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 関東吉竹組の本部は、六本木にあるいずみビルヂングという古い雑居ビルに入っている。組長の泉が所有するビルだ。誓はタクシーで向かう。その車内で、吉竹組のことを思い出す。誓が退職する前は分裂しておらず日本最大の暴力団として君臨していた。
 旧吉竹組は組長をトップに九千人ほどの組員がいた。組長の下にナンバー2の若頭わかがしら、ナンバー3の本部長をはじめ、直参じきさんと呼ばれる幹部が二十人ほどいる。直参も自分の組を持っていて、二次団体と呼ばれる。向島一家はこの二次団体にあたる。二次団体の幹部たちも組を運営している。三次団体にあたるこれら下部団体は『えだ』ともいわれる。組長と子分は盃を交わすことで疑似親子関係を形成するのがヤクザの特徴だ。
 末端の三次団体組員からすれば、上部団体トップの組長は親の親の親にあたり、まさに雲の上の存在だ。顔を拝むチャンスすらない場合もある。ヤクザ社会は完全なるヒエラルキー構造になっている。
 旧吉竹組を飛び出した関東吉竹組も下部団体がいくつもあるはずだ。組員は何人だろうか――誓はスマホで調べようとして、やめた。知りすぎると腰が引けてしまう。
 タクシーを降り、泉ビルヂングを見上げる。
 向島一家からは東京スカイツリーがよく見えたが、関東吉竹組本部からは東京タワーがよく見えた。最上階の六階に関東吉竹組の本部があるはずだが、看板は出ていない。
 近隣のビルやマンションのどこかに、関東吉竹組を内偵する監視拠点があるだろう。いまのところ警察官や刑事の姿は見えない。
 誓はエレベーターに乗った。上がっている間、階数表示の変化をじっと見ていた。文字が赤いというだけで、夫の血塗れの体を思い出した。一生思い出すだろうと思った。一生許さない、と心に誓う。
 六階に到着した。薄暗い廊下の目の前に扉がある。看板は出ていない。
 誓は扉を乱暴に叩いた。
 オールバックに色付きメガネをかけたチンピラがオラオラと体を揺らしながら扉を開けた。
「どちらのお嬢さんでしょう。フロア間違えてまへんか」
 元は大阪を拠点とする巨大組織の一員だったからか、枝の組は全国にあり、関西系もいるだろう。二次団体、三次団体の組員たちが当番制で上京し、本部を守る。
「ここに向島一家の総長が来てるよね。会わせて」
 チンピラは戸惑ったように頭の先から足の先まで誓を見る。
「お嬢さん、どちらの人や。まずは名乗るのが礼儀やろう」
「警視庁組織犯罪対策部、暴力団対策課の仲野!」
 その妻とまでは言わず、巻き舌で凄んだ。
「ここに向島一家の総長がおるのはわかっとんねんコラァ! 中に入れんかい!」
 誓は大阪育ちだから、興奮すると関西弁が出る。チンピラの胸を両手で思い切りどついて、中に押し入った。狭い玄関のすぐ目の前に革張りのソファとガラステーブルがある。壁に『関東吉竹組』の木彫りの表札が張り付けてある。『吉』の字が笹の葉に囲まれている代紋は、本家吉竹組と全く同じだ。
 表札の下で若手の組員が何事かと立ち上がり、誓を見ている。
「向島は」
 ここにいる連中はみんなひよっこに見える。貫禄のないチンピラばかりだ。
「刑事さんかい。桜の代紋は」
「刑事の妻だ」
「あん?」
「桜の代紋はない。ここに逃げ込んどる向島一家に夫を銃撃されたマル暴刑事の妻や! とっとと向島を出さんか!」
 組員たちは棒立ちだ。誓は六畳もない応接室を突っ切り、奥の扉を勝手に開けた。
「おいコラ令状は!」
「あとでいくらでも出るわ、ボケが!」
 扉の先は廊下だった。両隣に扉が二つずつ並び、突き当たりには重厚そうな扉があった。組長が鎮座する部屋だろう。向島はここの組長ではない。どこの部屋にいるのか。誓は片っ端から扉を開けていった。どこかで犬が吠えている。
 手前右の扉は鍵がかかっていた。舌打ちし、隣の扉を開ける。デスクが四つ並べられ、パソコンになにか入力しているビジネスマンみたいな三人組がいた。誓を睨みつけながら立ち上がる。向島ではなさそうだ。
 向かいの扉を開ける。つなぎ姿の若い男性が床に正座させられていた。左目が大きく腫れあがり、鼻血を垂らしている。ガラスでできた大きな灰皿を持った組員がどやしていた。二人とも若い。向島ではないだろう。その隣の扉を開けようとして――。
 名前を呼ばれた気がした。
 振り返るのと同時に、鎖の音がした。
 光沢のあるグレーのスーツを着た男が、組長室と思しき重厚な扉を背に立っていた。豊かなオールバックの黒髪が廊下の白熱灯に反射して光る。茶色の色付き眼鏡をかけていた。目元がよくわからない。腰ほどの背高があるドーベルマンを従えていた。グレーの目でじっと誓を見据えている。飼い主がゴーサインを出せば、いつでも飛び掛かってきそうだ。チェーンの首輪の先にリードはついていない。男はスーツの左袖の先から、手が出ていなかった。右手はある。
「なんの御用ですか」
 男が静かな声で尋ねた。誓は呼吸を整える。威勢を張らずに会話できる相手だとはわかるが、強烈な存在感で呼吸が止まりそうだった。
「銃撃事件が起きたことは知っている?」
「ええ。先ほど若い衆から電話がありました」
「私は撃たれたマル暴刑事の妻です」
 男はさっと誓の全身を見た。ワンピースのあちこちに夫の血がついたままだ。
「あなたは」
「向島一家総長の、向島春刀です」
 不思議と怒りはわいてこなかった。この男がとても静かだからだろうか。
「夫はお宅を内偵していた。その直後に銀座のデパートで銃撃された。お宅の若い衆の仕業ではないですか」
「知りません。私は命令していませんし、うちの若衆もなにもしていません」
「そんな言い逃れが成立する世界じゃないってわかってるよね。マル暴刑事を襲撃したことを永遠に後悔することになる」
「あなたは警察関係者としてここに来ているのですか。マル暴の妻が暴力団に怒鳴り込みに来るなど、警視庁にとっても迷惑な話かと思いますよ」
「共謀共同正犯!」
 誓は声を張り上げた。
「警視庁は犯人を挙げたら即座にあんたが命令した証拠をかき集めて、ワッパをかける。警官銃撃だから二十年はかたい。ムショから出て来るころにはヨボヨボだ。だからいまのうちにその顔を拝みにきてやったんだ!」
 誓は向島の顎の下で、思い切りメンチを切った。
 向島は誓の横をすり抜けて、応接室の方へ行く。ドーベルマンが誓を一瞥いちべつし、飼い主を追った。
「お帰りください」
 向島が扉を開けた。誓はその横を通り過ぎる際、わざと向島の肩にぶつかってやる。チンピラみたいなことをしたのは、負け惜しみではない。
 腕がどうなっているのか、確かめたかった。
 誓の肩に棒のようなものがぶつかったが、誓の腕や手は向島のわき腹に触れた。
 このヤクザは、左腕の肘から下がないようだ。誓は、父が昔ヤクザをまねて言った言葉を思い出した。
"腕一本落としてこんかいコラァ"
 向島はなにかやらかしたのだろうか。