今月のベスト・ブック

装幀=albireo
写真=Maxine Helfman

『黒き荒野の果て』
S・A・コスビー 著/加賀山卓朗 訳
ハーパーBOOKS
定価 1,210円(税込)

 

 クリスティーナ・スウィーニー=ビアード『男たちを知らない女』(大谷真弓訳/ハヤカワ文庫)は、残念ながら当欄の対象外だろう。男性しか発症しない致死率90%の伝染病に襲われた近未来を描いているので、どう考えてもSFだ。こういう話は大好きなので、なんとか理屈をつけて当欄で出来ないものかと考えたが、やはり無理だと断念。もしもそうなったら世界はどうなるのか、と考えるだけで頭の中がぐるんぐるんしてくる。暴力夫が死ぬかと思ったのに免疫を持っていたのか全然死なず、それで殺意をつのらせる妻の話から、中国が12の独立州にわかれて内戦が始まるといった話まで、世界全体を描いていくから愉しい。同好の士におすすめしておきたい。

 というわけで今月は、クイーム・マクドネル『平凡すぎて殺される』(青木悦子訳/創元推理文庫)から。これは、誤解がもとでギャングから追われることになった無職の青年ポールが、看護師ブリジットと一緒になって逃げまわりつつ、なぜ追われるのかその謎を解いていくお話。バニー・マガリー部長刑事を始めとする個性的なわき役もよく、楽しめる1冊だが、問題は「平凡すぎる顔」というのが少しぴんとこないこと。そんなことは気にせずに愉しめばいいのだが、細かなところにひっかかるタイプなのである。

 そこで、S・A・​コスビー『黒き荒野の果て』(加賀山卓朗訳/ハーパーBOOKS)からやり直し。こちらは、犯罪稼業から足を洗った男が、さまざまな事情からふたたび犯罪稼業に戻っていく長編だ。これまでに何度も書かれてきた話で、その意味では新鮮味はない。粗筋を知って、読むのをやめようかと思ったほどである。しかし訳者あとがきに「古い革袋に新しい葡萄酒」を入れた、とあったので、読んでみた。いやあ、面白い。

 第1は、主人公が凄腕のドライバーであることだ。強盗の逃亡用の車を運転するのが彼の仕事であり、その技術がプロ中のプロ。だから、鮮やかなカーアクションが頻発する。特に、ラストのアクションは素晴らしい。

 第2は、物語がスピーディーに展開すること。最後の仕事がうまくいって無事に引退するというふうに物語が運ぶなら小説にならないので、どこかに齟齬が生じることは容易に想像できる。「信頼できない仲間」が最初から登場するので、その道を進むことを覚悟していると、いくらなんでもその道は取らない。そのストーリーの運びがうまい。第3は、回想を随所に挿入して奥行きを作っていることと、個性的なわき役たちの造形が秀逸であることだ。ようするに、心に残る物語なのである。

 おお、今月はこれで決まりじゃん、と思ったが、念二のためにもう1冊、読んでみた。それが、アレキサンドラ・アンドリューズ『匿名作家は二人もいらない』(大谷瑠璃子訳/ハヤカワ文庫)。

 訳者あとがきに書いてあることなので、ここにも書いてしまうが、「まるで『太陽がいっぱい』へのラヴレターのような作品」だというのだ。ウォール・ストリート・ジャーナル紙がそう書いているというのである。そんなネタばらしをしていいのかよとも思ったが、「多少の先入観があっても本書はおもしろく読めると思うので」と訳者はあとがきに書いている。本当にその通りだ。

 わりと早い時期に、これは『太陽がいっぱい』かな、と浮かんでくるが、それでも本書が面白いのは、当然ながら『太陽がいっぱい』とは同じ道筋を取らないからである。まったく独自の道をスリリングに進んでいく。

 いま突然気がついたのだが、名作『太陽がいっぱい』を知らない読者もいるのではないか。アラン・ドロンが主演した映画(原作はパトリシア・ハイスミス)が日本で公開されたのが1965年。なんと57年も前だ。その原作がわが国に翻訳されたのが、1971年。これではいまや知らない人がいても仕方がないかも。ようするに、無名の若者が金持ちを殺してなりすます話である。

『匿名作家は二人もいらない』の内容をまったく紹介していないことに気づいたので、簡単に触れておく。匿名のベストセラー作家がアシスタントを募集していて、それに応募して採用されたヒロインの話である。このヒロインが作家志望なので、なるほど、『太陽がいっぱい』のように展開するのかな、と浮かんでくるのだ。匿名作家の正体を知っているのはエージェントの1人だけなので、そのエージェントがいなくなれば、ヒロインが匿名作家になりかわっても誰も気がつかない。そういうことになる。

 匿名作家の原稿をタイプで打ち直すときに、ヒロインはところどころ表現を変えて打ってみる。もちろん、それをもう一度、作家が見るわけだが、何か言うかなと身構えていても作家は何も言わないのだ。ここから物語は激しく動き出す。それがどういうふうに動くのかは、それこそネタばらしになるのでここに書けない。まったく予想外の方向に進んでいく、と書くにとどめておく。

 困ってしまったのは、今月の推薦作だ。最初は『黒き荒野の果て』で決定、と思ったのだが、この『匿名作家は2人もいらない』を読むとこちらも捨てがたいのだ。私の理性は後者を選べと囁いているのだが、アクションを選べという感情にしたがって前者に◎。