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 千鶴が首を傾げると、「そう、それだ」と悠は小声ではしゃいだ。
 テセウスの船は、ギリシア神話にまつわるパラドックスだ。ミノタウロスを退治したアテナイの王、テセウス。彼の乗っていた船は記念として後世へ受け継がれるが、建材の老朽化に伴い、古くなった箇所は段々と新しい木材へ置き換えられていく。時を経て、すべての部品が取り換えられた船はテセウスの乗っていた船と同一の船であろうか。あるいはまったくの別物だろうか。という、同一性を問う思考実験のひとつだ。
「悠、思考実験とか好きなの?」
「いや。有村くんがたまーに言うんだよ、そういうの。あの人、小難しいの好きだからさ。たぶん、全然理解してないだろうけど」
そう言って、からっと笑った。悠は本人がいないとき有村を度々貶める。茶化しているのだろうが、自分もそう言われているのではないかと怖くなる時がある。
「ねえ、千鶴は、どう思う?」
 悠が顔を覗き込んでくる。「部品が変わってもさ、同じだと思う?」
 千鶴は怖かった。間違った答えを言ってしまえば、悠が離れていってしまう気がした。
 ──私は……。言いかけて、息を呑む。
「私はね」千鶴が答えるよりも前に、悠が口を開いた。
「私は、同じだと思う。あのバンドだって、きっとみんな来年あたりには慣れててさ、あれがアリアドネだってなるんだよ。結局私たち、今が楽しかったり気持ちよかったりすればそれでいいんだよね。だから、私たちがどう感じるかが本物で、物自体には意味がないんだと思う」
「……そうかな」
「そうだよ。みんなどうせ、ちょっとした変化なんてすぐ慣れるよ」
 悠の意見に、千鶴は深く賛同できない。「もうはじまる」と話題を逸らして、会話を切り上げた。演奏がはじまった。迫りくる音の波に、ただ身を委ねる。普段聴いているアリアドネの曲と違うと感じるのは、ライブだからか、メンバーが違うからなのか、千鶴にはわからない。

三年前─2041年 10月

 夏季休暇を終えたあたりから、世間は少しずつ騒がしくなった。千鶴の周りも例外ではなく、破損した機械を見る頻度は日毎に増していた。胴体や頭部が凹んでいるくらいではまだいい方で、腕や脚を折られたものすら見かける。警察も監視ドローンを増やしてはいるが、対応は追いついていない。
 千鶴は残暑に熱されたアスファルトの上を走っていた。目の前をサビ猫が逃げている。小さな口が咥える物体を落とさせたくて息を切らせていた。額には汗がにじむ。千鶴の追跡にようやく観念した猫が青い肉片をぼとりと落とすと、千鶴は安堵し、立ち止まった。猫は獲物を一瞥し、口惜しそうに逃げて行く。「よかった」千鶴は呟き、ひとり汗を拭った。
 誤飲で息絶える動物の数は年々増えていた。エラストマー材でできた人工筋肉は樹脂よりも柔らかく、ゴムと同程度の弾力を有している。胃液で溶けることのないこの物質を、肉と誤認してしまう動物は少なくない。
 エラストマー材はコストの低さと扱いやすさ故に、現代社会で多く利用されている。多くの製品では誤飲防止のために苦味材の塗布も行われているが、それでもすべての誤飲が防げるわけではない。もちろん材料に非があるわけでもない。
 多くの工業製品は誤飲するような使われ方はしていないからだ。野生動物の人工筋肉誤飲による被害件数の増加は、ネオ・ラッダイト運動の激化と比例していた。
 つまりは、破壊された機械から飛び出た肉片が犬や猫の命を奪っていることになる。
 人の命どうこうよりも、千鶴にとってはこちらのほうが一大事だった。
 元凶は『嘆きの葡萄』という反機械団体だ。『嘆きの葡萄』は機械による労働の代替に危機感を抱いた学生らによって二年前に設立され、所属人数は二〇四一年十月時点で千人を超える。SNS等で存在を知った各地の若者が地方の都市でも支部を結成しており、構成員は十代後半から二十代前半の若者が中心。今では学生でない者も多数在籍している。機械の破壊という手段こそ非難されど、その理念自体には社会からの沈黙の肯定が伴っていた。
 みな機械が憎かった。千鶴が着いた学食の席にも、彼らの活動の一端が窺えた。
『NO ROBOT ─私たちは機械の奴隷じゃない』
 テーブルに貼られた葡萄の形をしたシールが、近付いた千鶴の端末に広告を飛ばす。こうしたシール型の通信機器は、主に広告宣伝目的で街のいたるところに貼られている。端末の購入時に有料プランに加入をすれば広告ブロック機能もつけられたが、千鶴にはそうした金銭的余裕はなかった。端末が安価なぶん仕方がないと割り切るも、目障りなことには変わりない。
 千鶴は慣れた手つきで広告を消してから、昼食に買ったバゲットサンドを取り出した。アルミ箔の包装を破り、爪で剥がした広告シールをアルミで包み込む。通信が遮断され、反機械の広告はこれで周囲の人間に表示されなくなった。これで悠が来ても大丈夫だと思った。
 千鶴はひとつ息を吐いてから、バゲットを齧る。
 反機械なのは自由だ。しかし、それを他者に押し付けないでほしい。
 千鶴は「機械は悪」という言葉の真偽よりも、そうしたつまらない啓蒙をすることが、自分の人生における義務なのだと信じている人間たちが大嫌いだった。これが正義だの、これが正しいだの。わからない人々の目を覚まさせなくてはならないだの。鬱陶しいことこのうえない。
 残念なことに、そうした連中は日に日に増えている。ご立派な啓蒙は、興味のない人間にとって雑音と相違ないのだと、なぜわからないのだろう。
「でさぁ、千鶴、さっきの話なんだけど」
 減塩のカップみそ汁を片手に戻って来た悠を見て、千鶴は急いで硬いパンを嚥下する。
「有村くんたち、今度また大きなデモやるんだって」
「……へえ」
 相槌がついおざなりになった。
「場所はたしか、鮫洲さめずとか言ってた。ほら、最近ロボット系の企業が増えてるんだって、あそこらへん。空港も港も近いから輸出とかで都合いいんだってさ。全部受け売りだけど」
「また機械壊したり、会社囲んだりするの?」
 千鶴が訊ねると、「たぶんね」と悠は首をすくめてから、減塩のみそ汁を口に運んだ。
 反機械運動に加担する者たちの根底には、個人の雇用機会がさらに奪われるのではないかという懸念があるらしい。技術開発を行う企業への妨害行為、サービスの利用を控えるように呼び掛けるネガティブキャンペーンも日に日に過激になっている。
 くだらないな、と思う。千鶴はこうした運動が苦手だった。声を上げたらなにかが変わるなんて期待は、ずっと昔に捨てていた。
「茶化しに行くついでにさ、青海あおみの方まで行って海見ようよ、東京湾」
 労働者の権利を守る戦い。機械文明に対する人類の反逆。飾る言葉は荘厳で甘美だ。
 だが、小粋なスローガンの裏では黒い金と政治が渦巻いていることを多くの市民が気付かないわけでもない。喉を嗄らす若者たちは使い勝手の良い広告塔に過ぎないのだ。
 無論、これから労働者になる学生が危機感から叫びたくなるのはわかる。けれど、無視するには濃く香り過ぎている仄暗い大人の臭いに、なぜ気付かぬふりをして進んで祭り上げられるのか。成熟間際の若さを搾取され、学生という無垢さを矛にされ、若気の至りを盾にされ、大人にいいように使われているだけの同世代たちが千鶴には理解できない。
 運が悪いことに悠の友人である有村は、誰に祭り上げられたのか、『嘆きの葡萄』の代表を務めている。悠は悠で有村の活動をおもしろがっており、茶化しに行くという名目で度々千鶴と連れだって有村の活動を見に行っていた。千鶴はそれが不満だった。夏を終えてからの悠は、千鶴に対しての気遣いを欠いているように思われた。
「ん? どうしたの、千鶴?」
「別に。なんでもない」
 不機嫌を見抜かれた千鶴は、これみよがしに端末を操作した。隣にいる悠に見えるよう、わざと画面を傾ける。悠が「なにそれ」と首を伸ばしてきても、隠すそぶりはあえて見せない。「整形外科?」と、悠が続けて言うのを待っていた。
「お金、そろそろ貯まるから」
 その一言で、悠は感づいたらしい。「え、傷、消しちゃうの?」と丸い目で千鶴を見つめてくる。
「そのつもり、だけど」悠の態度に千鶴は声が震えた。「なんで?」
「いやだって、そのままのほうがよくない?」
「……本当にいいと思って言ってる?」
「うん。なんで?」
 悠は嫌みなく首を傾ける。千鶴は胸の内が赤く染まるのを感じた。
「悠にはわからないよ」
 千鶴は広告シールを包んだアルミ箔を、ぎゅっと強く、握り潰した。