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 二十時五十分にファミレスを出た。駅前広場に二十一時の約束だ。
「ぎりぎりだ。少し急いだほうがいいね」と千温が言うと、「あのさ」と浩介が言った。
「あのさ、もしお母さんと暮らしたいって言ったらどうする?」
「えっ?」
 足を止めると、「冗談だよ」と浩介は笑った。
「いいよ」
 千温が言うと、今度は浩介が驚いた顔をして「冗談だってば」と、千温を追い越していった。
 こんなことを言うのははじめてだった。しかも帰り際になって……。なにも言わず前を歩いて行く浩介の腕をにぎった。
「なにかあった?」
「べつに」と、手を振り払うようにして浩介は足を速めた。
 駅前広場へ行くと、礼香は百貨店の紙袋を二つ足元に置いてスマホをいじっていた。
「礼香さん」
 千温が声をかけると、礼香は顔を上げて小さく会釈をした。
「浩介君、楽しかった?」
 ちょん、と首肯すると浩介は千温を振り返って「じゃあね」と手を上げた。
 浩介、いつでも、と言いかけて「またね」と千温も手を上げた。
 大ガードの方へと歩く二人の背中を目で追いながら千温はかぶりを振った。
 いまなにを言おうとしたのだろう。いつでも連絡してね、だったのか、いつでもお母さんのところへおいで、だったのか。どちらにしても礼香の前で言うようなことではない。
 ――あのさ、もしお母さんと暮らしたいって言ったらどうする?
 なぜあんなことを言ったのだろう。礼香は浩介を大切にしてくれている。多少過保護なのかもしれないけれど、それも愛情だということは浩介もわかっているはずだ。だとしたら祖母になにか言われたのだろうか。それとも、ただ母親と暮らしたいと……それはないか、とかぶりを振った。
 二歳のときから離れて暮らしている浩介と再会したのは二年前、浩介が小学三年生のときだ。きっかけは隆浩の妻と名乗る女性から、浩介のことで話したいことがあるという電話だった。隆浩のことも、義母だった人のことも、いまさら思いだしたくもなかったけれど、浩介のことはべつだ。
 都合のいいところまで行くと言われて、新宿のカフェで会った。それが礼香だった。
 肩までのゆるいウェーブのある髪に、ベージュ色のロング丈のニットワンピースがよく似合う柔和な、というよりおとなしそうな女性に見えた。
 礼香の話では、一年前、浩介が二年生のときに隆浩と結婚したということだった。浩介とは結婚前から何度も会っていて、すぐに仲良くなったという。「これ」と千温に向けたスマホには、サッカーのユニフォーム姿の少年が笑顔で映っていた。幼児特有のふっくらとした頬が引き締まってすっかり少年の顔になっているけれど、たしかに浩介だった。
「浩介君に会ってもらえないでしょうか」
 礼香のことばに千温は思わず顔を上げた。
「会わないでほしい、じゃなくてですか」
 もちろんです、と礼香はうなずいた。
「でもあちらの家の人は、わたしと浩介を会わせたくないのではないですか」
 家を出るとき、義母から浩介には会わないようにと言われていた。もちろん、家庭裁判所に申し立てれば、なんらかの形で息子と会うことは許されていたと思う。でも千温はそれをしなかった。しなかったというより、できなかった。わが子に、浩介に拒絶されるのが怖かったから。母親としての自信が千温にはなかったからだ。
「お母さんに会ってみたいって、わたしに言ったんです」
「浩介が、あなたにですか」
「へんですか? わたしたち仲いいんですよ」
 それならなおさらだ。生みの母のことなど口にするだろうか。子どもは大人が思う以上に繊細で、相手の気持ちやその場の空気を読む。それがいい悪いではなく、人の気持ちに敏感なのだ。
「仲いいっていっても、親子で仲がいいっていうのとはちょっと違って……。わたしはまだ浩介君の母親にはなれていないんだと思うんです。というか……ずっと無理かなって。でもそれでもいいってわたしは思っていて」
「いいんですか?」
 千温が言うと、礼香は目じりを下げた。
「はい。だって、浩介君にとってお母さんは千温さんですから」
 そんなはずはない。
 義母にしがみつく浩介を思いだして千温はかぶりを振った。幼いあの頃ですら、浩介は母親など必要としていなかった。
「わたしと浩介君は、わたしたちふたりの関係を作っていけたらいいなって思っているんです。他人だから作れる関係もあるんじゃないかなって。それには千温さんの存在が必要なんです」
「わたしが?」
「お母さんですから。生き別れなんてほうが不自然じゃないですか」
 不思議な人……。それでも、この人は信頼できると千温は思った。
「お願いしてもいいですか。浩介と会えるように」
 数日後、礼香から日取りを決めようと連絡があった。あの義母をどう説得したのだろう。聞いてみたい気もしたけれど、千温は尋ねなかった。彼女なら出来るだろうと、そう思わせるなにかがたしかにあったから。
 礼香には感謝している。それだけに帰り際に言った浩介のことばが気になった。
――あのさ、もしお母さんと暮らしたいって言ったらどうする?
 なぜ浩介はあんなことを言ったんだろう。

 月曜日。園長からヘルプの連絡があって十五時に自転車で保育園へ出勤した。千温の勤務は遅番で十七時から深夜二時までだけれど、早番に入っているパートの中込が休みを取っているところに、保育士の二宮が熱を出して早退することになったという。いま保育をしているのは、保育士の井浦とヘルプで入った園長の二人だというのだ。
 チャイムを鳴らすと、インターフォンから「よかった」と園長の声がして門が解錠された。インターフォン越しに誰かの泣き声も聞こえていた。門の中へ自転車を押し入れると、急いで園舎へ足を向けた。
「おはようございます」
 着替えをする前に保育室に顔を出すと、四歳児の明日奈ちゃんが癇癪を起こしてわめきちらしていた。その明日奈ちゃんを保育士の井浦茉莉絵が背中から抱きかかえ、少し離れたところでギャン泣きしている同い年の翔真君の腕を園長が繰り返しさすっている。
 この二人が喧嘩なんて珍しいな、と思いながら「おはようございます」と保育室に入っていくと、「千温先生!」と井浦はわかりやすく安堵した表情になり、園長も頬を緩めた。
「あらあら拓士君もどうしたかな」と、備え付けのアルコール消毒を手にこすりつけて、ベビーベッドで泣いている生後六か月の拓士君のところへ行くと、鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっている。千温はそれをそっと拭き取ると抱き上げた。
 おむつは濡れていないし、まだこの時間はミルクではないはずだ。
 背中をとんとんしながらゆっくりからだを揺すっていると徐々に泣き止んだ。
 保育室には一歳児のノコちゃんと三歳児の空君、五歳児の芹香ちゃん、それから一時預かりなのか、初めて見る二歳児くらいの男の子がいた。
 ノコちゃんと空君はこの修羅場のような状況をさほど気にすることもなく、ノコちゃんはおままごとのトマトにしゃもじを打ちつけてお料理中だし、空君は大型のブロックで城壁のようなものを建設中だ。ふたりとも一日の保育時間が長いせいか、こういう状態には慣れているのだろう。いっぽうで荒ぶる明日奈ちゃんとギャン泣きしている翔真君を興味深そうに見ているのは芹香ちゃんだ。いま『すずめ』の子どもたちの中ではお姉さん格のお世話焼きだけあって、この状況は気になるのだろう。そして、一時預かりらしき男の子は部屋の隅で固まっている。
 千温は拓士君を抱っこしたまま、棚の上にあるカエルのパペットを持ってその子の隣に座った。
「こんにちは」
 パペットを動かして話しかける。いきなり正面から話しかけるより、同じ方向を向いて話す方がガードが緩くなる。
「ぼく、カエルのミドリンだよ。よろしくね」と、お辞儀をすると、その子は身じろぎもせずミドリンをじっと見た。
「きみはなんていうの?」
 千温はミドリンをはめた手を右左と動かしながら、今度は拓士君の方に向けた。
「拓士君もこんにちは!」
 拓士君はおうおうと、ミドリンの頭を叩いた。
「あいたたた」と、ミドリンが頭に手をやっていると、その子が手を伸ばしてミドリンの頭を撫でた。
「あっ、治った! ありがとう。えーっと、なまえなんだっけ」
「あーたん」
「あーたんか、すてきな名前だね」
 拓士君がミドリンをつかもうと手を伸ばしてくるのをよけながら、千温はあーたんのまえでミドリンを動かした。
 顔を上げると、明日奈ちゃんもおとなしく井浦の膝の上に座っている。癇癪を起こしたときは気持ちが落ち着くまで待つ、というのが定石だ。あわてて収めようと声を荒らげると、収まるものも収まらなくなる。まずは落ち着かせる。トラブルが起きた事情や、手を出してしまったお友だちへのごめんなさいは、落ち着いてからで充分なのだ。
 事務室で手当てをしてきたらしい翔真君も園長と一緒に戻ってきた。腕に巻いた包帯が気に入ったのか、翔真君は得意そうに鼻の穴を膨らませている。園長の様子から察するに、たぶん翔真君は掴まれたか、引っかかれたか、あるいはなにかがぶつかったか、いずれにしてもたいしたケガではなく包帯など必要ないのだろう。それでも、子どもにとって包帯は魔法の薬だ。包帯を巻いてもらっただけで特別な自分になれる。
「千温先生、ごめんなさいね、助かったわ。ふたりは預かるから着替えてきて」
 わかりました、と拓士君を園長に預けて、「あとでまたね」と、ミドリンであーたんに手を振ると、あーたんも同じように手を振った。
 明日奈ちゃんと翔真君との間のトラブルについては子どもたちの前では聞かない。状況を説明しているつもりでいても、どうしてもどちらかの視点で説明をしがちだ。そうするとうわさ話や悪口のようにとらえられかねない。他者への意識が高くなる四、五歳の子どもたちは、とくに大人たちの会話には耳ざとい。
 この件は申し送りのときに井浦から報告があるだろうし、仮にすぐ知っておいた方がいいようなことがらなら、タブレットの連絡欄に書き込まれるはずだ。
 着替えを済ませて保育室へ行くと、明日奈ちゃんが翔真君に「ごめんなさい」をしているところだった。
 たぶん明日奈ちゃんは、なぜ自分が謝らなければいけないのか、なにがいけなかったのか、なぜそんなに腹を立てたのか、その全部を理解して、心から謝っているわけではない。子どもたちの「ごめんなさい」は形だけの場合も少なくないのだ。でも、少なくとも幼児期はそれでもいいのではないかと千温は思っている。
「ごめんなさい」
「もういいよ」
 謝ることも許すことも、難しく考えるより、どうすれば仲直りすることができるか、どうしたらまた楽しくあそべるか。そうした体験をしていくことが重要だ。もめごとは大半の場合、どうでもいいくだらないことがきっかけになっている。だからそこをほじくり返し、まぜっかえす必要はない。
 口先だけ、形だけ、どっちも上等。
 大人もそんなふうにできれば、もう少し生きやすくなるのかも……と千温は息をついた。
 まだ唇を尖らせている明日奈ちゃんを、「ごめんなさいってできて、えらかったね」と井浦が盛大にほめている。と、明日奈ちゃんの口角も徐々に上がった。
 明日奈ちゃんが翔真君になにか声をかけると、翔真君はこくりとうなずき、ふたりで園庭へ駆け出していった。園庭から翔真君の笑い声が聞こえてくる。
 これで本当の仲直りだ。
 井浦も笑みを浮かべながら、あーちゃんのところへ行った。
 あーちゃんは、千温の想像通り一時保育で預かっている二歳の男児だった。『すずめ』では不定期での一時保育の利用者はめずらしい。ちなみに定期的に一時保育を利用している子は毎年数人いる。いまは三歳児の琉生君だ。琉生君は普段は認可保育園に昼間通っているが、助産師のお母さんが夜間の出産に立ち会うときには『すずめ』にやってくる。月に一度のこともあれば、二度三度のときもある。一時保育ではないけれど、ノコちゃんは毎日ではなく週三回のサイクルで登園している。
 一時保育は一般の保育園でも行っているところは少なくない。規模の大きい保育園では、一時保育専用の保育室を設けているところもある。『すずめ』では年齢や保育時間が違っても、一時保育の子であっても、すべてひっくるめて垣根のない保育をしている。といってもそれは崇高な理念や方針があって、ということではない。単に園の環境や職員体制の都合上、それしかできなかったのだが、このごった煮のような環境には大家族的なゆるさだったり、開けた空気がある。
「夜間保育」という性質上、このゆるさと開け方は相性がいい。
「千温先生、おやつの支度お願いしていいかしら」
 了解です、と園長に応えて千温は保育室の向かいにある調理室のドアをあけた。もう三時半だ。いつもより二十分近く押している。
 冷蔵庫を開けてみかんゼリーを出した。夏のおやつは、園長お手製のゼリーか果物が多い。
 トレーにのせて保育室へ行くと、子どもたちはもうみんな席についていた。
「おまたせしました。今日のおやつはみかんゼリーです」
「やったー」と言って、芹香ちゃんはぴしっと背筋を伸ばして手を膝にのせる。
「あら、芹香ちゃんきれいな姿勢ね」と、千温は芹香の席の前にゼリーと麦茶のカップを置いた。
 すると今度は明日奈ちゃんが、わたしも! とばかりに両手を膝の上に置き、アピールする。
「明日奈ちゃんもすてき」と、おやつを置くと、連鎖的にそれが広がっていく。
 おやつも食事も、みんなそろって「いただきます」をするのだから、配膳してもらう順番はどうでもいいはずだけれど、毎回こうなる。それが不思議だけれど、千温には面白くて仕方がない。
 最後にノコちゃんとあーちゃんの前に配膳し終えたとき、玄関のチャイムが鳴って、廊下から軽快な足音が聞こえてきた。
「あーおやつだ!」
 四歳児の萌ちゃんが登園してきた。ミニクラブでホステスをしているお母さんの出勤に合わせて、萌ちゃんは十六時前後に登園することが多い。
 就学後のことを考えると、いまから生活リズムをつくっておいたほうがいい。そのためにも午前中には登園してほしいのだが、お母さんの都合や親子の時間を持ちたいという思いを考慮して強くは言っていない。それとなく、萌ちゃんの起床時間を聞いてみると、七時過ぎには起きて、お母さんが起きるまでDVDを見たり、ひとりであそんだりしていると言っていた。夜もしっかり睡眠をとっていることもあって、萌ちゃん自身の生活リズムはある程度担保できていると思っている。
「萌ちゃんおはよう」
「おはようございます」とうしろからお母さんが入ってきた。
「おはようございます」と挨拶を返しながら、「萌ちゃんもみかんゼリー食べる?」と聞くと、「たべる!」とかばんを置いて洗面所へ駆けて行った。
「もう、萌ってば」
 すみません、とお母さんは床に放置されているかばんをロッカーに入れた。
「最近家でもこんな感じなんです。まえはお片付けもちゃんとしていたのに」
「そうなんですか? 保育園ではお片付けもちゃんとしているし、あ、ほら、いまもなにも言わなくても手を洗いに行ったでしょ」
 ホントだ、とお母さんは洗面所の方へ顔を向けた。
「お母さんに甘えているんじゃないかな」
 千温のことばにお母さんはわずかに表情を曇らせた。
「あ、違うんですよ。お母さんに甘えられるって、すごくいいことなんです」
「そうなんですか?」
「はい。お母さんに愛されているって実感できているから、甘えるし、わがままを言ったりできるんです」
 千温はそう話しながら、浩介のことを思いだしていた。二年前に再会してからのあの子は、わがままを言うこともなければ、甘えることもない。楽しそうには見えるけれど、どちらかというと気を遣っている。

 ――あのさ、もしお母さんと暮らしたいって言ったらどうする?

 あれは、わがままでも甘えでもなかった。だったらなんだろう……母親を試してみた、とか。
「……だったらいいな」
 萌ちゃんのお母さんの声にはっとした。
「萌が、そんな風に思ってくれているなら嬉しいです」
 千温はゆっくりうなずいた。
「ママ、みて」と、萌ちゃんが洗ってきた手をお母さんに広げて見せた。

 

(つづく)