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三年前─2041年 8月

 美住悠は侵略者だった。剣も銃も持たず、ただその微笑みだけで、奥平千鶴の世界を少しずつ、けれど着実に塗り替えていった。
 彼女が振るったのは、無遠慮な明るさや、傲慢ごうまんな善意などではなかった。むしろそうであれば良かったと千鶴は心のどこかで思っていた。そうした振る舞いへの対処法なら、これまでの人生で嫌というほど身につけてきた。
 美住悠は強制しなかった。ただ隣に座り、ただ話しかけ、ただ頷いた。千鶴が急に立ち上がっても、返事をしなくても、憎まれ口を叩いても、悠は千鶴になにかを要請することがなかった。かつての同級生たちのように気安い態度を、教師らのように明るい声音を、親のように正しい笑顔を、悠は決して千鶴に求めなかった。
「美住さんじゃなくてさ、悠って呼んでよ」
 女神からのお願いは、千鶴に拒否権を与えない。
「千鶴も休む時言ってよ、私が代返するから」
 雲のように掴みどころのない悠の笑みは、いつしか千鶴の毒気を抜いていた。
 木曜日の二限終わりに揃って昼食を摂るのが恒例となった。レンガ造りの外観が目立つ第一食堂は学生以外にも人気が高く、いつも混んでいる。喧騒だけでなく、漆喰しつくいを纏った瀟洒しようしやな壁面や開放感のある高い天井は、千鶴にとって居心地が悪い。悠に誘われなければ、千鶴は利用することなくこの大学を卒業していただろう。五号館の地下にある小さな食堂の方が千鶴の性に合う。
「千鶴、きっとこういう明るいの似合うと思う」
「私、着られればいいから」
「またそういうこと言う。千鶴もほら、スタイルいいんだしさ」
「別にただ痩せてるだけだし……悠だって、細いじゃん」
「まあ、私は痩せてなきゃダメだし」
「なにそれ。どんなプライド?」
 悠は度々メイクやファッションの話をした。千鶴はコスメや服に詳しくない。悠のメイクは元がいいから映えるのであって、それは誰にでも当てはまるものではないと信じて疑わなかった。もちろん千鶴だってメイクの勉強をした時期はある。でも、あるだけだ。いくら頑張っても素材に目がいってしまい、気分が落ち込む。悠にはわからない悩みに違いない。そうした些細な違いを知る度、悠と自分は違う生き物なのだと痛感し、喉の奥がきゅっと苦しくなる。
「あ、千鶴、ちょっといい?」
 悠は食後の習慣にしているという美肌サプリメントを水で流し込むと、食堂の入口めがけ、「有村くん!」と手を振った。ちょうど学食に入って来たばかりの浅黒い肌の男がこちらを向いた。顔を見て、千鶴はすぐに気が付いた。そいつは以前、プラタナス並木の下で抗議活動をしていた男だった。
「こっち来て、こっち」
 悠の手招きに誘われ、男が近寄って来る。胸元にスポーツブランドのロゴが描かれたTシャツを纏い、タイトなシルエットの黒いチノパンとともに筋肉質な身体を強調している。手には紙の本が握られていた。最初から紙で出版される本は記念品以外、今はもうほとんどない。電子書籍をオンデマンド印刷するにしても高くつく。彼も裕福な家庭で育っただろうことが、千鶴には容易に想像できた。
「ねえ、これ、私の友達。ほら有村くん、挨拶」
「ああ、えっと、有村康生です。君は──」
「……奥平です」
「ああ、君が千鶴ちゃんか」
 悠から聞いてるよ。と、有村は気安い笑みを浮かべた。零れ落ちそうな白い歯に、笑い慣れた目尻の皺、無駄に大きな声。苦手な人種だ、と千鶴の心が騒ぐ。それだけじゃない。悠が自分の知らないところで自分の話をしていることも嫌だった。
「……どうも」
 一言呟いて、さっと視線を逸らした。彼が担いだ鞄には「NO ROBOT」と記された葡萄ぶどう型のステッカーが貼られていた。反機械団体『嘆きの葡萄』のメンバーである証だ。
 ああ、やっぱり苦手な人種。千鶴は胸の内で舌を鳴らした。
「有村くんめずらしいじゃん、小説なんて。いつも変なビジネス書ばっかなのに」
「え? ああ。昔のSFをちょっとね。前の時代を生きていた人たちが科学をどう見ていたか知りたくて。というか、変なビジネス書ってなんだよ」
 彼は手に持っている本を掲げた。
 黒い表紙には白抜きの文字で『祈りの海』と記されている。
「ふぅん……SF、ね。千鶴はこれ知ってる?」
「ううん。私、本読まないから」
「そっか。私と同じだ」
 苦手な男を前にしても、悠の手前、当たり障りのないやりとりをしようと努めた。身を裂かれる苦しさに耐えながら、千鶴は慣れない愛想笑いを作り続ける。
 千鶴を一番苦しめたのは有村の目の動きだった。彼の視線が一向に落ち着かないのだ。顔の傷を見ないように気を遣っている。目のやり場に困っている。その事実が千鶴にとってなにより屈辱だった。私は腫れ物じゃない。そんな風に扱うな。けれど、まじまじと見つめられるのも嫌でしかたがないのだから、どうしようもない。
「私、次、あるから」
「え、もう?」
 逃げるしかなかった。眉を曇らせる悠に「次、六号館だから」と言い残し、ふたりの前から去ることを選んだ。
 食堂から遠い六号館まで、千鶴は一度も振り返らなかった。気安く話しかけてくる男。千鶴を気遣わずに友人を呼ぶ悠。すべてに苛立っていた。しばらく歩き、冷静さを取り戻すと、それがただの逆恨みであることに気が付いて、今度は自分の性根の悪さに辟易へきえきした。
 千鶴はいつもこうだ。後悔の味を知っていながら、それを噛むことしか知らない。吐き出すことも、飲み込んで消化することも知らない。
 辿り着いた九号館の講義室では、前の講義がまだ続いている。
 千鶴は閉ざされた扉の前で、ひとり項垂れていた。

 有村を紹介されて以来、悠が誰かと居る時に千鶴は姿を隠すようになった。幸か不幸か、隠れるのは容易く、気まずい思いをすることは極端に減った。
 悠の方も、他の人と居る時は千鶴の姿をあえて探さないようだった。それでいいと思えた。苛立ったり、嫌な思いをするくらいなら、ひとりでいる方が幸せだと千鶴は信じていた。
 それなのに、千鶴の瞳はなぜか悠の姿ばかりを映してしまう。悠の姿は日を追うごとに見つけやすくなっていた。思えば、入学当初から千鶴の瞳は悠を映すことに長けていた。
 なぜ悠のことばかりが気に掛かるのだろう。その理由に思い至ると、千鶴は哀しみに暮れた。千鶴はよくできた悠を憎みつつも、内心憧れを抱いていたのだ。決して認めてこなかった事実を認めると、気持ちは楽になる反面、みじめになった。
 悠はいつも綺麗な服を纏っていた。悠はいつも自然な笑みをたたえていた。悠はいつも他人に囲まれていた。見れば見るほど、悠は自分とは正反対の人間だった。
 “彼女あれ”になることはできないのだと、日々思い知らされた。
 彼女は自分とは違う世界の人間。美住悠は特別で、自分とは相容れない存在。
 しかし、そう信じることで保っていた千鶴自身の立ち位置は、悠と接する度に揺らぎもした。話してみると悠は正反対ではあるものの、自分と同じ学生で、機械ではない普通の人間だった。であるならば、悠のように生きられない自分は欠陥品なのではないか。経済格差や文化資本の差、あるいは外見の優劣。それらを盾に逃げ回る自分はただの卑怯者なのではないか。悠もそのうちこの性根の悪さに呆れ、自分の元を去ってしまうのではないか。そうした焦燥が胸底から喉元にかけて胃酸の如く湧き立ってくる。私は、もっと普通になる努力をするべきなのではないか。悠が欠陥品に飽きる前に、せめて普通に。
 悠を信じられなくなる時間も増えた。キャンパス内に限らず、街中でさえ視界の端に悠を映していなければ不安になった。そんな自分を気持ち悪いと思うも、ちりちりとけるような想いが千鶴を駆り立ててやまない。アパレルショップの店先で、カフェのカウンター席で、ファミレスのドリンクバーで、千鶴は息を潜めて悠を見つめた。
 自分のことを陰で笑っていないだろうか。自分よりも親しい友人がいるのではないか。
 前者は会話が聞き取れないから確信が持てなかったが、後者の予想は、概ね当たっているようだった。