今月のベスト・ブック

装幀=K2 写真=Getty Images/Adobe Stock

『暗殺者の献身』(上・下)
マーク・グリーニー 著/伏見威蕃 訳
ハヤカワ文庫
(上・下)定価各1,012円(税込)

 

 ジュリー・クラーク『プエルトリコ行き477便』(久賀美緒訳/二見文庫)は、現在の苦境から逃げたいと思う女性が、互いの人生を交換する物語だ。

 二人が交錯するのは、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港。プエルトリコに向かうクレアと、オークランドに向かうエヴァが、航空券を交換するのである。初対面にもかかわらず、素早く荷物とコートを交換するのは、二人ともに現在から逃げたい理由があり、切迫した事情があったからだ。ここから、事態の進展を描くクレアの「現在」と、どうしてそういうことになったのかを描くエヴァの「過去」が、交互に語られていく。

 互いの人生が入れ替わる小説はこれまでにも多く描かれてきた。その意味では珍しい趣向ではない。しかしこの物語にどんどん引き込まれていくのは、物語の展開がよく、細部がいいからだ。まず最初に大きなアクシデントが発生する。エヴァの乗ったプエルトリコ行き477便が墜落してしまうのである。九十六人の乗客はほぼ絶望と報道される。その便には、クレアの名前の航空チケットで搭乗したエヴァが乗っている。つまり、クレアは死亡したことになるわけだ。

 クレアだけの問題として考えれば、これで事態はよりいい方向になっていくはずだが、ところが、エヴァの携帯電話(いまはクレアが持っている)が鳴り、「すぐに電話しろ」とメッセージ。クレアには夫の暴力から逃れたいとの理由があったことはすでに読者に知らされている。しかしこの段階では、エヴァは何から逃げようとしているのか、読者には知らされていない。その理由と事情がここで浮上してくるわけだ。ようするに、エヴァの窮地が(この段階では具体的には不明ながらも)クレアに引き継がれるのである。

 ここから先に何が起きるのかはネタばらしになるので書けない。上院議員選挙に立候補を予定している大金持ちの暴力夫の魔手からクレアがいかに逃げきるか、スリル満点の物語が始まっていくことになる。

 年間ベストに残るような作品ではないがこれだけ楽しませてくれるなら十分ではないか、という気がする。

 次は、ケイト・クイン『亡国のハントレス』(加藤洋子訳/ハーパーBOOKS)。話は二つだ。まず一つは、終戦直後のアメリカのボストンで、写真家を目指している十歳の娘ジョーダンが、骨董屋を営む父の再婚相手を怪しむ話。何かを隠しているようなのだ。その女性アンネリーゼは、ルースという幼い娘を連れていて、この子がとにかく可愛いから、何事もなければそれにこしたことはないのだが、水面下の不穏な空気が徐々に漏れだしてくる。もう一つは、ドイツ占領下のポーランドで、子供や兵士を殺した残酷な殺人鬼をおいかけるナチハンターの話。このグループ三人は手がかりを追って大西洋を渡ってくる。戦後のボストンで、この二つの話が交錯するのだ。強い印象を残すのは、ナチハンター・グループの一人、ニーナの回想である。彼女は戦争中、ソ連軍の女性パイロットとして活躍するのである。ソ連軍に実在したエース女性パイロット、マリーナ・ラスコーワが物語にもちらり登場しているが、ニーナの回想は空の戦士の成長物語として読みごたえがある。特に、墜落したポーランドで、ドイツ軍兵士と戦う場面が秀逸。こういうアクションがこの作家はうまい。

 文庫版で七〇〇ページを超える大著なので、『戦場のアリス』の作者だと知らずにいたら読むのをためらったかもしれないが、読み始めたら長さは気にならない。今月はこの作品がおすすめか、と思っていたら、マーク・グリーニーの新刊が出た。

 いまさらグリーニーの凄さに驚いていてはいけないが、『暗殺者の献身』(伏見威蕃訳/ハヤカワ文庫)はホントにすごい。今回は最強の敵が登場するのだ。マクシム・アクーロフ。ロシア・マフィアの殺し屋で元スペツナズ隊員。ものすごいシーンが下巻の冒頭近くに出てくるのだが、ネタばらしになるので紹介するのは我慢。ようするにこの男、死のうと思っているのだ。だから死をおそれず、信じられないことをする。グリーニーの素晴らしさは、この衝撃をもっと引っ張ってもいいのに、あっさりとネタを明かすこと。具体的には紹介できないけれど、何のことかは分かっていただけるだろう。

 印象深いシーンがいくつもあるが、ホテル五階のスイートルームにおけるこの死闘が白眉。マクシム・アクーロフの奇想天外な行動だけでなく、ほかの細部もいい。ゾーヤが部屋から突き落とされそうになって窓の外に頭を押し出されたとき、おお、これは書いてもいいだろうか。その直前にコート・ジェントリーの行動を描く部分があるので、こういう展開になるのは予想されることだから、かまわないと判断する。ようするに、窓の外に体を押し出されたゾーヤが横を見ると、ホテルの外壁にジェントリーがへばりついているのだ。二人の目が合う驚きのシーンは、映像で見たい。誰が誰に雇われているのかわからず、それどころか自分の雇い主は誰なのか、目的は何なのか、それもしらずに闘う男たち(ゾーヤもいるから男だけではないが)の息詰まるアクションを、例によって鮮烈に描いている。いやはや、凄まじい。自信の◎。これが冒険小説だ。