最初から読む

 

 昼前には今後の相棒となる刑事が本部まで迎えにくると聞いていたが、十二時を過ぎても誰も来ない。誓は自ら出向くことにした。
 地下鉄に乗り、曳舟駅で下車する。隅田川に向かって歩くうち、銃撃事件当日にこの界隈に来たことを思い出した。相棒は立山ビルの屋上の監視小屋にいると聞いた。エレベーターはひとつしかなく、しかも遅い。じっとこらえて待っていると、一階の部屋の扉があいて、老人が顔をのぞかせてきた。
「あんた、刑事さん?」
 このビルのオーナーだろう。ビニール袋を渡された。タッパーに張られた水の中でお豆腐が揺れている。
「これ、藪さんに渡しておいて。俺が作る豆腐大好きなのよ」
 誓は一礼して受け取った。エレベーターに乗った。最上階フロアから階段を上がり、屋上への扉を開けた。強い日差しで一瞬視界が白くなった。パンプス越しでもコンクリートの熱さを感じる。
 こんな場所に置かれた物置小屋が監視拠点なら、中は灼熱地獄だろう。誓は引き戸をノックした。どうぞぉ、と女の声が返ってくる。扉を開けたらひんやりとした冷風が顔に降りかかった。窓用エアコンが据え付けられていた。六畳用のシールが貼られている。四・五畳の狭い空間をキンキンに冷やしていた。
「ごめんねー、迎えに行けなくて」
 悪びれる様子もなく藪哲子警部補が言った。今日から誓の相棒となる人だ。女性マル暴刑事の第一人者として密かに尊敬していたが、一緒に捜査したい相手かと言ったら別だ。
 藪さんがやらかしただの、藪さんの尻ぬぐいだの、賢治からよく愚痴を聞いていた。
「今日からよろしくお願いします。第一暴力犯捜査一係の仲野誓巡査部長です」
「知ってるー」
 藪は誓が入って来てから、一度も望遠鏡から目を離さない。振り返りもしなかった。
「十一時半に向島が入室したんだわ。退室まで目が離せないから迎えも無理だった」
 それならそうと連絡は欲しかった。誓は二時間も本部で待ちぼうけだった。
「悪いんだけどお腹すいたから、ランチ買ってきてくんないかな。駅ビルのカフェに美味しいサンドイッチ屋があるの」
「オーナーからお豆腐預かりましたけど」
「それは夕飯。冷蔵庫に入れといてくれる」
 この物置小屋は電気が通っているようだ。卓上のコンロはガスボンベ式だからガスは通っていない。壁際にペットボトルが並んでいるから水道も通っていないのだろう。
「あの、お手洗いはどうしてるんです?」
「トイレはオーナーの部屋のを借りられる」
 二千円渡された。
「エビとアボカドのサンドイッチセットで、飲み物はレイコー。デザートにワッフルつけて。クリームたっぷりで」
 誓は金を受け取らず、靴を脱いで藪の隣に座った。
「ご自分で買いにいかれたらどうですか。監視代わります。お昼休憩どうぞ」
 あん、と藪は顎を突き出して軽く凄んだ。
「新人に監視を任せられない」
「新人じゃなくて再採用です。監視も内偵も慣れていますので」
 藪は「あっそ」と言い、刑事とは思えないピンヒールを出して監視小屋を出て行った。
 なんて女だ。賢治の相棒だったというのに、夫に対する見舞いの言葉ひとつも、犯人にワッパをかけられなかった詫びのひとつすらない。
 ――いや、詫びなんか、ない方がいいのだけれど。
 望遠鏡をのぞく。六階のエレベーターが開き、髪をひとつに束ねた中年女性が出てきた。五右衛門ビル管理会社のパート従業員だ。毎週月曜日にフロアを掃除して回る。
 誓は懐から、革の手帳を取り出した。夫が持ち歩いていたものだ。向島一家の出入りを監視する中で気になったことや目についた人物をメモしていた。
 誓は革のぬくもりを指先に感じながら、五月一日の朝、昏睡状態だった賢治の意識が戻った日のことを思い出した。
 第一声は「手帳」だった。この手帳はジャケットの左胸ポケットに入っていた。犯人が放った弾の一発目はシャネルの香水瓶を破壊し、この手帳にめり込んで脇腹に打ち身を作った。手帳の上部にはまん丸い銃弾の痕がぽっかりと開いている。
 賢治はその時まだ一日のうち目覚めている時間は数分だった。疲れるようですぐに寝てしまう。一か月寝たきりで全身の筋肉が落ち、口から物を食べることもできなかった。点滴と胃ろうからの栄養分だけで生きていた。手帳を渡したが開くことも持つこともできない。
 誓は賢治の目の前で最初のページから開いてやった。賢治は眠たそうな目で見ていたが、やがて、ここだと指さした。
『掃除の女、要確認』
 この女性が銃撃事件に関わっているということか。誓はこの情報をすぐさま乗鞍に伝えたが、二週間後にシロの判定が出た。
 この女性のなにが気になったのか、賢治に再三確認したが、賢治は自分が死の淵にいたときの言動を一切覚えていなかった。
 誓はまだこの掃除の女性が気になっている。望遠鏡をのぞいて彼女が六階の廊下を掃除していく様子を観察する。
 白髪が何筋か見える長い髪をいつもバレッタでひとつにまとめている。乗鞍の情報によると、群馬県伊勢崎市出身のシングルマザーの女性だという。今年大学受験の高校生の娘と、足立区で二人暮らししている。
「たっだいまー。誰か出入りは」
 藪が紙袋を提げて戻って来た。
「毎週月曜日の掃除の女性が」
鹿島良子かしまりようこね」
 藪はテーブルに紙袋の中身を次々と出す。
「彼女、毎週月曜日の昼前後に掃除に来ていますが、変わったことはありますか」
 藪は小さなため息をつきながら、アイスコーヒーの中にガムシロップを二つとミルクを二つ入れた。甘党らしい。
「まあ、気持ちはわかるよ。三か月経っても花岡の行方がわからない。捜査に間違いはなかったのか。疑いたくなるよね」
「夫が意識を取り戻して初めて示した人物が、鹿島良子だったんです。本人はどうして彼女のことを口走ったのかいまになってはわからないというし……。銃撃事件の現場に居合わせていた可能性はありませんか」
「防犯カメラには映っていなかった。アリバイもある」
 誓は望遠鏡の監視に戻った。良子は向島一家の玄関扉の前でハンディ掃除機をかけているところだった。しゃがみこみ、銀色のヘラのようなものでコンクリートの廊下をこする。向島一家に出入りするのはガラの悪い人間が多く、帰り際にガムを廊下に吐いていく輩もいるようだ。
 誰が吐いたガムだろうか。監視記録をめくった。先週、関東吉竹組系二次団体の組長が若い衆を三人連れて向島一家を訪ねていた。入るときも帰るときも若干もめたらしい。そこの若い衆が帰り際にガムを吐き捨てている。うちひとりは鍵穴にガムを詰め込む嫌がらせまでしていた。
 誓は改めて望遠鏡をのぞく。
「606号室だけ扉の色が違いますね」
「去年の暮れに落書きされたのよ。弱虫とか卑怯者とか。本家吉竹組の枝の組のもんの仕業」
 藪は監視中だったからすぐさま現場に飛んで器物破損でワッパをかけたらしい。彼らはわざわざ向島一家に嫌がらせするためだけに新幹線に乗って上京していた。
「やることがみみっちいですね」
「十年前ならカチコミくらいはするでしょう」
 建物の壁に銃弾を撃ち込むとか、ダンプカーで突っ込むとかの殴り込みだ。
「三十年前ならとっくに抗争になっていますよ」
 すでに何人か死んでいただろう。
「向島一家は分裂騒動の際にどちらの組にもつかず、双方から嫌がらせを受けているということですか」
「下っ端の組がやっているのよ。上部団体の方は味方になって欲しくて両手を広げて歓迎しているけどね」
「私の夫が銃撃されたのは、吉竹組の分裂騒動と関連があるんでしょうか」
 藪は無念そうに首を横に振った。「そうだ」と膝を叩き、スマホの動画アプリを誓に見せた。
「これ、ヤクザ関係の動画を漁っていて見つけたの。三十年前のワイドショー映像」
『昔のヤクザと警察はガチだった!』というタイトルがつけられている。誓はタイトルを見ただけでなにを見せられるか察する。げんなりした。
「当時の吉竹組総本部に大阪府警がガサ入れしたときの映像よ。ワイドショーの取材陣が駆け付けて、生放送されていた」
 藪が再生した。
"ワレどこのもんやコラァ、一歩も入らせへんぞ!"
 三代目吉竹組の組長だ。就任してすぐに射殺されてしまったが、襲撃の際に実行犯四人を道連れにしている。元祖武闘派だ。
"ワレもくそもあるかい! 大阪府警のマル暴や! 道あけんと全員公妨でしょっ引くでぇ!!"
 大阪府警のスキンヘッドの刑事が前に出た。いまではテレビカメラの前でこんなことを言えないが、血の気の多さは迫力がある。実際かつてはよくヤクザが公務執行妨害で逮捕されていた。
 当時の吉竹組は大阪ミナミで敵対する会派との抗争真っただ中だった。大阪府警のガサ入れを阻止しようと全国から枝の組員を集めて、四百人近い暴力団員で出入口を固めたのだ。対する大阪府警も関西中の県警のマル暴刑事をかき集め、三百五十人の大所帯で周辺を封鎖していた。
「この大阪府警の最前列でどやしているの、お父さんでしょ」
「はぁ、まあ」
「府警では伝説って言われたマル暴刑事だったとか。本部長賞が二十回、刑事局長賞が五回に長官賞まで取ってるんでしょう?」
 父の授賞記録は未だどのマル暴刑事にも破られていない。
「この映像で一般の人に認知されたことも大きいですね。ヤクザの親分とやり合う姿が生放送されて、府警の狂犬なんてあだ名つけられて」
 誓は鼻で笑っていた。
「実際は失敗も多かった。このときもミナミの抗争を防げずに一般市民八人が犠牲になっていますから」
「ふうん。お父さんへのジャッジ、厳しいんだね。逮捕したヤクザは百人近いし、海外逃亡ルートをことごとく潰していった功績はすごいと思うけどなぁ」
 藪が映像の途中でスクリーンショットを撮った。吉竹組の外門の前に陣取る若い組員たちをとらえた場面だった。夏場で気合を見せるためか、半分以上の男たちが上半身裸で屈強な肉体を晒していた。
「この男」
 若々しい肉体を晒すひとりの男を拡大した。誓は思わず飛びついた。
「向島春刀?」
「さすが、よくわかったね。刺青はないし、左腕もまだあるけど、本人よ」
 誓は画像を限界まで拡大した。
「ほっぺがちょっと赤いですね。ニキビ面だったのかな」
「計算すると、この時まだ十三歳」
「十三でもう暴力団事務所に出入りしていたんですか」
 盃は交わさず、学校へ行きながら下働きとして食わせてもらっていたのだろうか。昔から暴力団事務所は、行く当てを失くした家出少年や不良少年の受け皿になってきた。
 向島は生年月日すらはっきりしない。
「確か、無戸籍児でしたっけ」
「そう。向島一家の初代総長と養子縁組するまでは本当に戸籍がなかった」
 親は誰で、どこで生まれ育ち、向島一家に流れたのか――。
「お父さん、吉竹組を担当していたんでしょ? 向島とも会っていたかもしれない。なにか聞いていない?」
 誓は首を横に振った。
「向島は東京を拠点にしていますよね。大阪府警にいた父とは接点がなかったと思いますよ」
 誓のスマホにニュースサイトからプッシュ通知が入った。
『速報 渋谷のビルで爆破火災発生 テロか』
 ニュースサイトをタップする。都心の空撮映像がライブ中継されていた。渋谷の宮益坂あたりで黒煙を上げているビルがある。
「渋谷で爆破火災があったみたいですね」
 空撮映像を見た藪は、二度見して飛び上がる。
「これはやばい、うちの案件だ!」
 望遠鏡と傍らにあった小型モニターを繋ぎ、録画装置の電源を入れた。監視の目がなくなるときは、必ず向島一家の事務所玄関を録画している。
「すぐ出るから準備して!」
 誓はついていけない。
「うちの案件って……。まさか抗争だというんですか!?」