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 見た目の修復が目的ではない。心の治療が目的なのだ。
 何度訴えても、国は医療費の補助を認めてくれなかった。「美容医療は自己負担です」ただそう返されるだけだった。傷が呼ぶ他人の視線を、傷が生む無用な軋轢あつれきを、国は美容の問題と見做みなす。その事実が千鶴の心をさらに苦しめた。
 美しくなりたいわけではないのに。せめて普通になりたいだけなのに。
 それなりの金を出して服を買い、流行りだという紅を唇に塗り、面倒ながらも髪をかして生きている。それなのに日々、見られたくない、馬鹿にされたくないと怯えて生きる恐怖を、国や役所はわかってくれない。ブスだの、ブサイクだの。幼稚で直截ちよくせつな言葉を向ける者は、年齢を重ねるごとに周囲から消えていく。しかし、人の視線だけは変わらない。
 ──顔に傷があるなんて、可哀そうな子。
 ──こいつとは付き合えないな。
 ──よかった。自分には傷がなくて。
 そうした沈黙の加害は、社会性という膜が厚みを増すにつれ、むしろひどくなっていった。
 心の相談センターなるものに助けを求めたこともある。勇気を出して電話を掛けたにもかかわらず、返って来たのは月並みな回答のみだった。「周囲の評価に囚われないでいい」「あなたはあなたらしく生きていい」「生きてればいいこともつらいこともある」そんなことはわかっていて掛けたのだとも言えず、空疎な相槌を打ち続けた。
「ありがとうございます。楽になりました」
 それ以外、返す余地がなかった。話し相手がAIでも変わらなかったと千鶴は思った。いや、機械の方がまだましだった。話し相手が機械であれば、人はここまで他人の痛みに鈍感なのかと失望する必要はなかったのだから。
 千鶴は電話の向こうの人物が変わることを願って、誰かひとりくらいはわかってくれる人がいるはずだと信じて、何度か掛け直した。すべてが無駄だった。稀に同情し、泣き出す相談員さえいた。千鶴はその時、はじめて無言で通話を切った。この痛みは憐れまれるためのものじゃない。誰かのために用意した絶望じゃない。千鶴以外がこの痛みで泣くことが許せなかった。
 いつしか千鶴は心の相談センターに頼ることをやめた。時間の無駄だと悟った。私のことなんて誰も見ていないという自己否定を拠り所に自己を守るこのつらさは、所詮誰にもわかり得ない。前髪が落とす影を頼りに人生を歩む苦しさは、前を向いて歩いている人間には理解できないと知った。
「おーい」
 ふと響いた明るい声に、千鶴はベンチに座ったまま視線だけ向けた。いつの間にか抗議活動を終えていた学生の一団に、ひとりの女子学生が手を振って近付いていく。その姿に、千鶴の胸はどくんと高鳴る。
「遅いよ、ゆう
 リーダー格の男が口を尖らせた。
「ごめんごめん」
 遅れてきた女は悪びれもせず、朗らかに笑んだ。耳にかけられた髪はおろしても肩までは届かない長さだろう。開け放しの耳に揺れるイヤリング型の電子端末は最新のもので、千鶴はそれが、自身のひと月のバイト代よりも高いものだと知っている。
「場所、間違えちゃって」
 女の脚は黒いスキニーパンツを纏って細く、対して上半身はゆるいシルエットのスウェットセーターでまとめられている。千鶴が着たら野暮ったい部屋着にしか見えないそれを、その女は見事に着こなしている。
「悠ってそういうのばっかだよな、ほんと」
 男が笑うと、あわせて全員が首を縦に揺らした。
 悠と呼ばれたその女のことは、千鶴もよく知っていた。本名は美住みすみ悠。派手な印象はないのに、どこか存在感のある人物で、性別や学年を問わず人気がある。千鶴と同じ環境工学部に所属する同期生だ。
 学食、講義室、並木道のベンチ、彼女は至る所に出没する。池袋いけぶくろにある大学の敷地は、無論、人ひとりを完璧に隠し通せるほど広くないとは千鶴も心得ている。それでも彼女を見かけない日はない。彼女の美しさに晒されない日はない。千鶴にとってそれは苦痛だった。日に何度も端整な顔立ちを拝まされるのは、千鶴にとってハラスメントと相違なかった。
 千鶴は常用している鎮痛剤を口に含み、ペットボトルの水をあおった。いますぐにこの場を立ち去りたい。けれど、足元にいる小さな命の存在を考えるとすぐには動き出せなかった。
 まごついていると、彼女と──美住悠と目が合った。
 薄い紅の這う唇。ニキビ痕すら見受けられない肌理きめ細やかな肌。整然と並ぶ白い歯。アーモンドの形をした大きな目。それらすべてが千鶴に向けられていた。
 千鶴は思わずベンチから跳ね上がった。飲み込んだ鎮痛剤が喉につかえ、みっともなくせ返る。ベンチの下に隠れていた三毛猫が、怯えたように駆け出していく。
「──待って」
 千鶴は去っていく小さな背に思わず手を伸ばしていた。行きかう人々が、そんな千鶴に不躾な一瞥をくれていく。
行き場のない羞恥と怒りが、千鶴に三度、舌を鳴らさせた。

 千鶴は、いつも独りでいる。耳に刺したピアス型の電子端末だけが常に彼女の傍にある。好きなバンドのロゴが刻まれたその端末は型が少しふるく、もう市場には出回っていない。音質こそ悪くないと千鶴は思っているが、最新型の性能を知らないので比べようがない。また、比べようとも思わなかった。三年前、少ない小遣いを必死に貯め、バンドの公式通販サイトで買ったお気に入りだった。
 千鶴は音楽が好きだ。ラブソングは好きではない。叫ぶような、戦うような、そんな歌を好んで聴く。けれど、そのピアスが家の外で音楽を流すことはほとんどない。通りすがる人々の口から零れる声を拾うため、千鶴は音楽を聴いているふりをして過ごす。自分に向けられた嘲笑や哀れみを、絶対に聞き逃したくはないのだ。自分をわらうやつは睨み殺すのだと、世界の敵意には敵意で対抗するのだと、心に強く決めていた。
 千鶴は他人が嫌いだった。他人もそうであればいいと思っていた。
 千鶴は、だから講義もひとりで受ける。友人同士で並んで座るとか、後ろの席でこそこそと会話を楽しむとか、そうしたことはしない。別にどうってことはない。十年以上も前から、こうした環境には慣れている。たったいま受講している海洋資源学も、試験はひとりで対策することになるだろう。他の学生は試験の過去問や対策を共有し、単位取得に群れで挑む。なぜ大学にまで来てくだらない集団ごっこをするのだろう。千鶴は入学当初、ひどく苛立っていた。
「今日も空席が目立ちますね」
 二十人規模の小さな講義室に高い声が響く。「まあ、私も学生の時はサボってばかりでしたのでなにも言えませんが」そう語る海洋資源学の若い女講師は、やたらと学生に寄り添いたがる。テスト前の協力についても、「それが人間の社会性だから」と肯定的だ。
「お友達から欠席理由を聞いている人は、講義の後に教えてください。寝坊でもインターンでも構いません。すべてを認める訳ではありませんが、考慮はします。お友達にも、出欠システムへの登録は保留で留めておくよう言っておいてください」
 私は機械よりは融通が利きますよ。と、おどける講師に千鶴は唇を噛む。
 これは優しさの名を冠した差別だ。独りで過ごす者が不利ではないか。今日だって生理がひどいのを押して来た。良い成績を維持しないと、奨学金の利子率が跳ね上がるからだ。そうなれば卒業後の生活は苦しくなる。いまはどこも機械による自動化が進み、雇い口は少ない。友人などいない千鶴は誰にも頼めないし、休めない。休んだ分だけ、自分の未来が暗くなるという確信がある。
 千鶴は右耳をそっと撫でた。ピアスから光が伸び、掌にログイン画面を映し出す。出欠システムに入り、出席をタップして、これみよがしにため息を吐く。この部屋にいる誰かに自分の怒りややるせなさが伝わればいい。伝わって、少しでも嫌な気持ちになればいい。
「やっぱこの講義とってよかったね」
「ね。先輩から過去問もらってるし、ほんと楽勝」
 近くから漏れ聞こえた軽薄な会話。それを聞いて、千鶴はなにかの糸が切れた気がした。ぱっくりと開いた胸の奥底から、過激な考えがふつふつと湧いて出る。
 たとえば、急に泡を吹いて倒れたら、倒れる直前に叫びを上げたら、この場にいる者たちに消えない傷を残すことができるだろうか。その傷が幸せな彼らの人生を少しでも狂わせるのなら価値があるのではないか。千鶴が決して立てないステージにいる彼らを、引き摺り下ろせたらどれだけ気分がいいだろう。
 千鶴は鞄のなかに常備している鎮痛剤をそっと取り出した。弾丸の数を数えるようにアルミ包装を撫でる。九錠、十錠、いやもっと──。このくだらない教室を痛みで塗りつぶすには、どれほどの鎮痛剤が必要だろう。勘定していると、講義室の扉が開く音がした。
 ──あっ。
 思わず、息を呑んだ。遅れてやってきたのは美住悠だった。彼女は視線をきょろきょろと室内に滑らせてから数秒立ち尽くし、おもむろに千鶴の隣に腰を下ろした。