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 賢治は千駄木せんだぎにある大学付属病院の高度救命救急医療センターに搬送された。
 救命救急センターはえんじ色の腕章をつけたスーツ姿の人間で溢れていた。警視庁の刑事たちだ。誓は茫然自失で処置室前のベンチに座っていたが、看護師に促され、血塗れの両手を洗ってきたところだ。一瞬で刑事たちに囲まれる。
 背の高いすらりとした女性が目についた。目を真っ赤にさせ、名刺を出す手も震えている。
「ご主人の相棒の藪です」
 藪哲子警部補――マル暴刑事を三年で辞めてしまった誓でも、その名前は知っている。警視庁で初めて女性でマル暴刑事になった人だ。誓の父以上に『伝説』と言える女性だろう。誓がマル暴刑事になったとき、すでに女性の数が全体の一割はいた。彼女はその道を切り拓いてきた人だ。最悪の初対面だった。藪は泣いている。
「ご主人の容体は」
「意識不明の重体で運び込まれました。これから緊急手術だそうです」
 誓も元マル暴刑事だ。知った顔がいくつもある。しっかりしなくてはならないが、頭の中は真っ白だ。
「大丈夫か」
 乗鞍匡志のりくらまさしというベテラン刑事が顔を覗き込んできた。誓が二十三歳でマル暴研修を受けたとき、講師を務めていた人だ。
 誓は目撃者だ。医師から聞いた話も含め、必死に証言する。
「夫はエスカレーターですれ違いざまに撃たれたようで……」
 言わなくていい、と乗鞍が首を横に振った。
「防犯カメラにちゃんと映っていたから大丈夫だ。いまは、ご主人のことだけを考えて」
 こらえていたものが、わっと目から溢れて来る。
「犯人は?」
「渋谷方面へ逃走中だが、あちこちの防犯・監視カメラに姿が映っている。捜査支援分析センターが逃走経路を追跡中だ。一両日中に足取りが判明する。緊急配備も敷いている」
「夫はどこの組を担当していたんですか」
 マル暴刑事が撃たれたのだ。暴力団員の報復と考えるのが普通だ。付き合っていたころはよく事件の話をしたが、誓が警察を辞めたあと、夫はほとんど仕事の話をしなくなった。守秘義務があるからだろう。
「向島一家という、墨田区の独立系暴力団です」
 藪が答えた。
「独立系? 向島一家は吉竹組系列でしたよね」
 吉竹組は大阪を拠点とする日本最大の特別指定暴力団だ。ロシアのマフィアに続き資金力があるとされ、世界第二位の反社会的勢力と言われている。
「その吉竹組は去年、上層部がもめて分裂しているんです」
 確かにそのニュースをテレビの報道や新聞記事で読んだ。夫と仕事の話はしなくとも、さすがにこの件については意見を交わした覚えがある。本家吉竹組と、関東吉竹組に分裂したのだ。
「向島一家はそのどちらにもついていないのですか?」
 藪が大きくうなずいた。
「分裂した吉竹組が和解するのか抗争に発展するのか――両組織のトップに顔がきく向島一家がカギを握っていると言われているの」
 目の前の自動扉があいた。ストレッチャーに乗せられた夫が運ばれてきた。
「賢ちゃん!」
 看護師に呼び止められる。
「これから弾の摘出、下腹部大動脈と損傷した膀胱ぼうこうを再建する緊急手術も同時に行ないます」
 夫は誓のもとに転がり落ちてきたときから、意識がない。いまは血の気もなく顔が真っ白だ。現場は血の海だった。誓は、エスカレーターの隙間に流れていく血が、ごぼごぼと音を立てていたのを思い出した。夫が目の前で撃たれているのに棒立ちでなにもできなかった。
 ――許さない。
 手術室前まで付き添うように言われたが、誓は病院を飛び出した。

 日が暮れかけていた。強い西日が、墨田区にある五右衛門ビルのベージュの壁を焼いている。周辺は野次馬が集まり始めていた。警察車両が十台も入口付近に並んでいるからだ。
 暴力団の事務所はネットで調べればすぐにわかる。組のトップの名前もだ。
 向島春刀というらしい。
 向島一家の事務所はこの五右衛門ビルの六階にあるが、すでに警察官が出入りしている。エレベーター前には制服姿の警察官がいた。非常階段で立ち話する赤と黒のベストをつけたマル暴刑事たちも見えた。ガサ入れ――家宅捜索目前といったところだ。
 刑事がパトカーの無線機に向かって話す声に、耳を澄ませる。
「向島春刀は関東吉竹組の本部にいるようです。ガサはどうします。本人が戻ってからにしますか」