今月のベスト・ブック

装幀=早川書房デザイン室
装画=草野碧

このやさしき大地
ウィリアム・ケント・クルーガー 著
宇佐川晶子 訳
早川書房
定価 3,300円(税込)

 

 トーヴェ・アルステルダール『忘れたとは言わせない』(染田屋茂訳/KADOKAWA)は、スウェーデン北東部の沿岸地帯を舞台にしたミステリーで、なんとも不思議な味わいの小説だ。まず、男がいる。ある家を訪ねてくる。いや、家の前を通りかかっただけか。はっきりしない。家の中から犬の鳴き声がするので、閉じ込められた犬を助けてやるために家の中に入っていく。で、浴室で惨殺された老人の遺体を発見する。普通に考えれば、どうということもないプロローグだ。誰かが遺体を発見しなければ物語は始まらない。しかしこの男が、14歳のときに少女を拉致殺害したことを自白して、保護施設で育ったウーロフという男で、長らく故郷から離れていたことがすぐに明らかになる。しかも浴室で発見されたのは、ウーロフの父親であったというのだ。なんなのこの出だし。

 で、登場してくるのが、エイラという女性刑事なのだが、認知症初期の母親と、風来坊の兄を持つ女性で、マッチングアプリで一夜の相手を探そうとしたりしている。そういう暗く静かな日々が、物語の背後にあって、妙に気になる。つまり、物語の展開も気になるが、ヒロインも気になって、落ちつかないのだ。訳者あとがきを読むと、本書は3部作の1作で、続刊はすでに刊行ずみとのこと(第3部は来年刊行予定)。ぜひ続けて翻訳してほしい。シリーズの次作では「本書ではさりげなく描写されていた20歳年上の上司GGとのプライベートな関係にも進展があるようだ」というんだけど、おいおい、どんな進展なんだ。実はまだ、何が気になっているのか、私はわかってないのである。その決着をつけるためにも続刊を読みたい。

 油断していたら、あっという間に1か月遅れの紹介になってしまったのが、キャラロライン・B・クーニー『かくて彼女はヘレンとなった』(不二淑子訳/早川書房)。もっと早く読めばよかった。というのは、なかなか面白いからである。

 老人たちが暮らすシニアタウンを舞台にした小説だが、途中からどんどん面白くなるのだ。70代の老女ヘレンが名前を変えて暮らしていることは早い段階から明らかになっているが、彼女が隠したい過去のいきさつが少しずつ語られていくのである。その全貌が徐々にかたちを現してくるにつれて、ぐんぐん物語に引き込まれていく。超ハンサムで、しかし暴力的で、ストーカーで、すごくイヤな男が登場するのだが、その毒牙からヒロインが逃げることが出来るのかどうか、手に汗を握るのである。

 その過去の事件と並行して語られるのが現在の事件で、これがまたヘンな事件だ。しかもそこに絡んでくるのがシニアタウンの老人たち。なんとも不思議な味わいの長編だ。

 今月のラストは、ウィリアム・ケント・クルーガー『このやさしき大地』(宇佐川晶子訳/早川書房)。1932年のアメリカが舞台。第1部では、ネイティブアメリカンの子供たちが集団生活を送る教護院が舞台になるが、わけあって唯一白人の兄弟オディとアルバートもここにいる。まず描かれるのは、その教護院の院長、教師、管理人など、児童を虐待する大人たちと、それに従わざるを得ない子供たちの日々で(このあたりはディケンズふう)、第2部は教護院を脱出して始まる旅の日々だ(このあたりは、ハックルベリー・フィンだ。ちなみに著者の覚書には、『ハックルベリー・フィンの冒険』のアップデート版を最初は意識していたとある)。語り手のオディは12歳、兄のアルバートは16歳。旅に同行するのはスー族の少年モーズと、8歳の少女エミー。めざすは、兄弟のおばが住むセントポール。4人はカヌーに乗ってミシシッピを目指すのである。

 というのが大筋で、旅の途中にさまざまな人と知り合って、そこで多くのことを学んでいくのは、この手の小説の常套通り。正直に書けば、これまで何度も読んできたような話である。しかし、ウィリアム・ケント・クルーガーの小説であるから、その細部は唸るほどうまい。その実例を引用するとキリがないので、各自本書で確認されたい。

 ちょっとミステリアスであることも急いで書いておく。詳しく書くとネタばらしになるので、ちらりと触れる程度で済ませるが、物語に奥行きを作っているのは、そのさりげないスピリチュアルだ。

 あとはこの手の小説の常套ではあるけれど、彼らと、彼らが知り合った人々のその後の人生が、エピローグで余韻たっぷりに語られること。そうか、そうだったのかと、彼らのその後の人生に思いを馳せていくのである。

 最後に1つだけ。ウィリアム・ケント・クルーガーといえば、『ありふれた祈り』という素晴らしい単発作品もあるけれど、元保安官コーク・オコナーを主人公とするシリーズで知られている。このシリーズは第7作の『血の咆哮』までで翻訳がストップしているが、本書の解説(諏訪部浩一)によると、第9作で衝撃の展開を見せるという。シリーズものを読んでいてこれほど驚いた記憶はない、というのだからすごい。ここまで書かれると、その「衝撃の展開」がどういうものなのか知りたくなる。関係各位はぜひとも続刊を検討されるよう望みたい。

 もちろん今月は、『このやさしき大地』に文句なしに◎。