンクを取りに行った。
 笑い方までちょっと大人びて見えた。こういう変化は毎日顔を突き合わせている母親にはわからない感覚かな、と思って、そんなことはないかと苦笑した。自分は毎日保育園で子どもたちを見ているけれど、日々小さな成長を感じている。もちろん間が空くと、その変化にはより気づきやすいが、毎日顔を突き合わせていても、その子をちゃんと見てさえいれば、成長や変化は感じるものだ。
 礼香さんも浩介の成長を日々感じているのだろうな、と千温はほんの少し悔しかった。
 けれど、礼香という女性が母親として浩介のそばにいてくれるのは幸せなことだとも思う。元夫であるたかひろを唯一ほめてもいいと思うのは、再婚相手が礼香だったことだ。
 いま、こうして浩介と会うことができるようになったのも礼香のおかげなのだ。
「コーヒーでいいんだよね」
 浩介がテーブルに、ソーサーにのせたカップとミルクを置いた。浩介はコーラだ。
「ありがとう。で、最近どんなことがあった?」
 うーん、と浩介はストローに口をつけながら「べつに、特別なことはないよ」とつまらなそうに言った。
「じゃあ特別じゃない話を聞かせてよ。学校はどう?」
 千温はミルクを入れながら眉を上げた。
「ふつうに楽しいよ。でも、塾がめんどい」
 浩介は三年生の時から塾に通っているのだと言っていた。
「そうなの? 前はけっこう楽しいって言ってなかった?」
「前の塾はね。実験とかもさせてくれたし先生も面白かったけど、いまの塾は中学受験専門のとこだからふつうに勉強なんだ」
「中学受験するの? 私立の小学校に行ってるのに」
「みたい」と、コーラを吸ってずずっと音を立てた。
「五年生なんだからサッカーチームはやめて、塾の日数を増やせって、ばあちゃんうるさいし」
 ああ、そうだろうなと千温が視線を下げると、浩介ははっとしたように「ごめん」と言った。
「あの人の話なんか聞きたくないよね」
「べつにいいよ、相変わらずなんだなって思っただけだから。でも、サッカーやめちゃっていいの? このまえスタメンになったって」
「あ、うん、それは大丈夫。礼香さんがばあちゃんを説得してくれたから」
 へー、よかったねと言うと、浩介は「まあね」とうなずいた。
 お待たせしました、と料理の皿が運ばれてきた。
「いただきます!」と浩介はフォークとナイフを上手に使って食べ始めた。
 ……わたしなら、あのお義母さんを説得するのは無理だっただろうな、と千温は薄く笑った。礼香と自分はなにが違ったのだろう。それとも数年たって、義母も少し丸くなったのだろうか。

 義母だった人は、最初から息子の隆浩と千温との結婚をよくは思っていなかった。千温の最終学歴が短期大学だということも、父親が母親の再婚相手で血がつながっていないという家族構成も気に入らず、保育士という仕事をしていることも、医者である息子とは釣り合わないと、はっきり言われたこともあった。
 ひと言でいえば、千温は義母が思い描いていた息子の嫁ではなかったということだ。
 さらに義母は、結婚後も保育士を続けることにも強く反対した。反対したあげく、どうしても続けるというのなら同居をすることが条件だと言いだした。息子に不自由な思いをさせるわけにはいかないというのだ。
 いま思えば、なぜ拒否しなかったのかと首をかしげるしかないが、「二世帯住宅にすればいいよ。実家が近いと、将来子どもが生まれてからもなにかと手伝ってもらえるし、悪い話じゃないと思うんだ」などという隆浩の説得もあり、玄関もキッチンもトイレもバスルームもわけて、基本的に生活は別という約束で義母の家を改築することになった。
 一階は義母の自宅で、二階が千温たち夫婦の住居だ。
 一年後、改築が終わって越していくと内側に扉があり、一階と二階は自由に行き来できる造りになっていた。「いざというとき用だよ」と隆浩は笑っていたが、千温が危惧していたとおり、義母は当たり前にそのドアを使うようになった。やめるようにお義母さんに言ってほしいと隆浩に何度も頼んだけれど、「そのうち言うよ」と面倒そうにうなずくだけだった。そのうち、家に帰ると部屋が妙に整頓されていたり、買い忘れた牛乳が冷蔵庫に入っていたりするようになった。義母は当然のように留守中に出入りしていた。
 そんな状況が続いたある日、残業でいつもより遅くに家に帰ると、洗濯物を義母が取り込んでいた。「やめてください!」千温は叫んでいた。
 義母は親切のつもりだったのだろう。それでも、自分の生活に無断で入り込まれるのは耐えられなかった。
「冷蔵庫の中をチェックするのはやめてください。足りなかったら自分たちで買ってきます。掃除も結構です。少しくらい汚れていても死んだりなんてしませんし、休みの日に隆浩さんと掃除するつもりだったんです」
 一気に言うと、義母は手にしていた洗濯物を床の上に放り投げて、なにも言わず内階段から降りて行った。
 その夜、隆浩は遅くに帰ってきて、いままで一階にいたのだとため息をついた。
「泣いてたよ。よかれと思ってしていたのに、迷惑だって怒鳴られたって」
 怒鳴ったつもりはないし、迷惑などということばも使っていない。だいたいなぜこの人は妻ではなく母親をかばうんだろう。千温が憮然としていると、隆浩は疲れた声を出した。
「お袋は親切でやってるんだから甘えればいいんだよ。少しくらいうっとうしくても、そこんとこはうまく利用してるくらいに思えばいいじゃん。頭使えよ」
 あまりの言いぐさにことばを失った。
 この日を境に隆浩とも距離を感じるようになった。が、皮肉なことにこの直後、妊娠がわかった。
 妊娠中は穏やかな生活が続いた。胎児への影響を考えてか、義母も千温が感情的になるようなことは一切しなかった。
 無事に子どもが生まれ、隆浩の名前から一字とって浩介と名付けた。なぜ夫の名前からなのかと思わないわけではなかったが、それは口にしなかった。余計なことを言って空気を悪くしたくなかったし、なにより愛おしいわが子を抱く幸せに満ちていたからだ。
 一年間育休をとり、その間に無事保育園も見つけた。浩介を保育園に入れると言ったら、義母がなにか言ってくるのではないかと千温は身構えていたが、義母は拍子抜けするほどなにも言わなかった。もしかしたら孫がかわいくないのだろうか、といぶかったくらいだ。
 浩介が入園し、千温も保育士の仕事に復帰した。とはいえ、入園後、浩介はしょっちゅう熱を出した。集団生活で必要な免疫力がつくまではしかたのないことだ。職業柄、千温はこういう状態になることはある程度想定していたし、職場の理解もあった。それでもしょっちゅう、熱が出たとお迎えコールがあると気持ちが重くなった。周りに迷惑をかける、園児たちに申し訳ない、保護者がお迎えに来る時間にいることができない……。
 浩介のことは愛おしいはずなのに、ふいに足枷のように感じた。
 仕事の復帰が早すぎたかもしれない、と思うようになった一方で、世の中には子育ても仕事もどちらも両立させている人がたくさんいる、勤めている保育園の保護者たちが、いかにすごいことをやっていたのかと気づき、保護者に対して見方が変わった。
 入園から二か月。浩介の風邪が千温にうつって四十度の熱を出した。浩介もまだ熱があり保育園に預けるわけにもいかない。隆浩はなるべく早くに帰るからといつも通り出勤してしまった。
 熱にうなされながらベッドで丸くなっていると、ベビーベッドで浩介が泣きだした。けれど、からだが動かない。どうしたらいいのだろうと涙が出た。
 そのとき義母が顔を出した。内階段から入ってきたのは一年以上ぶりのことだった。
「ずっと泣いているから、なにかあったのかと思ってきたのよ」
 義母はベッドの中にいる千温に言い、浩介を抱き上げるとおむつを替え、離乳食を食べさせた。
 浩介をあやしながら、義母は千温を見て息をついた。
「浩介の面倒はわたしが見ます。あなたはちゃんと寝ていなさい」
 そう言って浩介を連れて階段を下りて行った。
 敬遠していたはずなのに、義母の姿を見てほっとした。ありがたかった。一人ではどうしようもなかったのだ。
 しばらくすると、義母はおかゆを作って持ってきてこう言った。
「これからはわたしを頼ってちょうだい」
 只々、義母のことばがありがたかった。疑心暗鬼になって拒絶し、バイアスをかけていたのは義母ではなく自分だったと罪悪感に苛まれ、恥じた。これからはいい関係を築いていきたい。いい嫁、いい娘になりたい……そう思った。
 この出来事を機に、保育園の送り迎えは義母がするようになった。どうせ暇なのだから頼ってくれていいと言われて、千温はそれに甘えた。そのうち、ついでだからと夕食も風呂も済ませてくれるようになり、気付けば、浩介は家にいる大半の時間を一階で義母と過ごすようになっていた。二歳になって間もなく、浩介は保育園を退園した。千温には寝耳に水の出来事だった。義母に問うと、「隆浩と相談して決めたのよ」と、なんでもないことのように言った。?然としていると、義母は膝に座らせている浩介の頭に手を当てた。
保育園なんて、、、、、、行かせる必要ないじゃない。浩介がかわいそう。だいたい、三歳までは家庭で愛情深く育てるべきなのよ」
 義母のことばに肌が粟立った。
「帰ろう」と、義母から浩介を引きはがそうとしたとき、浩介は泣き出して義母にしがみついた。
「あらあら、お母さん怖いねぇ。おばあちゃんがいるから大丈夫よ」
 義母はいつから、どこまで計算していたのだろう。いや、計算だったのか、なりゆきだったのかはわからないけれど、結果的に千温から浩介を奪ったのは義母だ――。
 それからしばらくして、千温はひとりで家を出た。

「ごちそーさまでした」
 浩介の声に視線を上げると、皿の上ににんじんが残っている。二歳の頃から変わらない。
「相変わらずなんだから」と千温が言うと、浩介はいたずらそうに笑って飲み物を取りに行った。こんどはカルピスだった。
「デザートなにか食べる?」
「いいの? やった」
 浩介はメニューを開いた。こんな様子はまだ小学五年生の子どもだ。
 プリンを追加注文していると、「ちはるせんせい!」とキーの高い声がして、向こうの席から女の子が駆けてきた。
 千温が勤めている『すずめ夜間保育園』の園児の芹香ちゃんだった。
「びっくりした! あれ、お店、お休みなの?」
 芹香ちゃんの両親は新宿で小料理屋を営んでいる。何度か、お迎えのときに店で出しているおでんを差し入れてくれたことがある。
「おやすみじゃないよ」と、芹香ちゃんが言うと、そのうしろから「いつも孫と娘夫婦がお世話になっています」と、中年の女の人がやってきた。
「あ、芹香ちゃんのおばあちゃんですか? 初めまして、保育士の坂寄です」
 千温が立ち上がろうとすると、おばあちゃんはそのままでというように手で制した。
「仕事でこちらに来たので、ちょっと芹香の顔を見たいと思って」
「そうなんですね。芹香ちゃんよかったね」
「うん! いまね、おばあちゃんと、おとうさんのおみせでごはんたべたの。おいしかったよね」
 そうね、とおばあちゃんは目じりにしわを寄せた。
「プリンを食べたいって芹香が言うので帰りがけに寄ったんです」
 お待たせしました、と浩介が頼んだプリンを店員が持ってくると、芹香ちゃんはそれをじっと見た。
「あ、えっと食べる?」
 浩介がプリンの皿を芹香ちゃんの方に押すと、芹香ちゃんはまじまじと浩介を見上げた。浩介の存在にいま気づいたようだった。
「芹香はもう食べたでしょ。お食事中に失礼しました」と、おばあちゃんがあわてたように芹香ちゃんの手を引いた。
「ばいばい」と振り返りながら、手を振る芹香ちゃんに「気をつけてね」と千温も手を振った。
「あの子もいつも夜中まで保育園にいるの?」
「そうね。芹香ちゃんのおうちは小料理屋さんをしているから」
『すずめ夜間保育園』の開所時間は、午前十一時から深夜二時までだ。園児の大半が午前零時過ぎのお迎えになる。
 そうなんだ、と浩介はプリンに視線を落としてぼそりと言った。
「なんか、かわいそうだね」
 千温はコーヒーカップを握った。これまで何度も聞いてきたことばだ。いまでこそ保育園に子どもを預けることを「かわいそう」ととらえる人は減ったけれど、夜間になると話は別だ。同業であっても、夜間保育に懐疑的な人は少なくない。けれど、浩介の口からは聞きたくなかった。
「かわいそうな子たちじゃないよ」
 千温は口の中でつぶやいた。

 

(つづく)