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 地下鉄半蔵門線に乗り、曳舟ひきふね駅で下車した。東京スカイツリーに見下ろされながら、駅前の喧騒を抜ける。雑居ビルやマンション、昔ながらの住宅が入り乱れる地域だ。隅田川沿いを走る首都高速道路の高架陸橋を横目に、玉虫色のタイルで装飾された『立山ビル』に入った。築五十年近い五階建て雑居ビルだ。
 一階には豆腐店が入っていたが、潰れた。潰した当人がこのビルのオーナーだ。警視庁に快く監視拠点を提供してくれた。藪は最上階までエレベーターで上がった。非常階段から屋上に出る。
 貯水タンクの向こうから、冷たい風が吹きつける。隅田川がゆったりと流れ、その向こうに浅草の下町が見える。隅田川を背にして、藪は西側の隅っこに置かれた物置小屋の前に立つ。周囲に人の目、尾行の気配がないことを確認し、鍵を開けて中に入った。
「遅いっすよー!」
 部下が口を尖らせる。四・五畳しかない物置小屋の壁に向かってあぐらをかいていた。物置小屋の壁にあけた穴に望遠レンズをはめ込んでいる。
「うわ、くっせぇこの部屋」
 藪は消臭スプレーを撒き、ついでに後輩刑事の頭にもふりかけた。「やめてくださいよもう」と仲野賢治なかのけんじが咳き込む。藪の相棒だ。三十五歳になる。立派に加齢臭がしてきた。
「新妻に嫌われちゃうわよー。まだ二十八だっけ」
「だから早く交代に戻ってって言ったんすよ。三時に待ち合わせしていたのに。奥さん待ちくたびれてますよ」
 賢治はもう帰り準備だ。
「シャネルの香水の新作が今日発売なんです。買ってやろうと思って」
 藪は傍らに積みあがった段ボール箱から缶コーヒーを出し、望遠鏡の前にあぐらをかいた。
「また愛人に貢物?」
「だから、愛人じゃなくて、愛妻です」
 賢治は結婚して三年だ。デパ地下グルメだのブランドものだの花束だの、記念日でもないのに妻に貢ぐ。天然記念物だと藪は思っている。
 賢治が革靴を履きながら報告をあげる。
「向島は今日も十時に事務所に入っています。スーツを着ていたんで、人を迎えるか人に会いに行くかってところですかね」
 藪は望遠レンズをのぞいた。
 立山ビルの屋上からは、一軒家を挟んで北隣にあるベージュ色の五右衛門ビルがよく見える。この六階にある606号室は表札が出ていないが、向島一家という独立系暴力団の事務所だ。二代目総長の向島春刀を筆頭に、構成員が八十人いる指定暴力団だ。
 この道二十年の藪が、いま、最も警戒する暴力団でもある。
「抗争を防ぐためにマル暴は不眠不休で監視しているんだっつーの、あのバカ記者め」
 そういえばと靴ベラを持った賢治が顔を上げる。
「例の画像。手に入ったんですか」
「あ」
 忘れていた。向島春刀の背中に入った刺青いれずみの情報を探っていたのだ。あの記者から提供してもらう予定だった。
 向島春刀は四十六歳の暴力団組長で、左腕がない。暴力団員の指詰めはよくあるが、腕一本落としている組員は、藪が知る限り向島のみだ。なぜ腕を落とすに至ったのかの事情も不明だった。
 向島一家そのものは戦後の下町で誕生した博徒系の暴力団だ。向島は二十歳で盃を交わして正式に構成員となり、先代と養子縁組して向島春刀と名乗るようになった。
 この向島が、特別指定暴力団吉竹組の分裂抗争の鍵を握っている。
 向島は盃を交わすまでの経歴が全くわかっていない。無戸籍児でもあり、出生も謎に包まれている。藪は向島の素性を暴くべく情報を集めていた。
 犯人蔵匿罪で向島が服役していた甲府刑務所の刑務官から、向島が背中に彫っている特異な刺青の情報を掴んだ。彫師を片っ端からあたっていったところ、向島の刺青の写真を持っているというアングラ系記者に行きついたのだ。
 賢治が、「そんなこったろうと思った」とスマホを出す。
「記者からメールもらってます」
 賢治がスマホを藪に突き出した。頼りになる部下だ。
 それにしてもまどろっこしい、と賢治はため息をついた。
「組員の刺青なんて、ひと昔前のマル暴なら、くだんの組員と一緒に飲みに行って、"ちょっと背中見せてくれよ"って言うだけで済んだ話ですよ。もしくは別件で逮捕して"ワレはどこの生まれじゃコラ"と迫るかね」
「ヤクザ映画の見過ぎ」
 藪は釘を刺し、ライターから届いたメールの添付画像を開いた。背筋が粟立つ。
「なにこの刺青」
 血みどろの浮世絵だった。上半身裸のちょんまげの男の傍らに、刃渡り五十センチはありそうな刀が畳に突き刺さっている。ヤクザの刺青といえば桜吹雪や昇り竜、虎や鯉などが人気だ。人物が描かれているものだと水門破りの竜五郎が多い。
「こんな残虐な刺青は初めて見た」
 向島の広い背中にいるちょんまげの男は、血塗れの人間の上半身を足で踏み潰し、顔面の皮を素手で剥いでいた。血塗れの男は頭皮までも剥ぎ取られたのか、毛髪がない。まん丸の目玉を剥いて悶絶している。
「調べました。月岡芳年つきおかよしとしの『英名二十八衆句えいめいにじゆうはつしゆうく』のうちの一枚、『直助権兵衛なおすけごんべえ』と呼ばれる浮世絵ですね」
 直助権兵衛は江戸時代中期の凶悪犯罪者だ。横領や窃盗、一家惨殺事件を起こした末に、市中引き回しの刑を受けて鈴ヶ森で磔の刑にされた。稀代の極悪人として、歌舞伎や狂言に登場する。
「直助権兵衛を背負うのもどうかと思うのに、人を惨殺して顔面の皮を剥いでいる絵なんか、背中に彫ろうと思うかね」
 タトゥーなどは、酔った勢いとか、若気の至りで入れてしまう人もいるが、背中をキャンパスにした刺青となると、筋彫りだけで一年、色を入れるのに二、三年はかかる。
「向島春刀。よほど残忍な奴なんじゃないですか」