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 おやつの片付けが終わった頃、遅番保育士の斗羽風汰が園庭から顔を出した。
「どうしたの、こんなところから」
「千温せんせー、ちょっと」と、斗羽が門の方を指さした。視線を向けると、芹香ちゃんと萌ちゃんが門に張り付くようにして、門の向こうにいるだれかと話をしている。
 不審者!? 千温ははだしのまま園庭に飛び出した。
「ふたりとも、門から離れて!」
 振り返った芹香ちゃんと萌ちゃんを引き寄せて千温は固まった。
「なんで……」
 門の向こうにいたのは、二日前に会ったばかりの浩介だった。
 だから待ってってば、と斗羽がうしろから言った。
「この子、千温せんせーのお子さんで間違いないっすか?」
 千温がうなずくと「一応確認してからじゃないとヤバいと思ったんで」と、斗羽は肩を上げた。
「ほらね。せりかがいったでしょ。せりかしってるんだもん」
 文句を言う芹香ちゃんに、「疑ったわけじゃなくてさ、でも確認しなきゃだめっしょ」と斗羽が言い返している。
「あ、いま開けるね」
 斗羽が門の左上にあるボックスを開けて暗証番号を入れると、千温は門を引いた。
「えっと、入って。いま保育中だから少し待っててもらえるかな。風汰先生、子どもたちをお願いします」と、浩介を連れて玄関にまわった。心臓がどくどくと音を立てる。一人で、しかも職場まで来るなんて初めてだ。よほどのことがあったのだろうけれど、千温には見当がつかない。
「ここに来ていること、礼香さんは知ってるの?」
「知らない。八時まで塾だから大丈夫」
「大丈夫って……とにかくちょっとここで待ってて、園長先生に話してくるから」
 玄関先で浩介を待たせて千温は中に入った。今日の人員を考えても、早退はまず無理だ。かといって、このまま浩介を帰すわけにもいかない。となれば、とりあえず休憩室で待たせるしかないが、園長にどう話せばいいのだろう。
 調理室のドアを開けると中は蒸し風呂のような暑さだった。「先生」と声をかけると、白いヘアキャップにマスクに手袋、エプロン姿の園長が包丁の手を止めて顔を上げた。
「息子が来ているんです」
 さすがに唐突過ぎると千温自身思ったが、それ以外のことばは見つからなかった。
 ん? と首を傾げる園長に、千温は休憩室で待たせたいということを伝えた。
「もちろんそれはかまいませんけど、浩介君でしたよね」と、手袋を外して園長は玄関の方へ顔を向けて「いらっしゃい」と声をかけた。
「浩介!」と、千温が手招きをすると、浩介は小さく会釈をしてあがってきた。
「こんにちは。浩介君ね。いつもお母さんにお世話になっています」
 園長が言うと、浩介は千温をちらと見てから「こんにちは」と挨拶をした。
「すみません。そうしたら休憩室お借りします」
 千温が浩介の背中に手を当てると、「浩介君」と園長が声をかけた。
「よかったら、一日保育体験してみない?」
 えっ? 戸惑ったのは千温だ。
「せっかくなんだし、やってみない? 休憩室でひとりで待っていてもつまらないでしょ。お母さんの仕事を近くで見るチャンスなんてそうそうあることじゃないよ」
 浩介は一呼吸おいてうなずいた。
「本当に!?」
 驚く千温の背中を、園長はぽんと叩いた。
「紹介はわたしからしますね。いらっしゃい」と保育室のほうへからだを向けた瞬間、園長は吹き出した。
 保育室の入り口から、保育士の斗羽風汰をはじめ、子どもたち数人がこっちを見ている。
「風汰先生までまったく」
 園長が笑いながら保育室へ向かうと、行くよ、と千温は浩介を促した。
「今日一日、みんなとあそんでくれる浩介君です。みんな仲良くしてください。はい、浩介君」
「よろしくお願いします」と、浩介は頭を下げた。
「みんな拍手ー」と斗羽が手を叩くと、子どもたちもぱちぱちと手を鳴らした。
「風汰先生、浩介君にいろいろ教えてあげてね」
「マジっすか!? おれが指導係! 了解っす」と鼻の穴を広げる斗羽に、千温は「よろしく」と苦笑した。
「おれ、着替えてきます」と斗羽が出て行くと、浩介は所在なげに保育室の壁際に移動した。小さな子どもに自然に関われる子はめったにいない。保育実習生であっても、どこかぎこちなさやわざとらしさを感じる子がほとんどだ。
 そんなとき千温はできるだけほうっておくことにしている。とはいえ、さすがにわが子となると気になる。そもそも浩介は保育士になりたいわけでも、子どもが好きなわけでもなく、ただ成り行き上ここにいるだけなのだ。
 ノコちゃんのおむつを替えながら、ちらちら様子を見ていると、芹香ちゃんと明日奈ちゃんが浩介に近づいて行った。
「プリンのおにいちゃん」
 芹香ちゃんが背伸びをしながら言うと、浩介は少し気まずそうに笑った。
「おにいちゃん、ちはるせんせいのこどもなんだよ」と、得意そうに萌ちゃんに教えている。
「おにいちゃん、なんさい?」
「十一歳だよ」と浩介が応えると、「せりかは五さい」と右手を広げて、「このこは四さい」と萌ちゃんの年も紹介している。
「せりかねえ、なまえかけるんだよ」
「おれも書ける!」とジャージとポロシャツに着替えを済ませた斗羽が割り込んでいった。
「ふうたせんせーはおとななんだから、あたりまえだもん」
 芹香ちゃんが膨れると、浩介はあわてたように「五歳で名前が書けるなんてすごいね」と言った。そんな浩介を芹香ちゃんは嬉しそうに見上げて、「これあげる」と、ポケットから少ししおれたクローバーを取り出した。
 四つ葉、ではなくただの三つ葉のクローバー。
 浩介はクローバーをまじまじと見つめて、「ありがとう」と、胸のポケットに入れた。
「じゃあ、かるたで勝負すっか」
 斗羽は棚から犬棒かるたを取り出した。わかりやすい絵が描いてあるので字の読めない子どもでも十分あそべる。
 かるたあそびは毎年一月に盛り上がるけれど、春ごろになると自然と棚の奥へと追いやられていく。真夏のいまも人気があるのは、斗羽がときどきこうして取り出しているからだ。
 お布団部屋と呼ばれている奥の和室に行って、斗羽が畳の上にかるたを広げていると、「いーれーてー」と翔真君と明日奈ちゃんが駆けて行った。
「あーちゃんも、やってみようか」
 千温は拓士君を抱いたまま、一時保育のあーちゃんに声をかけて三人で輪に加わる。そのあとに井浦もノコちゃんといっしょにやってきた。「おー、全員集合じゃん」と斗羽は読み札を持った。
「せりか、おにいちゃんとチームになる」
 芹香ちゃんは浩介の隣に座った。すっかり浩介のことを気に入ったようだ。
「空君、ノコちゃんといっしょのチームになろ」と、井浦は空君に声をかけた。
 ということで、プレイヤーは萌ちゃん、明日奈ちゃん、翔真君、そして芹香ちゃんと浩介チーム、空君とノコちゃんと井浦チーム、拓士君とあーちゃんと千温の六組だ。
「じゃあいきまーす」
 斗羽が言うと、四、五歳の子どもたちはぐいっと身を乗り出した。
「いぬもあるけばぼうにあたる……はい!」
 読手である斗羽がばちん! とかるたを叩いた。
「ふうたせんせーずるーい」
 明日奈ちゃんが文句を言うと、斗羽は取り札を見せつけて、「ずるくありませーん」と、舌を出した。
「ずるずる! よんでるひとはさきにわかるもん」
 芹香ちゃんが膝立ちになる。
「それはたしかにそうよね」
「えー、千温せんせーもそんなこと言うんすかぁ」
 二十二歳の保育士が幼児相手にムキになるかね、と千温は半笑いした。でもこういうところが斗羽風汰という保育士の面白いところでもある。大人が子どもの目線になるというのは案外難しいのだ。
「おれ読みましょうか」
 浩介がぼそりと言った。
「えー、おにいちゃんはせりかとチームぅ」
 芹香ちゃんにしがみつかれた浩介は助けを求めるように千温を見たけれど、千温は気づかないふりをした。
「じゃあ、えっと、チームだけど、とるのは芹香ちゃんにするっていうのは?」
 うーん、と唇を尖らせながらも、「いいよ」と芹香ちゃんはうなずいた。
「んじゃあ、これ」と読み札を浩介に渡して、斗羽はこぶし五つ分ほどうしろに下がると「いいよ」と促した。
「るりもはりもてらせばひかる」

「くっそー、よし今度は負けないからな」
 札を手に悔しがっている斗羽に、「本気でやってたんですか」と浩介が言うと、斗羽はきっぱりと「あたりまえじゃん!」と答えた。
「ゲームもあそびも、手を抜いたら面白くないじゃん。見てみ、あの喜びよう」
 斗羽の視線の先で芹香ちゃんが飛び跳ねている。
「こっちが大人だからって手を抜くとしらけるっしょ。そりゃあハンデはいるけど」
「あ、それでうしろに下がってたんですか」
「実力差がありすぎてもつまんないかんね」
 なるほど、と浩介は素直にうなずいている。
「風汰先生、支度お願いね」
 千温が壁掛け時計に視線を送ると、十七時四十分を過ぎていた。斗羽は「やべっ」とかるた札を浩介に渡した。
「夕食の支度するから、片付けよろしく」
 浩介は戸惑ったように、渡された札を持ったまま斗羽の背中を目で追って、小さく息をついた。とりあえず手の札と床の上に重ねてある読み札を箱に入れ、芹香ちゃんと萌ちゃんに目をやった。二人が残りの札を持っていることはわかっているが、なんと言って回収すればいいか浩介にはわからないのだろう。
 余計なことなど考えず、「片付けるから貸して」と言えばいいのだが、幼い子に馴染みがないと、どの程度のことを言っても大丈夫なのか、理解してもらえるのか、不安なのだ。
 もしも、片付けるから返してほしいと言って泣き出されでもしたら……などと考えているのだろう。
 浩介が立ち尽くしていると、「おにいちゃん、おかたづけ」と芹香ちゃんが声をかけた。
「あ、うん。お片付けするんだよね」
「そうだよ。ごはんのまえは、てもあらうんだよ」
 そう言って、「かして」と浩介からかるた箱を受け取り、「もえちゃんきてー」と、萌ちゃんの持っていた札も箱にしまうと、本棚の隣にある棚に置いた。
「この子たちすごいでしょ」
 千温が声をかけると、浩介は素直にうなずいた。
「おれよりちゃんとしてる」
 千温はくすりと笑った。
「保育園って〇歳から六歳までいろんな年齢の子がいっしょに生活しているでしょ。だから、大きい子は、自分はお兄さんだとか、お姉さんだっていう気持ちが自然に芽生えるし、小さい子は、お姉さんやお兄さんのまねをして、いろいろできることが増えていくの」
「……きょうだい、みたいな?」
「そこまでとは言わないけど」
 千温は浩介をちらと見た。
「立場が人を作るって言うけど、保育園ではいろいろな立場を経験できるの。その経験はこの子たちが育っていくなかで、ひとつの強みにはなると思うな」
 斗羽が調理室から配膳トレーに皿を載せて運んできた。今日のメニューは冷やし中華とチキンスープだ。
「手伝ってくるから、浩介は子どもたちと手を洗ってらっしゃい」
「手洗い場はどこに?」
 千温はふっと笑った。
「みんな喜んで教えてくれるから聞いてみて」
 振り返ると、芹香ちゃんと空君が期待に満ちた顔で立っていた。
「えっと、手を洗うところって」
「せりかおしえてあげる」
「そらも!」
 二人に手を引かれながら、浩介は廊下に出て行った。
「浩介君モテモテじゃないっすか」
 斗羽が少し拗ねたように言った。半分冗談、半分本音に聞こえるところが斗羽らしい。
「子どもたちは寛容で好奇心旺盛だからね」
 まあそうっすね、と斗羽がチキンスープをスープカップによそっていると、配膳台の前に翔真君が並んだ。
「おれがいちばーん」
 配膳台にはきゅうりと錦糸卵とハムとトマトがのった冷やし中華の皿が並んでいる。盛られた麺の量はさまざまで、子どもたちはその中からちょうどいい量の皿をとっていく。
 翔真君が皿をテーブルに運んでいると、芹香ちゃんに手を引かれた浩介がやってきた。
「せりかはこれにする」と、普通盛より少し多めの皿を手に取った。おにいちゃんは? というように芹香ちゃんが見上げると、浩介は少なめの皿に手を伸ばした。
「わっ、小食すぎ、もしかして遠慮してんの?」
 ほら、と斗羽が大盛の皿を浩介に渡すと、「おかわりもあるから遠慮しないでね」と調理室から園長が汗を拭きながら出てきた。空調設備はあるものの、夏場の調理室は軽く四十度を超える。
「いつもはね、どれくらい食べられるか、ここで子どもたちと話をして盛り付けをするんだけど、今日は冷やし中華だから調理室で盛っちゃったの」
 へー、と浩介はうなずいている。
「小学校の給食はどう?」
「おれ……ぼくの小学校はお弁当なので」
「あら、そうなの」
 まあ、はい、と浩介がつぶやくと、芹香ちゃんがくるりと千温の方を見た。
「ちはるせんせいのおべんとう、せりかもたべたーい」
 千温が顔を上げると、浩介と視線がぶつかった。
 芹香ちゃんは、お弁当を作るのはお母さんだと思っているのだろう。イコールそれは千温だと。でも、弁当を作っているのは千温ではなく礼香だ。
 口ごもる千温に代わって、浩介が芹香ちゃんに言った。
「おれ、給食って食べたことないから、ちょっと憧れてた」
「えーたべたことないの?」
「幼稚園も弁当だったから」
「せりかはね、まいにちきゅうしょくたべてる」と、芹香ちゃんは笑顔を見せた。
 浩介も食べたことあるんだよ……。千温は心の中でつぶやいた。二歳まで通っていた保育園は給食だったから。

 

(つづく)