今月のベスト・ブック

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『天使の傷(上・下)』
マイケル・ロボサム 著/越前敏弥 訳
ハヤカワ文庫
(上・下)定価 1,210円(税込)

 

 今月はいきなりいく。マイケル・ロボサム『天使の傷』(越前敏弥訳/ハヤカワ文庫)だ。実はあまり期待せずに読み始めた。前作の『天使と嘘』が超面白小説だったのに、シリーズ第2作の『天使の傷』に期待しなかったのは、M・W・クレイヴン『ブラックサマーの殺人』の例があったからだ。しばらく前の当欄に書いたことなのだが、『ブラックサマーの殺人』は、主人公の刑事ポーが逮捕される場面を冒頭に置いていたのである。これは最後のほうに出てくるシーンなのだが、その一部を冒頭でちらりと紹介し、ほらほら今回はすごい場面がありますよ、と読者の興味を引くテクニックで、こういう構成は他の小説でも時に見られる。珍しい趣向ではない。しかし安直な構成であり、私は好きではない。下品といってもいい。シリーズ第1作『ストーンサークルの殺人』を高く評価していたので、この第2作の趣向には大いに不満。クレイヴンがなぜこんなことをするのか、理解に苦しんだ。もしかすると意外に底が浅い作家なのかも。細部には本質が潜んでいる。そこを除けば面白い小説だったので、とても残念であった。

 シリーズ第1作が傑作であっても、第2作が同様に傑作とは限らないということをクレイヴンに学んだわけだが、ということで、このマイケル・ロボサムにも期待しないほうがいいかと考えていた。ハードルを上げる必要はない。期待しなければ、ダメな場合でもがっかり度合いも少ないだろう。と思って読みはじめたが、いやあ、疑ってすまない。いや、必要以上に期待せず、フラットな気持ちで読もうとしただけで、疑っていたわけではないのだが、ロボサムはクレイヴンと違って本物だ。

 元警視の死体が発見されるのが冒頭。臨床心理士サイラスは、これは自殺ではないと判断する。元警視は、犯人が獄中で死んでいるにもかかわらず、児童連続誘拐殺害事件をずっと調べていたらしい。そこでサイラスも調べ始める――という話で、このサイラスの視点と平行して、「嘘を見抜く少女」イーヴィの視点が交互に挿入されていく。

 そういう構成だが、なぜかイーヴィは追われていて、その緊迫したサスペンスがひりひりと行間からたちあがってくるから、あっという間に一気読みである。途中あたりから、背景にあるのはおそらくこういうことだよなと見当がつくので、その意味での驚きはない。誤解を恐れずに書くならば、それが残酷な現実の写し絵だとしても、またこれかよ、という感もなくもない。しかしそれでも圧倒的なパワーで読ませるのがマイケル・ロボサムだ。まだ語られていないことがあるので、早くシリーズ第3作を読みたい。

 今月の推薦作はこれで決まりだと思うのだが、職務上そういうわけにもいかないので、あと数冊を読むことにする。

 まず、クラム・ラーマン『ロスト・アイデンティティ』(能田優訳/ハーパーBOOKS)。こちらの主人公はジェイ。麻薬の売人だ。で、逮捕されて、2つのことを要求される。ドラッグの元締めサイラスを刑務所に送り込む証拠を提出しろということが1つ。もう1つは、イスラム教徒の過激派グループに接近し、その行動を探れという要求だ。つまりMI5の一員になってテロ対策に協力することを要求されるのである。その要求を呑めば無罪放免するというので、ジェイは仕方なく承諾。と、ここまでは、よくある話といっていい。

 ところがこの先が普通ではない。元締めサイラスの復讐に怯える展開になるとか(巨漢のステイプルズという凶暴な部下がいるのだ)、あるいはいつ正体がバレるのかとはらはらどきどきしたりとか、そういうサスペンスが醸しだされるのだろうと思っていたが、何にもないのだ。ジェイの親友で警察官のイドリス、幼なじみのパルヴェス、そして母親アフィーサとの普通の日常が淡々と描かれるのである。MI5にはローレンスという厭味な男がいて、こいつと揉めるのかと思っていても、そういう展開にもならない。途中から電撃的に恋に落ちる展開になっても、これが進んで物語を変えていく、というふうにもならない。いちばんヘンなのは、全体的には.シリアスな話であるのに、結構ユーモラスであることだ。なんなんだこれ。

 まとまりを欠く物語と言えなくもないが、この作家の次の作品が翻訳されたら絶対に読むような気がする。実は私、さんざん文句を書いたけれど、この小説が結構好きなのである。日本には初紹介の作家で、これがデビュー作。他にどんな作品を書いているのだろうと訳者あとがきを読むと、これはシリーズになっていて、第3作までは刊行されているという。第2作の邦訳も決まっているようだ。ふーん、シリーズか。えっ、シリーズ? いちばん驚いたのは、そのことだ。

 今月は他にも、T・J・ニューマン『フォーリング―墜落―』(吉野弘人訳/早川書房)も読んだけれど、こちらはどうか。機長の家族を人質に取った男が、家族の命を救いたければ飛行機を墜落させろ、と要求してくる物語である。帯には「航空冒険小説の傑作」とあったので、つい手に取ってしまったが、シンプルなのはいいとしても、この作家、見せ方がうまくない。というわけで、今月はロボサムに断然の◎。