今月のベスト・ブック

装幀=鈴木久美
写真=makasanaphoto/123RF

『アリスが語らないことは』
ピーター・スワンソン 著/務台夏子 訳
創元推理文庫
定価 1,210円(税込)

 

 ピーター・スワンソン『アリスが語らないことは』(務台夏子訳/創元推理文庫)は、スワンソンの第4長編だ。これまでの『時計仕掛けの恋人』『そしてミランダを殺す』『ケイトが恐れるすべて』という3作はすべて傑作だが、この第4長編も負けず劣らず面白い。そしてこれがいちばん重要なのだが、その面白さには共通のトーンがある。

 それは、「少しだけヘン」であることだ。「微妙にズレている」と言い換えてもいい。ようするに「普通の小説」ならこうなるだろうなという展開の予測を、ほんの少しだけズラしていくのだ。そのズレ具合が絶妙で、なんだか妙に気になる、というのがスワンソンの特徴といっていい。第1作『時計仕掛けの恋人』は、その後の作品に比べると普通に起承転結があってまとまっているが、その後の2作はそういうスワンソンの特徴が全開の作品だったといっていい。

 今度の『アリスが語らないことは』も同様だ。たとえば、全体が400ページあるうちの90ページのところに出てくるシーンなので、ここでも書いてしまうが、母がソファに仰向けになっていて、その胸ががくんと跳ねあがり、口から湿っぽい咳のような音が漏れる。それをアリスが見ているシーンだ。母が死にかけているのだ、と彼女は思う。ところがアリスは何もしない。じっと見ている。そのときのアリスの述懐を引く。

「奇妙な安堵が押し寄せてきた。もうこれ以上見たくなかったが、目をそらすことはできなかった」

 そのあとに「願いがかなった」というアリスの感情の表出が出てくるので、すべて説明されているように錯覚してしまうが、そのとき男が階段からじっと見ていることを付け加えたい。この男とその後もこの件について何も話さないという展開に留意すれば、アリスが何を考えていたかを作者がけっして描いていないことがわかる。周到に避けているといってもいい。

『アリスが語らないことは』のストーリーを何も紹介していないことにいま、気が付いたので、簡単に触れておく。父親の事故死を知って帰郷した大学生のハリーの視点と、父親の後妻アリスの回想で綴られていく物語である。特に、十代の頃のアリスが描かれるパートが圧巻で、素晴らしい。うまいなあ、スワンソン。

 今月の推薦作は、これで決定、という気もするけれど、職務上そういうわけにもいかないだろうから、次は、ナディーン・マティソン『ジグソー・キラー』(堤朝子訳/ハーパーBOOKS)。こちらは、テムズ川で人体の一部が発見されるのが冒頭。遺体には服役中の連続殺人犯〔ジグソー・キラー〕のシンボルが刻まれていて、特捜班のヘンリー警部補がジグゾー事件との関連を調べに刑務所に面会に出掛けていく──という話で、おいおい、またかよと言いたくなってくる。連続殺人犯の手口そっくりな殺人が起こり、服役中の連続殺人犯に面会しにいく、という物語は数多く、まず新味がない。それに650ページを超える物語は長すぎる。

 と、最初に不満を書いてしまったが、それでも読まされてしまうのは、細部が結構いいからだ。主人公は、連続犯罪捜査班のアンジェリカ・ヘンリー。訳者あとがきによると、人種のるつぼと言われるロンドンでも黒人女性の警部補は珍しいという。この小説でも見下した態度でアンジェリカを見る輩が登場したりして、ヒロインは大変だ。

 しかもこのヒロイン、危険な警察官の仕事はやめてくれ、と夫が日々要求してくるし、あまりに忙しくて最愛の娘と過ごす時間がなかなか取れないし、かと思うと上司に口説かれて寝てしまったり、そういう私生活がたっぷりと描かれていく(そういう寄り道を描いていくから、長くなるんだ。いや、そこは面白いんだけど)。

 どうやら特捜班の活躍を描くシリーズの第1作のようで、今回は見習い刑事のラムーターが大活躍するが、まだ活躍していないメンバーもいる。第2作以降も翻訳されれば、おお、こんなに個性的なやつもいたのか、という発見もあるかもしれない。それに特捜班の創設者で故人のライムズがいわくありげで、そのあたりを明らかにする回想編も読みたいと思う。

 今月のラストは、アビール・ムカジー『阿片窟の死(田村義進訳/早川書房)。二十世紀初頭のインドを舞台とするシリーズの第3弾だ。これは、インド帝国警察の英国人警部ウィンダムと、インド人の部長刑事バネルジーが活躍するシリーズで、これまでに『カルカッタの殺人』『マハラジャの葬列』と書かれてきた。どういうわけか尾を引くシリーズで、第1作『カルカッタの殺人』を読んでから新作が翻訳されるたびに読んでいる。

 今回は、ウィンダム警部が例によって阿片窟で阿片の快楽に身をまかせているときに警官に踏み込まれ、あわてて逃げだす場面から始まるが(さすがに今回は、阿片を断つと最後には決意するが本当に大丈夫なのか)、ガンジーやチャンドラ・ボースが登場して反イギリスのデモが吹き荒れるカルカッタの騒乱が物語の前面に出てくるのが異色。これまでの2作に、こんなに政治的な背景が出てきたっけ。次の第4作が楽しみな展開だが、今月は『アリスが語らないことは』に断然の◎。