現在─2044年 1月
右腕が枯葉の上に転がっていた。前腕部のみで二の腕がない。肌は白く、夜露に濡れてしっとりと輝いている。
海からびゅうと一陣の風が吹き、力なく開かれた掌に、一枚の黄葉が収まった。
その様子を黒いコートを纏った男が見つめていた。
男は──上沼駿は艶めく腕から目を逸らすと、胸ポケットから警察手帳を取り出した。頭上を舞う警備ドローンが、手帳に埋め込まれたICチップを瞬時に読み取る。目玉のようなランプが警戒の色を解くと、警報の鳴る心配も失せた。
「冷えるな」
保全された現場へ足を踏み入れ、上沼は、誰に言うでもなく呟いた。
現場は品川区八潮の埠頭公園だった。狭いながらも小綺麗な見栄えではある。だが、園全体を眺めていると寂寥を覚えてしかたがない。
目前に広がる東京湾は黒く凍てつき、海上を走る風は冷気を含んでいやに鋭い。潮の薫りのなかには都会特有のガス臭さが微かに紛れている。燃料からくるものではない、下水やヘドロから湧いた硫化水素ガスのにおい。
上沼は鼻頭を刺す寒風に耐えかね、ついに顔を背けた。夜露に濡れた右腕が再び目の端に飛び込んでくる。剥き出しになった空圧駆動の人工筋肉に青い配線が絡まっていた。機械とはわかっていても、気分がいいものではない。これもあの事件の影響だろう。考えると上沼の眉間には自然と皺が寄った。
年末に起きた事件だった。上沼が現在立つ八潮から京浜運河を挟んで西に約二キロ。品川区東大井の先進工業地帯を中心に行われたそれは、世間では「ネオ・ラッダイト運動」と呼ばれている。若者を中心とした機械の打ち壊し運動だ。
機械の打ち壊し自体はここ数年、めずらしいものでもない。進んだ科学技術が人々から雇用を奪って久しく、労働者の恨みつらみは、度々デモの形で発散されてきた。その中でも、年末のあの騒動は異質だった。死傷者を出し、自爆テロじみた凶行に及ぶ者もおり、まさに暴動と呼ぶほかない事案だった。おかげで上沼も年末年始の休暇は返上。年の瀬の街を署内から見下ろしつつ、AIが精査した都内各地の監視カメラの映像や、携帯端末の使用履歴をもとに、関係者と思しき人物の照会作業を続けた。除夜の音がいつ鳴ったのかも定かでない。
発展した技術と捜査員の献身のおかげか、首謀者も関係者も年明け間もなく洗い出されたのだが、それにしても腑に落ちない点がいくつか残っていた。
首謀者ともくされる男、有村康生は都内の大学に通う四年生だった。裕福な家に生まれ、学業の成績も悪くない。たしかに反機械運動に傾倒はしていたが、集団の中でも対話重視の穏健派とされていた。そんな男がなぜ、死傷者を出す暴動を起こしたのか。自爆テロを伴う抗議に舵を切ったのか。関係者からも不審の声が多くあがっている。有村はある時から、人が変わったように強硬路線に移ったのだという。
早急に有村の蛮勇の謎を突き止めねばならない。必然、署内の意見はそのように形成されていった。さもなければ、有村の意志を継ぐ者が、第二、第三の暴動を起こす恐れがあった。
上沼としても、それだけは止めなければならないだろうと考えていた。
だが同時に、結局世間の流れはこのまま変わらないのかもしれないという諦観もつきまとった。終わらない。終わってやるものか。俺たちの意志を、怒りを、このまま絶やしてなるものか。そうした怨念じみた熱が有村の起こした暴動からは滲み出ていた。世間もその狂気に、次なる騒動を期待しているようにも思えた。
実際、SNSでは有村の行動を讃える者すらいる始末だ。
白い息を吐き、オイルドジャケットの襟を寄せあげた。口には出さないまでも、雇用を奪い続ける機械連中に一矢報いた有村を英雄視する大衆心理は、上沼にもわからないでもない。
気分の落ち込むままに膝を屈めると、耳に掛けた小型インカムがぶるりと震えた。蝸牛に響く骨導音が、神原義嗣からの着信だと伝えている。上沼はかちかちと奥歯を二回鳴らした。振動を受けて、通話が繋がった。
「どうしました、義さん」
『上沼か。おまえ今、コンテナ埠頭だよな?』
耳の奥で低い声が反響する。
「はい。そうですけど。なにかありましたか?」
『いや、なに。ちょうどそこで見つかった女の取り調べをはじめるんだが、今朝おまえ、そいつと少し話しただろ? どうだった?』
「どうだった……そうですね……」
先輩刑事からのぞんざいな問いに、上沼はしばし考える。
容疑者は奥平千鶴という二十二歳の女子大生だ。騒動の首謀者とされる有村康生をついに取り逃がした警察は、現在有村と交友のあった人物らを洗っており、彼女もそのうちのひとりだった。奥平は大学四年の春から、ネオ・ラッダイト運動に関与している。
彼女は事件当日、この公園で一体の機械を抱き、海に飛び込んだとされている。警邏を行っていた警察官に救助された彼女は、後に不法投棄犯として逮捕された。別件逮捕は今なおめずらしいことではない。
彼女が海に投棄した機械は精巧かつ特殊な造りをしており、オーダーメイド品であることはすぐにわかった。破損さえしていなければ、中古の義体として高値がついていたことだろう。しかし反機械運動の徹底ぶりは見事だった。接続端子を覆うすべての防水蓋は剥がされ、代わりに微量の爆薬が詰め込まれた形跡があった。おかげで外見はひどく損傷。内部も海水に侵されており、一目でスクラップ認定されてしまうような状態だった。
それでもなにか手掛かりは残っていないか。四肢に刻まれたロゴから開発元のメーカーに問い合わせたところ、残念ながら映像や音声を記憶していたメモリも壊れていることが判明した。証拠品としての能力はないことが証明され、運動で破壊された市街の機械ともにそのままメーカーからの引き渡し要請に応じた。メーカーはこれらの機械を溶かし、再利用する腹積もりだろう。なにせこの国は資源に乏しい。機械にはレアメタルが多く使われている。
上沼が気に掛かったのは、なぜ奥平が機械と心中のようなことをしたのかだ。
団体関係者から聞き出した奥平の印象は、物静かだが熱意のある人物で統一されていた。しかし今朝、実際に会ってみるとその印象はまるで違った。他の団体関係者から感じられた熱意や怒りはまるでなく、こちらが反機械運動を腐しても反論さえしてこない。
奥平千鶴は、ただそこに座っているのだ。
暗い海底のような雰囲気を纏い、ただじっと。
「頑固なやつです。機械の手には負えませんよ」
悩んだ挙句、上沼はそう告げた。実際、奥平は取り調べに特化したAIとの対話でも尻尾を掴ませない。
それを聞いた神原はわかりやすく、『そうか、そうか』とやる気に満ちた声を漏らした。上沼は音を出さずに笑った。五十を過ぎても未だ刑事盛りの神原は『じゃあ、俺が口説き落とさないとな』とスピーカーの向こうで鼻息を荒くしている。
「頼みますよ」
言いつつ、昔気質の先輩刑事との通話を切った。
顔を上げると、荒涼とした光景が広がっていた。
その光景に、上沼はふと思い出していた。駆け付けた警備ドローンが捉えた映像。冬の海水に揉まれ、意識を失った奥平の表情。泣いているのか。笑っているのか。悔やんでいるのか。どれともつかない彼女の顔。
意識が戻り、健康状態も問題ないとされた奥平は、現在、品川署に勾留されている。今朝取り調べもはじまり、上沼が初回を担当した。彼女は反機械運動への関与も、首謀者である有村との交友関係もすぐに認めたが、ただひとつ、その不法投棄だけは否認し続けている。
唯一、カメラに捉えられたその事実だけを、彼女は否定しているのだ。
あいにく、警察が欲するのは彼女の持つ有村康生の情報であり、騒動の末端にいた彼女の私情などではない。今となっては、機械の破壊や投棄自体はめずらしくなく、それこそ、そこに転がる白い腕もネオ・ラッダイト運動の残滓に違いない。少し視線を高くすれば、港湾には多くの機械が打ち捨てられている様子もうかがえる。
それでも、上沼は思うのだ。
彼女は一体なぜ、海に飛び込んだのか。
小説
沈没船で眠りたい
あらすじ
加速度的に発展するAIによって、人間の就く職が減少することを憂いた人々が機械の打ち壊し運動を起こす最中、首謀者と関わりを持つ一人の女子学生が機械を抱いて海に飛び込んだ。彼女はなぜ、機械と心中まがいの行動に至ったのか──? 絶えず変化していく世界を、その中に生きる人間を、変わらずに愛することが出来るかを問う、慟哭のシスターフッドSF!
沈没船で眠りたい(1/10)
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