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 備え付けのシャンプーのべったりとした香りが煩わしく、ベッドに横たわった千鶴は、寝返りを打ってははなを啜った。とにかく疲れていた。旅行がこんなに体力を消耗させるものだとは知らなかった。
 突然、ぼふっと布団の跳ねる感覚がして振り向いた。髪を湿らせたままの悠が、千鶴のベッドに腰掛けている。千鶴が見上げたままでいると、悠は「ん? どうしたの?」と微笑んだ。
「ねえ、悠はさ」
 千鶴は視線を静かに落とした。ハーフパンツから伸びる悠の脚が目に入り、その艶やかさに寸刻すんこく、言葉を忘れた。
「え、なに。黙って」
「だから、悠はさ」
「うん」
 悠はさ、なんで私に話しかけてきたの?
 ずっと気になっていたことを尋ねようとした。悠のような人間が、なぜ自分のような女に声を掛けてきたのか。一緒にいるのか。もちろん自分の中で理由は考えなかった訳ではない。たぶんアリアドネのピアスだろうと推測もつく。しかしどれも腹落ちしない。自分の心が生んだそれらしい理由は呑み込むには甘すぎて、苦くてもいいから、悠の吐いた言葉が欲しかった。
「悠は」
 千鶴はひとつ呼吸を挟んだ。シャンプーの匂いに噎せ返りそうになる。
 ──悠は、なんで私に話しかけてきたの?
 短い言葉を喉の奥に用意して、口を開いた。
「いま、お腹減ってない?」
「減ってる。めちゃくちゃ」
 悠がからりと笑うのを見て、千鶴はこれで良かったのだと思い込む。そういえばネットにも、旅先で大事な話はしない方がいいと書いてあった気もする。
「じゃあさ千鶴、私、良いこと考えた。コンビニ行ってぱーっと豪遊しようよ。アイスとかお菓子とか買って。この格好で外食は恥ずかしいし、いまさら着替えるのもあれだし」
「うん。いいと思う」
 千鶴はいつもこうだった。自分の中の答えにバツをつけたことがない。また、つける必要性も感じていなかった。これ以上自分を否定してどうなると言うのだろう。

 Tシャツにハーフパンツのラフな装いで、ふたりは暗い夜道を歩いていた。東京とは違い、夜空には星がいくつか張り付いている。
「おー、星だ。カメラ持ってくれば良かったな」
 悠がそっと空に手を伸ばすものだから、千鶴も真似て手を伸ばした。
 濃い夜空に浮かぶ星のひとつが、指先をちくりと刺した気がした。
 ──綺麗だね。
 悠がそう言ってくれないか、千鶴は道中、ずっと期待していた。
「あったあった。やっぱりここらへん、まだ無人じゃないや」
 はしゃぐ声に、千鶴は空を見るのを止めた。悠はとっくに道の先の光を見ていた。
 ガラスの向こうでは店員があくびをしている。都内では八割以上のコンビニが無人に置き換わって久しいが、地方のコンビニバイトは地域雇用のために守られていると聞く。あの青い制服を見ることすら、千鶴にとって久々だった。
「千鶴、現金持ってる?」
 悠が顔を覗き込んでくるので、千鶴は「持ってるわけないでしょ」と眉根を寄せた。
 実際、千鶴は小学校を卒業して以来、現金を使ったことがない。
「じゃあ、ちょっとしか買えないね。もうちょっと持ってくれば良かった」
 悠は愚痴を言いながらも、現金でいくつか酒を買った。電子決済に紐づいた年齢認証をパスするために、わざわざ現金を用意してきたらしい。夜間の割り増し時給が目当ての店員は年齢確認をするような手間はとらなかった。
 千鶴は呆れた。ふたりはまだ十九だった。
「溶ける溶ける」
「待って。お酒、炭酸」
 千鶴が口を尖らせる。「でも、溶けちゃうからー」と悠は先を行く。
「待ってよ、悠」
 足元で砂利じやりが鳴っていた。せっかくシャワーを浴びたのに、また汗をかいていた。整備不良の舗装路は走るには向いていない。道端からは微かに虫の声がする。千鶴は汗も痛みも虫も嫌いだ。けれど不思議といまは不快ではなかった。
 目の前で彼女の背中が揺れている。彼女に置き去りにされたシャンプーの匂いが甘く香る。舌先に乗る自分の吐息が煩わしい。空は黒々と深く、肺に流れ込む空気がやけに立体的に感じられた。こうした時間が自分にもあっていいのだということを千鶴は今まで知らずにいた。そして知ってしまうと、淡い後悔が襲ってくるのだ。それは今までの人生の空虚さを知ったこと以上に、悠が目の前から消えた後の世界を想像してしまったからだった。
「待ってよ、悠」
 千鶴は追いすがる。
「またなーい」
 彼女は前を向いたまま、暗い夜道を走っていく。

 フェスの二日目は昼前に起きた。頭ががんがんと痛むのは身体に残った酒のせいだろう。昨夜は天井が回っていた。早鐘を打つ心臓のせいでなかなか寝付けず、千鶴は荒い息を押し殺したまま夜を過ごした。どうやらアルコールが合わない体質らしい。
「なんだ、そんなに美味しくないね」
 悠も酒には不慣れなようだった。「でも、やっぱ一回くらいは経験として」と顔を赤くしてチューハイを啜っていた。悠みたいな人間はもうお酒を嗜んでいると信じていた千鶴には意外な事実だった。
 悠もその負い目があったから、わざわざ現金を用意してまで地方のコンビニで酒を買ったのだろうか。そう考えると、悠の立っている位置が少し近くに感じられ、嬉しかった。
 ホテルの朝食は時間が過ぎていたため、ふたりは近くのファミレスに向かった。広い駐車場には無人の配送トラックが数台並んでいる。悠は車止めの石を踏んでひょいと跳ねた。「二日酔いないの?」と千鶴が訊ねる。「ないこともない」と悠はまたひょいと石の上を跳ねた。
 ふたりはドリンクバー付きのモーニングセットを頼んだ。「私のぶんもお願い」と悠に頼まれ、千鶴はふたり分の飲み物を注いで席に戻った。
「二日酔いにはグレープフルーツジュースとか、ハーブティーがいいらしいよ」
 席で待っていた悠に、千鶴はハーブティーを一杯差し出した。道すがら、「二日酔いに効くものを教えて」と回答エンジンに訊ねておいたのだ。けれど悠は、「私はいいや」と首を振るばかりで、頑なに口をつけない。悠は紅茶が好きなはずなのに、ハーブティーだけは飲まないと言う。
「じゃあ、グレープフルーツは?」
「そっちもいい。私、他のとってくる」
 言いながら悠は席を立った。
 千鶴はせっかくの親切心を無下にされたようで腹の底がむずむずした。結局何も言えず、グレープフルーツジュースを啜りながら、ハーブティーがじんわりと冷えていく様をただ見つめるしかなかった。
 会場に移動すると、周囲には毛糸玉のロゴが描かれたタオルや、Tシャツ、リストバンドを身につけた人々が集っていた。中央のメインステージ前は人で溢れかえっており、千鶴と悠は少し離れた位置にある、小高い丘の上からアリアドネの登場を待っていた。
 ミネラルウォーターを口に含み、千鶴はいよいよだと期待に胸を膨らませる。
 だが、ようやく出てきた贔屓のバンドはいつもと様子が違っており、悠も千鶴も、周囲の観客も、不穏な気配に息を呑んだ。
「あー、曲の前に説明させてくれ。見ての通り、ドラムのリエはここにはいない。本当は言おうとしたんだ。でもさ、運営に集客に響くからやめてくれって言われててさ。ごめんな」
 おどけつつ、ボーカルの男が詫びる。ライブの直前、ドラムの女性が局所性ジストニアという病気に罹ったらしい。脳の指令異常により、身体が言うことを利かなくなる病だ。とはいえ、現代医療では容易に対処が可能なもので、脳の深部に小型の電極を打ち込みさえすれば一発で治る。
 しかしその女性は自然派の治療を望んでいるため、当面は活動を中止するのだという。
「でもよ」
 動揺が会場に染みていくなか、ボーカルがマイクに叫んだ。
「合成演奏とかさ、生のドラムじゃなくてライブする手は、今だといくつもあるんだ。けどやっぱ俺たち人間の奏でた音がいいから。人の力を信じてるから。そこだけは変わりたくねえから。リエからも許可もらってよ、しばらくはこいつの力を借りようと思うんだ。カモン! ハルシゲ!」
 ボーカルが右手を挙げる。舞台袖から細身の男が現れた。
 それは少し前に解散した人気バンドのドラマーだった。
 観客は自ずと沸いた。嘆く声よりも、夢の共演だと騒ぐ声の方が多い。
 千鶴だけは、素直な反応ができずにいた。
 喧騒の中に、悠の小さな冷笑が混じっていたことを聞き逃さなかった。
「ねえ、こういうのなんて言うんだっけ」
 悠が千鶴に耳打ちをする。「こういうの?」と千鶴は眉をひそめる。
「部品が入れ替わっても同じ物なのかっていうあれ。えーっと、なんとかの船」
「テセウスの船?」