夜七時。秋だというのに、汗のにおいが鼻をついた。空気は淀んでおり、びゅうと鋭い木枯らしも、頭上を通過するばかりで肌を撫でることはない。それでも千鶴はコートの襟をきゅっと寄せあげる。すれ違う人たちの吐息が首筋にかかるのが不快でしかたがなかった。
「蜜蜂ってさ、こうやって敵を殺すんだって」
隣を歩く悠が突然呟く。「ぎゅーっと集まって、丸くなって、こう、熱で」
「なに、いきなり?」
「だから、今の私たちがさ、そうなんだって。なんだっけ、名前……」
要領を得ない悠の発言を、千鶴は「思い出したら、また言って」と慣れた口ぶりであしらう。悠も「あー、うん」と呑気な声を漏らしながら、ふらふらと歩を進めた。悠の纏う青いコートは、黒い群衆の中でやけに目立っていた。
『道路上の集会は道路交通法違反にあたります。交通の妨げとなることが予測されます。周囲の人々の安全を守るため、すぐに道路から離れてください』
頭の上にふらふらと漂うパンダ柄のドローンが、もう何度目かの注意を告げた。上から延々と垂れ流される中性的な声に、警察も大変だな、と千鶴は他人事のように視線を泳がせる。再開発された東大井地区は、産業機器メーカーを多く誘致しており、見渡せば、多くの有名企業のビルが見受けられた。
ふたりの目の前には、その中でも一層高い白亜のビルが屹立している。白い社屋の足元を手製のプラカードを掲げた千余名の群衆が黒く染めており、ビルの上階に掲げられた三本線のロゴに千鶴は見覚えがあった。国内では未だ高いシェアを維持している大手医療機器メーカーだ。
「あっ、あれだ」
悠が不意に声をあげる。「思い出した?」と千鶴は訊ねた。
「ううん。見えた」
悠の人差し指がすっと伸びる。声も弾んでいた。彼女の視線の先には、群衆が見渡せる高さのお立ち台があり、壇上には浅黒い肌の男が立っている。
その男は──有村康生は古めかしいマイクを口元に近づけ、
「取り戻しましょうよ」
と震えを帯びた声で叫んだ。
「ぼくたちの手に、生活を取り戻しましょうよ!」
もう一度、今度は身体を折るようにして声を絞り出した。その声に群衆が呼応する。壇上に立つ有村に拳を掲げる者たちを撮影するカメラがある。おそらく全世界に向け配信でもしているのだろう。有村は一拍だけ呼吸を挟み、続けた。
「実業家も、政治家も、ぼくらを残念な思考の持ち主と批判します。人間に恩恵をもたらす機械を金槌で破壊した十九世紀の荒くれ者たちと大差ないと──でも本当にそうでしょうか」
声を掻き消すように警察ドローンの警告が響く。
有村は負けじと叫んだ。
「たしかに科学の発展は国を豊かにしたかもしれない。けれど、ぼくたちはまるで豊かになっていない。職は日毎に奪われ、生きていくのがやっとの有様です。そうでしょう? 今、ぼくらの集会を邪魔する警察ドローンだって、犯罪抑止の点では優秀なのかもしれない。でもそれだって、警備員という仕事を殺したんです。だいたい犯罪なんて、ぼくらみんなが気を付ければいいことじゃないですか? 空から監視の目を光らせるんじゃなくて、みんなが犯罪を起こさないくらい、幸せな国にすればいいだけじゃないですか?」
群衆が賛同の声を上げる。有村は力強く頷き返した。
「僕はついさっき、いまもっとも優秀とされる回答エンジンにこう尋ねました。あなたは人工知能が人間の仕事を代替しないことを誓えますか、と。すると彼女はこう答えたんです」
有村はわざとらしく、手元の端末を読み上げる。
「私は人工知能が人間の仕事を代替する可能性があることを認識していますが、それでも完全に否定することはできません。人工知能は、ルーチンで繰り返されるタスクや、膨大なデータの処理など、人間にとって重労働である作業を高速かつ正確に行うことができます。ただし、人工知能はまだ人間にはない創造性や創造力、感性や倫理観、そして人間らしいコミュニケーション能力などの側面を持っていません。これらの人間的な側面が必要な職種や業務は、まだしばらくは人間が担うことが求められるでしょう。つまり、人工知能が人間の仕事を代替することがあっても、人間として必要なスキルや知識を磨くことで、自らが不可欠な存在となり、より高度な仕事に携わることができるようになると考えます──どうですかみなさん。この言葉が信じられますか!?」
煽られた観客がうなりを上げた。
「まだしばらくは、という留保は数十年前のAIも言っているふざけた嘘です。彼らはこの留保を掲げたまま我々の仕事を奪っていきました。挙句、人間がもっと優秀になればいいとまで言う始末だ。こいつらは侵略者に他ならない!」
声に呼応して、千もの拳が掲げられる。
「取り戻しましょうよ! こいつらから! 悔しいですよ……っ! ぼくらの文化や生活が機械なんかに奪われていくのは……」
有村は次第に声を震わせ、目を擦った。
千鶴は思わず鼻で笑いそうになった。
配信用のカメラやマイクはいいのか? それだって科学の発展の賜物ではないのか? そもそも今日のデモの人集めだって、最新の通信技術に頼っていたではないか。科学技術を打ち壊す運動なのに、科学技術に頼って広報活動を行うのはいいのか? 許容と拒絶の境目はどこにあるというのだ。
周囲を見渡す。そこかしこで掲げられているプラカードが上下に揺れ動いている。『GET OUR JOB BACK』『YOUTH AGAINST AUTOMATION』わざわざ英語を使うのも、配信やSNSを通して海外にも伝えたいからだろう。意図はわかる。しかし、どうしても空虚なパフォーマンスにしか見えず、鼻白んでしまう。
そもそも千鶴はこうした集団的な訴えが好きではない。本気で活動しているやつらは百歩譲っていい。ただ、取り巻きたちは許せなかった。どうせすぐに問題意識などなくすくせに、退屈な人生の穴埋めのために他人の熱にただ乗りするやつら。なによりやるせないのは、そうしたただ乗りがいないと、こうした活動が成立しないということだ。こんなに多くの人が反対しています、という図を作らないと、熱量の分布を正しく広げないと、火は容易く絶えてしまう。中心部だけ熱くても、周囲のすべてを焼き払うことはできない。
千鶴はその事実がなによりも悔しかった。他人の手を借りなければ、なにかを変えることはできないと言われているようで──……。
「帰ろっか」
唇を噛む千鶴の横で、悠が髪を無造作に掻き上げた。
「なに? 悠、もう飽きたの?」
「ううん、違う。人多くて、少し酔った」
まさかこんなに人が来るとは。と、悠はからりと笑って歩き出す。千鶴は人群れの中を必死でついていく。群衆を横切り、人気の少ないところまで来ると、悠は縁石に腰を下ろした。
「いやぁ、だめだね、あれは」
悠は足を伸ばしながら言った。「全然だめ」
「だめ?」千鶴も言いながら隣に腰掛ける。
「うん。有村くん。言ってることふわふわしててばかっぽいし。なんか勝手に泣きはじめたところとか、笑いそうになっちゃった」
腹話術師の人形としては優秀かもね。と、悠はくつくつと肩を揺らした。
「この運動もさぁ、たぶんうしろに大人がいて、いいように操られてるんだと思うんだよね。てかそれっぽい人、私も見たし。有村くん、その人のこと先生とかなんとか呼んでたけど」
なんかたぬきみたいなおっさんだったよ。と、悠は口の端を愉快そうに歪めながら、手首に巻いたウェアラブル端末を操作する。手の中に、青白い画面が投射された。
「有村くんもさ、ほんとばかだよね。別に機械がやってくれるならそれでいいのに。というか人間ってさ、そうやって発展してきたわけでしょ? 石器時代から道具を作って、使ってさ。それのなにがいけないんだろうね。でもそれに抗うのがかっこいいって思っちゃってるんだから、しょうがないのかな」
「言うね、結構」
「言うよ、そりゃ。ここに集まってる人もさ、本当は社会がどうなろうがどうでもいいんだよ。暇だから来てるだけで、なにかに抗えば人生に意味が生まれるとか思ってるんだよ。空しいよね。というかさ、本当はみんな便利な機械好きでしょ。ほら、あの人も、そこの人も、みーんなウェアラブル端末つけてるし。どうせここに来るのにも馬じゃなくてさ、電車とか車とか機械に乗って来てるんだし」
悠は目の前の群衆を見て、わざとらしくため息を吐いた。
「でも、ああやって言うんだよね。機械や科学は敵だって。なにもかも奪われていくって。奪われたものがなんなのか見分けすらつかないくせに。ただ叫ぶんだよ。私たちは虐げられている。尊厳が踏みにじられたって。家に帰ったら冷蔵庫で冷やした飲み物を飲むくせにさ、機械反対なんてそれっぽいこと言っちゃって。騒ぐ口実を見つけただけじゃんね」
千鶴は驚いていた。人が変わったように群衆を嘲る悠は、今までで一番本音を語っている気がした。