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「有村くんだけじゃないけどさ、きっと人間は文明を愛してて、だから手懐けておきたいのかなぁとか思うよね。進歩はしてほしい。けど自分たちで生み出したものだし、制御できないところまでいってほしくない。まるで、できのわるい子どもだと思ってる。うん。たぶんそう」
 遠くで誰かが叫んでいる。喧騒が濃さを増していた。千鶴は今の悠の言葉を聞き逃したくなくて身を寄せる。シトラスマリンのにおいだけが、この場に不釣り合いなほど爽やかに香っていた。
「みんなばかだよ。愛してることに気付いてないんだ。でもその中でも一番ばかなのが有村くん。彼は愛して欲しがってる。この社会とか、誰かに。だから悪い人にもほいほいついていく。無駄なことでも精一杯頑張る。パパとママが優しくしてくれなかったんだろうね、きっと」
「悠は、有村くん嫌いなの?」
「まさか」悠は笑った。「かなり好きだよ」
「じゃあ、なんでそんな悪く言うの?」
「うーん。なんかね。そういうばかでどうしようもないところがいいんだよ。そのままでいてくれーって思う。有村くん見てるとさ、私、自己肯定感高まるんだよね。うわ、私まだまともじゃんって。だから、有村くんはこのままなにも変えられない運動に熱中しててほしいし、そのまま変わらないでいてほしい」
 有村のことを滔々とうとうと語る悠を見て、千鶴はようやく理解した。悠は人が変わったように話しはじめたのではない、元からこうだったのだ。悠は千鶴が思っていたよりもはるかに素直な人間で、他人への悪意を持ち、普段はちゃんとそれを隠し、綺麗に世に溶け込んでいる。
 程度の差はあれ、自分だってそうではないか。
 理解はすれど、同時に千鶴は混乱もしていた。醜い部分をさらけ出してくれたことは、きっと千鶴に気を許しているからだろう。しかしあるいは、悠は千鶴をも冷笑の対象としているかもしれない。たったいま有村を腐したように、千鶴の顔についた傷を見て、自分はまだ大丈夫と安心しているのかもしれない。だとすれば、これまでに感じた多幸感や、少ないながらも保ってきた自尊心はどこに持っていけばいいのだろう。
「あ、思い出した」
 悠の声に、千鶴は我に返った。「なにを?」
熱殺ねつさつ蜂球ほうきゆうだ」
「なに、それ?」
「だから、蜜蜂が巣に来た敵を殺す時のやつ。さっき言ったじゃん」
 そうだそうだ、と悠は満足そうに頷く。
「ぎゅっと集まって殺すんだよ。敵を、熱で、こう……ぎゅっと」
 両手を握り合わせ、悠はひとりで納得する。それからふっと夜空を見上げ、吐き出すように言った。「殺せるかな」
「ここにいる人たちは、ちゃんと殺せるのかな。自分たちの敵を。──ねえ、千鶴はどう思う?」
「そんな物騒なこと、聞いて来ないでよ」
 目の前の群衆を眺める。機械を打ち壊す運動だというのに、叫ぶ人々は意志のない人形のように同じ動作を続けている。
 千鶴はそんな彼らに目を細め、「でも、まあ」とコートの襟を寄せあげた。
「殺せるんじゃない。殺してでも守りたいものがあるのなら」
「殺してでも守りたいものかぁ。それでいくと、有村くんじゃあ難しいかなぁ。基本流されてるだけで、空っぽな人だし」
 そんなところがいいんだけどね。と、悠がさらりと言ってのけた時、ぱんっと短い炸裂音がした。どこかで報道プレスドローンが撃ち落とされたらしい。道の先で赤々と火が躍っていた。
「うわ、すごい」
 悠は立ち上がるや否や、駆けだした。「本物の花火みたいだ」
 千鶴もあとを追う。「危ないよ」と言っても、悠は止まりやしない。
 騒ぎの中心は鮫洲駅西口から少し歩いた大井公園だった。入口の近くで数人の若者が金属バットを振っている。がんがんと鈍い音が鳴り、清掃用ロボットがべこべこにへこんでいた。
『危害を加えるのはやめてください』とスピーカーから嘆願が零れても、若者たちは笑いながらロボットを叩き続ける。
「爆発しないのかな、あれ。アニメみたいに、ばーんって」
 その光景を見つめる悠の目は爛々と輝いていた。
「どうだろう。全固体電池だから、平気だと思うけど」
「じゃあ、危なくないね」
 悠は意地わるそうな笑みを湛えながら、打ち壊しの現場に近付いていく。
 周囲にはスプレー缶からカラーパウダーを噴射し、派手に盛り上がる一団もいた。「NO ROBOT」と公園倉庫の外壁に殴り書きをしている彼らは、「機械反対!」と汚い嗤い声を上げながら缶チューハイを呷っている。
 千鶴は不穏な気配を感じ、「ねえ、もう戻ろう」と悠の肩に手を伸ばすが、悠は「ええ、いいじゃん」と立ち去る気配がない。
 近くから怒声が聞こえ、ふたりは思わず振り返った。
 鉄パイプを握り締めた大柄の男が叫びながら公園内を闊歩かつぽしていた。千鶴はその男に見覚えがあった。五月の晴れた日、プラタナス並木の下で行われた有村の演説の横で抗議文を掲げていた男だ。
 男は遠目からでもわかるくらい息が荒れていた。肩が上下に揺れ、目は炯々けいけいと鋭く、口の端には泡が浮かんでいた。
「やばっ。ねえ、あれ見て千鶴。目いっちゃってる」
「ねえ悠、もう戻ろう。このあと海行くんでしょ?」
 千鶴がいくら言っても、悠は聞かない。男はぶつぶつと言葉を漏らしたまま、歩を進めている。その異様な雰囲気に清掃ロボットに群がっていた若者たちも自ずと道を空けていた。
 突然、男は握った鉄パイプを振りかぶった。高く掲げたそれを清掃用ロボットに振り下ろすまでは一秒も掛からなかった。がんっと鈍い音が鳴った。男は数度腕を振った。がんっ、がんっと鉄の鳴く音が続く。内蔵されている全固体電池が露出し、ぐしゃりとひしやげた。男の振りかざした鉄パイプが外装に擦れ、火花を散らす様子が見えた。
 千鶴の身体に寒気が走った。
 ──危ない、離れないと。
 直感し、咄嗟に数歩前に立つ悠に手を伸ばした。
 それが遅かったと気付くのは、カラーパウダーに引火した炎が閃光を放ったあとだった。
 鋭い破裂音の後、悠が地面に倒れていた。
「悠っ」
 千鶴は眩んだ目のまま、悠のもとへと駆け寄った。「悠っ!」
 砕けた機械の鉄片が悠の右大腿部に突き刺さっていた。裂けた肉の間から白い骨までもが見える。街灯に照らされた血がてらてらと液体金属のように光り、悠の青いコートを赤黒く染めていた。
 痛い! 痛い! 悠の叫びが鼓膜を叩く。
「大丈夫だから! すぐに救急車呼ぶから!」
 周囲を見回す。清掃ロボットの周辺にいた若者たちは、みな炸裂した鉄片を受け、赤黒い血を垂れ流しながら地に伏している。その周辺にいる群衆は遠巻きに見るばかりで、手を差し伸べる人はほとんどいない。
「誰か!」
 千鶴は叫んだ。
 けれど、向けられた手の数はカメラのそれよりも少ない。千鶴は舌を打つのも忘れ、悠の手を握った。「大丈夫。大丈夫だよ」呪文のように繰り返した。
 爆発音を聞き、遠くから駆けてきた若い女性が救急車を呼んだのは、悠が痛みと失血に気を失ってからだった。
 救急車の到着までもしばらくかかった。それがデモの人垣のせいだと千鶴が気付いたのは病院に到着してからだった。長い夜になった。千鶴は廊下のソファに座ったまま、放心状態で過ごした。悠の家族はなかなか現れない。空が白みはじめていた。
 ようやく悠の両親が現れた頃には朝を迎えていた。ふたりとも立派なスーツを纏い、襟には昨夜見た三本線のロゴの襟章をつけている。医師を従えたふたりは、千鶴の前を横切り、集中治療室へ向かっていた。
 その時見えた母親の横顔に、千鶴の時間はぴたりととまった。
 悠そのものだった。大人になった悠がそこにいた。
「もしかしてあなた、奥平千鶴さん?」
 千鶴の視線に気付いた彼女が歩みを止めた。あわせて立ち止まった父親を先に行かせ、悠の母親はひとり、ソファに座る千鶴を見下ろしていた。
「はじめまして。私、悠の母のひとみです」
 千鶴は慌てて立ち上がり、口を開いた。「えっと、私、公園に行こうって言ったのは悠の方で、その、私は止めようって──……」すぐに自己保身が飛び出す自分に失望して、言葉に詰まる。
「わかってる。悠が無茶をしたんでしょう? あの子は昔からそうだから。それに、ここに来るまでの間に監視カメラの映像も確認してるから安心して。あなたが悪くないことは、私たちは十分に理解している」
「でも、私が……私がもっとちゃんと止めてたら」
 喉が苦しくなった。胸の奥に追いやっていた罪悪感が目を熱くした。謝罪すら出てこない。泣かないように自分を律するのに精一杯だった。痛いのは悠だ。私じゃない。ここで嗚咽する権利は自分にはない。
「安心して、千鶴さん」
 ふいに手を握られ、千鶴は瞠目した。
「こう見えて、私は最新の医療に詳しいの。腕の良い医者だってたくさん知ってる。だから大丈夫。何度だって悠に会わせてあげる。だから、あの子が治療を終えたあとは、また一緒にいてあげて」
「……一緒にいても、いいんですか?」
「ええ。さっきも言ったとおり、あなたはなにも悪くない。それに、あなたはもう悠を構成する大事な一部なんだから、隣にいない方がおかしいでしょ?」
 向けられた柔らかな笑みに、千鶴はついに目を閉じた。「お願いします。悠を助けてください」洟を啜り、絞り出した声で頼み込んだ。「お願いします。悠を……」何度も、何度も頼み込んだ。
「もちろんよ。あの子は私の分身のようなものだもの」
 瞳は千鶴の頭を撫でると、そのまま集中治療室に向かった。
 取り残された千鶴は、その後、看護師に促されるままに帰宅した。瞳の言葉とは裏腹に、どうやら悠は危ない状況にあることが看護師の表情から読み取れた。

 数時間後、短い睡眠から目覚めた千鶴はひどい衝撃を受けた。SNSに「親しい人の脚が切断された」と投稿されているのを見たからだった。
 それは有村康生の投稿で、つまりは悠に違いなかった。

 

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