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 誓は三年ぶりのラッシュアワーに耐えていた。東西線が荒川を越えて、やがて地下に入る。電車は超満員だ。真夏の八月一日にパンツスーツ姿だから暑い。日比谷線に乗り換えて、霞ヶ関駅で下車する。
 朝の桜田通りはスーツ姿の男たちで埋め尽くされていた。女性の数はまだまだ少ない。
 初めて警視庁本部勤務が決まったときのことを誓は覚えている。前日は関西に帰省し、両親の墓前に喜びを報告したものだ。
"お父さんのようなマル暴刑事になるよ"
 警視庁本部庁舎の正面玄関を上がる。通行ゲートを抜けて、エレベーターで六階に上がった。
 組織犯罪対策部は警視庁本部の各フロアにばらばらに入居している。薬物銃器対策課は三階に、国際犯罪対策課は五階にある。
 六階の『暴力団対策課』という真新しい木札が掲げられた部屋に入った。広々としたフロアにデスクのシマが六列並んでいる。
「来たか」
 窓を背にした上座で、ワイシャツ姿の男が立ち上がる。乗鞍警視だ。四月に夫が銃撃された日、暴力団対策課の管理官に就任したばかりだった。
「今日から改めてよろしくお願いします」
 うん、と乗鞍は眉を寄せて頷いた。嬉しさ半分、悲しみ半分といった表情だ。そのまま上座のデスクの前に立たされた。
「みんな、ちょっといいか」
 就業時間前だ。新聞を読んでいたり、おにぎりを頬張ったりしていた刑事たちが、顔を上げる。
「今日付けで暴力団対策課に配属になった、仲野誓巡査部長だ」
 挨拶して、と促される。
「初めましての方もお久しぶりの方もいらっしゃると思いますが、改めまして」
 咳払いを挟んだ。
「このたび警視庁に再採用されました、旧姓桜庭の仲野誓巡査部長です。現場復帰は三年ぶりですが、この三か月間の再採用研修とマル暴研修である程度は取り戻したつもりです。今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げた。夫のことについては、触れなかった。泣いてしまうから。
 拍手はまばらだった。百人分のデスクがあるのだが、内偵や捜査でみんな出払っている。本部に残っているのは、各暴力団担当の連絡係のみだ。
 眼鏡をかけた刑事が手を挙げて、誓を呼んだ。顎に肉がでっぷりとついている。
「仲野さんのデスクは、こちらです」
 第一暴力犯捜査一係の札が天井からぶら下がっている。太った刑事が恭しく椅子を引く。
 夫が座っていた席だ。
 夫の私物が残っている。文房具やファイル、警部昇任試験のテキストも置いてあった。ペン立てに、ボールペンがささっていた。夫のイニシャルが刻まれている。まだ恋人同士だったころ、警部補に昇任したお祝いに誓が贈ったものだった。
 引き出しの中には、はさみやのりの他、クリップやカッターナイフも揃っている。夫が使っていたというだけで、愛しかった。太った丸顔の刑事が遠慮がちに自己紹介してきた。
「私、一係で連絡係をやっている丸田まるたと申します」
 体型とリンクした苗字は覚えやすい。
「ご存じとは思いますが、ここ第一暴力犯捜査は、特別指定暴力団吉竹組系列の組を担当しています。二係と三係が関東吉竹組を、四係が本家吉竹組を担当しています」
 本家より小さい関東吉竹組に人員がさかれているのは、その本部が警視庁管内にあるからだ。本家吉竹組の総本部は大阪にある。大阪府警のシマなので、警視庁は手を出せない。
「我ら一係は、向島一家を担当しています」
 分裂した吉竹組が和解するか抗争に発展するか。いまは独立を保っている向島一家の動きで勢力図が変わると言われている。まるまるひとつの係を投入して内偵しているらしかった。
「それにしても、奥さんには申し訳ない限りです。マル暴刑事を銃撃なんて、本来なら一気に頂上作戦に持ち込める案件です」
 頂上作戦――暴力団の組長や幹部を逮捕・起訴し、組織の壊滅を図ることを言う。
「それが、いまだに向島春刀へのフダ一枚取れない上に、ホンボシも逃走したままで……」
 銃撃事件から三か月経っている。
 警視庁は誰一人、逮捕できていない。
 銃撃犯の素性はわかっている。花岡亨はなおかとおるという四十歳の元ヤクザだ。十年前まで、旧吉竹組の二次団体、大山おおやま産業の構成員だった。組の拠点は名古屋にあったが、解散届を警察に出し、十年前に認定解除されている。花岡も暴力団員としての登録を解除され、大山産業のフロント企業だった産業廃棄物処理業者で働いていた。五年前に退職している。以降の経歴がわかっていない。夫を撃つに至るまでの空白の五年間、いったいどこでなにをしていたのか。
「ご主人、最近のおかげんは……?」
 丸田がいまにも泣き出しそうなので、誓は適当に流した。
「元気にしていますよ。大丈夫です」
 もう二度と、このデスクには座れないだろうが。