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 八月のある日、千鶴は悠に遊びに誘われた。近県で開催される音楽フェスに行こうというのだ。学外で会うのははじめてだというのに、近県までの遠出を提案されたのは千鶴にとって驚きだった。
「なんでわざわざそんな遠くまで行くの?」
 訊ねると、悠はきょとんとした顔で「え、だって。千鶴、アリアドネ好きでしょ?」と返してくる。そういうことではない。千鶴は焦れる舌先をなだめすかし、平静を装ったまま続けた。
「だからって、ライブなら都内でもあるのに。なんでわざわざ遠くに……」
「まあ、それは、誰もいないからかな」
「誰もいないって、フェスなんだから、たくさん人は来るでしょ」
「いや、そうじゃなくてさ」
 悠が困ったように眉を下げる。その表情に千鶴はようやく悠の真意を看取した。悠は千鶴が気まずい思いをしないために、自分の知人がいないであろう場所をわざわざ選んだのだ。
 屈辱だった。悠の頬を殴りつけたいとすら思った。馬鹿にするな。気を遣うな。けれど、相反する感情も胸をよぎる。ありがとう。私なんかのために。
「……まあ、旅行がてらいいかもね」
 結局、千鶴は頷いていた。怒りをむけるには、隣に座る彼女はあまりに優しすぎた。
 千鶴はその日の帰り、めずらしく服屋に寄った。肌の露出が多くなりすぎないように条件付けをしてから、二日分の衣類を店頭のコーディネートAIの指示通りに買った。
 家に帰り、服を袋から取り出した時、靴下を買い忘れたことを思い出して、深いため息を吐いた。タンスからあまりみすぼらしくない靴下を二日分見繕い、買った服と一緒に洗濯した。香り付きの柔軟剤をいつもより多めにいれて洗濯した衣類は、出かける日まで着ないように並べてしまい込んだ。
 千鶴にとって友人とのはじめての旅行だった。回答エンジンへの質問履歴は、いつしか「ひたちなかのおすすめグルメ」のみならず、「旅行のマナー」や「高速バスの乗り方」などで埋まっていた。
 浮かれている自分がみっともなく思え、旅先で失敗する未来が脳裏をよぎり、何度か悠に断りの連絡をしようとしたことすらある。無論、実行には移せなかった。断りの連絡をいれる勇気の方が千鶴にとっては幾分か重いもので、結局ずるずると当日の朝を迎えていた。
 寝汗をシャワーで洗い流す間も憂鬱ゆううつだった。楽しみなはずなのに気分が晴れない。髪を乾かし、準備していた服を纏う。姿見の前に立つと、ため息が出た。買った時は満足していた服のどれもが、ださくてみっともないものに見えた。
 事前に何度も練習した流行りのメイクは、やっぱりやめて、いつものように薄い化粧を施した。どうせ何をしたって自分の容姿に納得できるはずがないのだから、とりあえず外に出て恥ずかしくない程度に仕上げて、家を出た。
 実際、待ち合わせ場所で悠と対面すると、さらに気分は落ち込んだ。お洒落をしようと張り切っていた数日前の自分がばかみたいで、悠と対等に歩けると思っていた自分が恥ずかしいとさえ思えた。
「じゃ、行こうか」
 悠が背筋をぐっと伸ばしながら言う。気取らないラフな服装。素材を活かしたナチュラルなメイク。あくびを噛み殺す横顔さえ様になっている。
 憎らしいほどに、綺麗だ。
 そんな彼女をこれから二日間独占できるのだと考えると、千鶴の憂鬱は少しだけ晴れた。

 荷物を置きにチェックインした宿は、いかにも安っぽい、ひと昔前のビジネスホテルだった。悠がいろいろ探してくれたようだが、直前での宿探しだったため、ここしか空いていなかったのだという。部屋に入るなり、悠は「せまっ」とわざとらしく噴き出した。
 目当てのバンドは二日目の出演のため、初日は気になったステージを流すことにした。入場ゲートでドリンクカップと、入場証代わりの簡易AR眼鏡グラスを受け取る。プラスチック製のAR眼鏡は軽く、首から下げられるよう紐が付いている。実際にかけてみると、会場のいたるところに仕込まれたAR演出が窺えた。地面に描かれた案内表記。ステージの上空には演奏中のバンドのロゴ。トイレの上には混雑状況すら浮かんでいる。
 千鶴はそれらの演出を流し見てから、眼鏡の前で指を滑らせた。千鶴の視界には、製品版の眼鏡やコンタクト型のレンズを買わないか、網膜インプラントを埋め込まないかと、鮮やかな広告が表示されている。情報過多で、くらくらした。
「だるいなぁ。これも自分の端末みたいに、課金して消せたらいいのに」
 眼鏡を外しながら、悠は「ね」と千鶴に振り向く。千鶴は肯定もせず、曖昧に頷いた。
「というか、千鶴、なんか気になるバンドある? 私的にはさ──あ、その前に飲み物か」
 悠は古めかしいミラーレス一眼カメラを肩に掛け、意気揚々と歩き出した。機体側面には今はもう倒産したアケノフィルムのロゴが刻まれている。写真なら携帯端末でいくらでも撮れるのに、なんでそんな嵩張かさばるものを持っているのか。千鶴は不思議に思ったが、あえて訊くような真似はしなかった。
 悠は古いものや、寂れたもの、町の路地や、錆びた看板。古着に喫茶店。そうしたものが好きであることを、これまでの会話から学んでいた。
 千鶴は悠に置いていかれないように必死に歩いた。肩をぶつけた他人が何を言っているかは気にならない。しばらく歩くと、悠は出し抜けに立ち止まった。目の前には、仮設テントがあり、天幕の下にはドリンクサーバーが立ち並んでいた。
「おー、いいね。アイスティーもある。千鶴はどれにする?」
 ドリンクサーバーを吟味しながら、悠が訊ねる。千鶴は「同じのでいい」と言い、悠と同じ列に並んだ。
 悠の後ろに並びながら、千鶴は気が気でなかった。事前にネットで調べた情報によると、行列の待ち時間は人間関係を悪化させるという。
「ねえ、悠」
「んー? なに?」
「今そこでやってるバンドさ、前に映画の主題歌やってたよね」
 だから千鶴は頑張って話題を振り続けた。鬱陶しくない程度に、それでいて険悪な沈黙が訪れないように、慎重に、穏やかに。
「あー、やってたね」
「悠はあの映画見た?」
「うん。結構おもしろかった気がする。なんだっけ、主演の人がさ──……」
 それでも悠と話していると、この会話、他の人ともしてるんだろうな。私だけの言葉じゃないんだろうなと卑屈になる時がある。千鶴は、それを顔に出さないように相槌を打ち、話題を振り続けた。
 空のカップにアイスティーが満ちる頃には、千鶴の喉はからからになっていた。
 行列から抜け出したふたりの手の中では、食品メーカーの広告が揺れていた。AR眼鏡を通して見ると、カップの表面に印刷されたコード情報に従って、注がれた液体に映像が浮かんで見えるのだ。悠は広告の浮かぶカップに口を付けると「商業主義の味がする」と笑った。
「音楽はもう芸術じゃないね。空気を震わせるタイプの広告だよ」
 そのジョークに、千鶴は目を伏せる。
 近年は個人の嗜好に合う音楽をAIが自動生成してくれるから、アーティスト自体の数も減ってきている。今日のような生音での演奏は貴重そのものだ。薄利多売のサブスクリプションサービスも、アーティストを豊かにしたとは言えない。そうした音楽不況の煽りを受けてフェスの規模も小さくなっており、文化的側面を強調しつつ、スポンサーを掻き集めなければ生存競争に勝てないイベントとなっている。参加者も、若い好事家こうずかか、千鶴たちよりも年齢の高い生音世代ばかりだ。
 千鶴は、しかしそれでもいいと思っていた。いくら商業色に染まろうとも、どれだけ醜く変容しようとも、求める人間が減ろうとも、この文化には生きながらえていて欲しい。これまで千鶴を生かしてきたのは、たしかに音楽の力だった。
「ね? そう思わない? ビジネスフレーバー」
 悠の顔に千鶴は曖昧な笑みを返し、紅茶で口を塞いでやり過ごした。
 いくつかのライブを見て歩いた。好みの演奏を聴いても、ふたりは大きな声で叫ぶことや、腕を振り上げて盛り上がるなどはしなかった。上空を飛ぶ演出用ドローンに目を遣ることもない。楽器の奏でる波にぷかぷかと小船のように浮かぶだけ。千鶴は強く安堵した。鑑賞態度が同じで良かったと心から感じていた。やはり音楽に関しては悠とは馬が合うのだと再確認できた気がして。
 ふいに頭上で色が弾けた。千鶴はそっと深呼吸をし、日の沈みはじめた空に視線を向ける。七色の花火が方々で咲いていた。鮮やかに、力強く、千鶴の上で何度も花開いた。立体映像の花火は費用も環境も気にしなくていい。それだけに際限なく打ち上がる。熱のない光。スピーカーから伝わる炸裂音。
 千鶴はいつか見た花火大会を思い出していた。たしか親のパソコンでライブ中継を観ていたのだ。どうせ人混みで疲れるんだからと、母は決して現地に連れていってくれることはなかった。一度でいいから、花火を下から見てみたいと思っていた。ドローンが上や横から撮影したものでなく、地面に立ったまま花火を見上げ、降り注ぐ光に包まれてみたいと──。
「演出過多だね」
 花火に耽る千鶴の横で、悠がぽつりと呟いた。「見境なくて、ちょっと下品だ」
 ねえ、千鶴もそう思わない? 顔を覗き込んできた悠から、千鶴はもはや逃げきれず、「だね」と頷き返していた。ようやく見上げることのできた花火は、その瞬間から千鶴のなかで下品な演出になりさがったが、それでいいのだと思えた。
 千鶴と悠は馬が合う。その事実こそが、なにより大切だった。