今月のベスト・ブック

装幀=石崎健太郎
写真=Alexander Farnsworth/Getty Images

魔術師の匣(上・下)
カミラ・レックバリ/ヘンリック・フェキセウス 著
富山クラーソン陽子 訳
文春文庫
定価 1,210円(税込)

 

 普通に考えれば、構成に難がある小説、ということになるだろうが、しかし私、すごく気にいってしまった。カミラ・レックバリ/ヘンリック・フェキセウス『魔術師の匣』(富山クラーソン陽子訳/文春文庫)の話である。構成に難がある、というのは刑事たちの私生活が必要以上の分量で描かれるからだ。たとえば主役級のミーナは、極端な潔癖性の持ち主という設定だが、この女刑事がメンタリストのヴィンセントに会いに行く冒頭近くのシーンをまず見てみよう。彼が食事をしたいというのでレストランで会うことになるのだが、ウェイターがヴィンセントの前にハンバーガーを置く1秒前に、揚げ油と焼いた肉のにおいを感じ、不吉に思って見ると、マヨネーズとケチャップの入ったボウルに蓋がされていないので思わずぎょっとしてしまう。

「キッチンからここまでの間に、ボウルにだれかが何をしたか分かった物ではない。恐ろしいほど不衛生だ」と、ポケットから消毒液のボトルを取り出して、片方の手のひらにシュッと吹きかけてから、両手にすり込むのである。ほとんど最初のシーンであるから、ミーナという女性刑事の特性を表すための、ちょっとした趣向にすぎないとこの段階ではあまり気にならなかったが、しかし「ちょっとした趣向」ではなかったのだ。

 ゴールデンレトリバーを見ると(このポッセという犬は超可愛いのに)、あの毛の中に何が這い回っているのか、想像すらしたくなかったと思うのだから、いくらなんでも極端すぎる。けっして近づかないようにするのだ。そしてこのヒロインは、早く部屋に帰ってシャワーを浴びて汗の吹き出た体を綺麗にしたいと考えるのである。刑事たちの私生活を描くことで物語の味付けにするパターンは珍しくないが、味つけの範囲を大幅に超えている。他にもたくさんこの手の場面が多いので引用していたらきりがない。この強調はいったい何なのか。私はてっきり、こういうヒロインが犯人と泥だらけの格闘をして、「ふざけんなこのカスが!」とかなんとか、汚れた姿ですっくと立ち上がる姿を夢想してしまったが(つまり、超潔癖性の克服だ)、はたしてそうなるかどうかは読んでのお楽しみ。

 ストックホルム警察特捜班には、このミーナの他に3名。まず好色漢のルーベンはとにかく女性とセックスすることしか考えていない。この男にもそれなりの事情があることは後半になって明らかになるが、捜査会議のときにミーナの体を嘗めるように見るくだりはしつこく何度も繰り返される。これも味つけの範囲を明らかに超えている。捜査会議といえば、三つ子が生まれたばかりのペーデルはその育児に追われて慢性的な睡眠不足。会議ではいつも疲労困憊で眠っているから頼りにならない。大丈夫か、ストックホルム警察。最古参のクリステルはどちらかといえばまともなほうで、ゴールデンリトリバーの世話をミーナに代わってやってあげるなど、こちらは頼りになる。このおやじは希代の読書家で、しかも大のミステリー好き。いちばんのお気に入りは、ハリー・ボッシュ・シリーズだ。この特捜班を仕切るのは、切れ者のユーリア。フィンランドの女性首相を彷彿させる(私だけ?)この女性上司についてはまだ詳しくは描かれていないが、作を追うごとに個性的な素顔が描かれていくだろう。紹介が逆になってしまったが、訳者あとがきによると、これは3部作の1編で、どうやら続刊がありそうなのだ。

 問題は、ミーナを始めとする特捜部の面々のそれらの特徴と事情が、物語には直接の関係がないことだ。彼らの私生活に関する描写を削ると、たぶんこの物語は半分程度になる。それでもストーリーは残るけれど、小説は断じてストーリーではないと思うのはこんなときだ。関係のあることばかり描く小説はつまらない。小説は無駄と寄り道があるから面白いのだ。そのことを久々に教えてくれる小説であった。ようするに、特捜班の連中が愛しいのだ。これに尽きる。

 この小説の内容についてここまでいっさい触れてこなかったことにいま気がついたので、急いで少しだけ書いておく。奇術に見立てた連続殺人事件が起こり、その謎をストックホルム警察特捜班のミーナ刑事と、メンタリストのヴィンセントがコンビを組んで解いていくミステリーだ。カミラ・レックバリは、エリカ&パトリック・シリーズでお馴染みだが、本書は新シリーズの第1作。そうか、ヴィンセントがどういう男であるかを紹介していなかった。もうスペースがないので断念。シリーズ第2作を早く読みたい。

 急いであと2作、アリス・フィーニー『彼は彼女の顔が見えない』(越智睦訳/創元推理文庫)と、ジェローム・ルブリ『魔王の島』(坂田雪子監訳・青木智美訳/文春文庫)を紹介したいが、もうほとんど紙数がない。

 2作ともにヘンな話だ。前者は、倦怠期の夫婦が旅行に出掛けたら大雪で身動きが取れなくなるという話で、夫が相貌失認(相手の顔が認識できない)であるというのがキモ。後者は、祖母の訃報を受けて孤島に渡ったヒロインが、その島の過去を知って驚愕するという第1部を読んで、いやだなあこういう話、好きじゃないんだよなあと読み続けたら、第2部で呆然。なんなんだこの展開。

 しかし今月は、膨大な無駄を貫き通す『魔術師の匣』に◎をつけておきたい。