仲野誓は銀座の老舗デパートの前で夫を待っていた。時間よりも、隣に立つ妊婦が気になる。
「もう先に帰ってて。お腹に障ったら大変だよ」
彼女は同じ官舎に住む警察官夫人だ。銀座でランチをしていた。夜勤明けの夫と待ち合わせをしていると知るや、「ご挨拶させてよ」とついてきた。
「大丈夫、妊娠中期はむしろ動いた方がいいくらいなんだから。誓ちゃんを溺愛するご主人のお顔を拝んでおきたいしー」
この奥様は詮索好きだ。自宅に招くと勝手に棚を開けて、「有名店のチョコがある」だの「またブランド物のバッグを買ってもらってる」だの羨ましがる。
もう一人、ハスキーボイスの奥さんが妊婦の横に立っている。
「そりゃあ、誓ちゃんの旦那さんの顔を見たい気持ちはわかるけど」
「でしょう~。釣った魚に何年も餌をやり続ける男がこの世に存在するなんてね」
「私は珍しいから見たいんじゃないのよ。うちは夫が同じ部署だし」
ねえ、とハスキーボイスの奥様が誓に親密そうな視線を送る。彼女の夫は組織犯罪対策部の所属で、夫の後輩にあたる。妊婦の奥さんは夫の仕事関係などどうでもよさそうだ。
「うちの旦那に誓ちゃんのご主人の話をしたら、夏には子供が生まれるのにブランド物のプレゼントなんかできるか、って」
「その方が健全よ。ちょっと心配になるもの、貯金できているのかなって」
家計は賢治が管理している。誓は毎月食費とは別におこづかいを五万円もらっていた。余ってしまうので返すと、「エステでもなんでも行けばいいのに」と賢治は言う。
「ご主人のその溺愛っぷりはさ、結局、誓ちゃんに対する負い目だと思うよ」
ハスキーボイスの奥様が、人目を気にしてひっそりと言う。
「誓ちゃんは大阪府警の伝説のマル暴刑事の一人娘でしょ。本部勤務で将来を嘱望されていたって話を夫から聞いたよ」
誓もかつてはマル暴刑事だった。
「マル暴で桜庭誓の名前を知らない人はいなかった。誓ちゃんが"夫を陰ながら支えたいと思います"って退職の挨拶をしたとき、みんな嘆いたとか」
誓の父親は桜庭功という大阪府警のマル暴刑事だった。見た目は怖いが家では優しい父だった。誓はいたずらっ子だったのでよく叱られた。説教の内容が独特のものだった。
"ここがヤクザの家やったら大変やで。なにかやらかしたら指をチョキンや。もっとひどいと、腕一本落としてこんかいコラァってどやされるんや"
父は誓が中学生のときに病死した。専業主婦だった母は会社を経営している友人を頼って誓を連れて上京した。その会社で働きながら、なんとか誓を高校にやってくれた。誓が高校三年生のときに母は交通事故で亡くなった。
誓は十八歳で警視庁に入庁した。二十三歳のときに巡査部長に昇任すると同時に刑事研修を受けて、マル暴刑事となった。所轄署で修業後、晴れて本部に呼ばれて、組織犯罪対策四課に異動した。誓の指導にあたったのが、夫の仲野賢治だった。誓が寿退職するや、賢治は周囲からひんしゅくを買ったらしいが、本人は「伝説のマル暴刑事の娘を娶った」とはしゃいでいた。
夫からメッセージが届いた。もう二階のシャネルの売り場にいるらしい。地下鉄銀座駅直結の出入口から入ったのだろう。誓は適当な理由をつけて、奥様方と別れた。人からあれやこれや羨ましがられるのは苦痛だ。
二階へ行こうとエスカレーターを探していると、賢治からメッセージが入った。
『いまから玄関の方に行くから、待ってて』
誓は賢治のスマホに電話をかけた。夫はコール音なしで電話に出た。
「ごめんね、私が二階に行くよ」
「いや、もう下りエスカレーター乗っちゃったところ」
ちょうど、誓は下りのエスカレーターの前を通りかかった。
「あ、いたいた」
スマホと、見上げた先から、同時に夫の声がした。夫がエスカレーターを下りてくる。誓に手を振っていた。もう買い物を終えた後か、シャネルの小さな紙袋を左手首に下げていた。
誓も手を振り返そうとして、左手から横に走る閃光を見た。なんだろうと思う間もなく、パンという破裂音がする。スマホからは、破裂音が耳をつんざくほどに聞こえてきた。
賢治は隣の上りエスカレーターを振り返り、表情を一変させている。彼が手首から下げたシャネルの袋が大きく揺れるのと同時に、二度目の破裂音がした。賢治は両腕で頭を守るようにして、しゃがみこんだ。右側のガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入る。三度目の破裂音がした。
隣の上りエスカレーターから、夫に向けられた銃口が火を噴いていた。
「賢ちゃん伏せて!」
夫はしゃがみこんでいたが、やがて頭からエスカレーターを転がり落ちてきた。