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 千鶴は手にした鎮痛剤を、咄嗟とつさに箱ごとパーカーのポケットに詰めた。よこしまな考えはすでに鳴りを潜めていた。
 タブレットを横にずらし、彼女との間にせめてもの空間を作った。身体がぴんと強張っているのが自分でもわかる。一方的に敵視をしている人間が、そうとは知らず自分の隣にやってきたことに動揺していた。
 講義の最中も、千鶴は頑なに悠の方を見ないように努めた。悠もまるで隣にいる千鶴のことなど歯牙にもかけていない様子で、ただぼうっと前方を見つめていた。どういうわけか、それはそれで腹が立つ。千鶴は垂らした前髪の隙間から美住悠の横顔を幾度も盗み見た。呆れるほど整った輪郭。傷ひとつない澄んだ肌。照明に輝く艶髪。シトラスマリンの香水。淡い桃色に染められた爪。千鶴は爪を塗る女も、香水を纏う女も嫌いだ。
 だというのに、なぜかそれらが自分に向けられることを夢想し、苛立ち、期待した。
 こいつには私のつらさなんてなにもわからない。わかってほしくない。そう願いながら、対等に笑い合うふたりが脳内に描き出されて、嫌になる。
「ねえ、なんでさ」
 ゆえに、講義終盤にもたらされた呟きに、千鶴は心臓の止まる思いがした。話しかけられているのか、独り言なのか。盗み見ていることがばれたのか。冷や汗が首筋を撫でる。千鶴は自分に言っているのだとは考えないようにして、手元の画面にペンを走らせた。安物の、それも中古品だからか、タブレットの筆圧感知は反応が悪い。画面に這った掠れた線を千鶴は指先で消していく。ペン先を強く押し付け、なんとか線を絞り出す。
「ねえ、なんでだと思う?」
「……なにがですか?」
 頬に突き刺さる視線を無視できず、千鶴は思わず答えていた。
「今先生がしてる話。船って、sheとかherで呼ばれるよね。なんでだろうって」
 千鶴は虚を衝かれ、一瞬押し黙った。顔を深く俯け「知らないです」とひとことだけ告げる。すると悠は、「そっかぁ」と、残念そうに呟き、自身のタブレットに指を走らせた。
 光沢のある画面に滑らかな線が走っていく。千鶴はその様を横目で見ながら、荒れた呼吸を整えることに苦心した。声が変でなかったか。なぜ早口になってしまったのか。考えれば考えるほど、隣の女が許可もなく話しかけてきたことに怒りを覚えた。彼女が話しかけてこなければ、千鶴は羞恥に苛まれることはなかったのだ。
 その後、会話は途切れ、講義終了の鈴が救いの声のように響いた。
 学生らが一斉に立ち上がり、千鶴もその流れに乗るように席を立つ。慌てて立った折に、パーカーのポケットから鎮痛剤が箱ごと落ちた。
「はい。どうぞ」
 拾ってくれた彼女の顔を見ないように、千鶴は曖昧に会釈する。
「これいいよね。よく効くし。でも、飲みすぎると腎臓に悪いんだよ。過剰摂取オーバードーズだっけ。運が良ければ死ねるらしいけど、ほとんどは苦しいだけだし。私、そういうのは知ってるんだ」
「……そうですか」
「ごめんね、いきなり。でも、箱は新しいのに中身だけ少なかったから」
 宝石のような目をくしゃりと歪めて笑う悠は、ひどく美しかった。千鶴は彼女と目を合わせないよう、鎮痛剤だけ受け取って立ち去ろうとした。
 これ以上関われば、みじめな気持ちになるだけだと知っていた。にもかかわらず、「ねえ、あのさ」と掛けられた声に千鶴は無意識に振り向いてしまう。
「特別なのかな、船って」
 美住悠は千鶴を見つめたまま穏やかな声音で言った。千鶴は呼吸をひとつ挟んでから「なんの話ですか?」と、たしかめるように訊き返した。
「だから、船の話。ほら、さっき講義で」
 口元を緩ませる悠に、千鶴の息はわずかに上がる。「ロボットとかも女性代名詞ですけど」言いながら、落ち着かない視線の着地点を探していた。
「ああ、たしかに。言われて気付いた」
「これくらい常識だと思いますけど」
 早口なまま嫌みをひとつ吐き、千鶴は悠の背後を通り抜けようとする。
「でも、やっぱあれかな」
 続くように、悠も歩き出した。「形かな。曲線美ってやつ?」
「船の話ですか?」
「うん。船の話」
 はあ、と千鶴は嘆息した。こういう手合いは無視をするより適当にあしらった方がいい。悪い印象を与えれば、人は勝手に離れていくことを千鶴は経験から知っている。
 千鶴は鳩尾みぞおちの不快感に耐えながら、俯きがちに捲し立てた。
「たしか、何度もペンキを塗り替えるのが化粧直しみたいとか、あとは昔の船乗りは男だけで、そのパートナーだから女に見立てたとかそんな感じの理由だったはずです。というか、なんでそんなこと気になるんですか?」
「え、なんでだろ。なんとなく。知らなかったし」
「こんなことも知らずによくこの大学入れましたね」
「あー、それは……。小学校からここの付属だから」
 精一杯の憎まれ口をからっと笑って返され、千鶴は喉の奥が熱くなる。「エスカレーターで勉強あまりしてこなかったんだよね」と、気恥ずかしそうに笑う悠の態度に、千鶴はついに足を止めた。
「ばかにしてるんですか」
「え、なんでそうなるの?」
 廊下に響いた頓狂な声に、千鶴はそっと唇を噛んだ。どうやら目の前の女は本当にわからないらしい。生きてきた世界が違うのだ。価値観もなにもかも違う。小学校から私立に通うような人間とは話が合わない。わかってはいたけれど、ざらついた感情が表情を醜く歪めた。
 千鶴は次の講義がある教室に急いだ。悠もなぜかついてきた。講義室の扉に手を掛けながら、「私、次ここなので」と淡白に言い放ち、千鶴は悠に背を向ける。
「あなたも次の教室行ったらどうですか? ここじゃないですよね?」
「ああ、うん。よく知ってるね」
「……だって」
 口ごもる千鶴に、悠は軽く笑ってから、「ねえ、奥平さん」と名を呼んだ。
 千鶴は扉に手を掛けたまま硬直した。けれど首だけは素直で、悠の方に自然と回っていた。千鶴の網膜に、彼女の顔の細部までもが描き出される。それは悠にとっても同じはずだった。千鶴が隠していたいものが悠の瞳に晒されている。彼女を卑屈たらしめているものが、最も見られたくない人間に見られている。
「アリアドネでしょ、それ」
 悠が唇の端を持ち上げた。
「え?」と、千鶴はまたも無意識に訊き返していた。
「その耳の。違う?」
 悠の細い指がすらりと伸びる。鼻の傷ではなく、耳たぶを覆う赤いピアス型の端末を指している。その中央に刻印されているのは毛糸玉の絵。糸の尾がひょろりと上に伸び、尾先が髑髏どくろかたどっている。
 それは十年ほど前に一世を風靡ふうびしたアリアドネというバンドのロゴで、弱い千鶴に言葉の牙を与えた、戦いの象徴だった。
「そう、ですけど……」
 千鶴は内心驚きつつ頷いた。育ちの良さそうな彼女がアリアドネのようなアナーキーなアーティストを好むとは到底思えなかった。
「やっぱり。私もね、好きなんだ」
 千鶴の驚きを尻目に、悠はセーターの襟をぐっと引き下げる。
「フェイクタトゥーだけど」
 微笑む悠に、千鶴はなにも反応を示せない。紫のブラストラップが窓から射す陽に照らされて光り、左鎖骨の下には毛糸玉と髑髏の紋様が刻まれていた。
「さっきの講義さ」
 襟から手を離し、悠は続けた。「知り合いいないんだよね、私」
 千鶴は悠から目が離せなかった。女神のような微笑みが千鶴の血流を早くした。
「だから奥平さん、また来週」
 手を振る彼女を、千鶴は棒立ちのまま見つめるほかない。
「え、もしかして来週休む感じ?」
 身じろぎひとつしない千鶴に彼女が問う。千鶴は寸刻の間に深く悩んだ。どう返すべきなのか。どの答えが自分の人生にとって利するものなのか。
 悩んだ挙句、千鶴は決断した。
「……行きます、けど」
「ならよかった」
 悠は手を振り直し、「じゃ、また来週」ときびすを返した。
 千鶴は思い出したかのように講義室に逃げた。思考は時化しけたまま、まとまることはない。なぜ話しかけてきたのか。なぜ名前を知っていたのか。また来週会うことになってしまった。会った時、なにを話せばいい。考えれば考えるほど、思考は岩礁がんしように乗り上げ、飛沫しぶきと散る。
 次の講義はまるで集中できなかった。
 それから九十分後、また次の講義室で彼女を──美住悠を見た時、その周りには声の大きい小魚が数匹、纏わりついていた。
 千鶴は彼女の視界に入らないよう隅に座った。
 ままならないことに、千鶴の視界から彼女を消すことだけはできなかった。