今月のベスト・ブック

装幀=日髙祐也 写真=Getty Images

『シリア・サンクション』
ドン・ベントレー 著/黒木章人 訳
ハヤカワ文庫
定価 1,386円(税込)

 

 ドン・ベントレー『シリア・サンクション』(黒木章人訳/ハヤカワ文庫)の訳者あとがきに、あのコートランド・ジェントリーが「冷酷な殺人マシーン」とあることに不満を述べておきたい。「言い過ぎかもしれないが」と注釈はつけているものの、これでは彼の立場がない。マーク・グリーニー「グレイマン・シリーズ」の主人公コートランド・ジェントリーは、その第1作『暗殺者グレイマン』から第10作『暗殺者の献身』までを分析すれば、前半5作は孤軍奮闘の物語であり、CIAと和解した後半5作も厳密にはエージェント・ヒーローの枠内にとどまっていない。これが1つ。もう1点は、第1作『暗殺者グレイマン』のラストに留意。ジェントリーが子供に弱い眠狂四郎的ヒーローであることはあのプロットからも明らかだ。さらに最近は、ゾーヤというヒロインを守るための戦いという側面も随所に入り込んできて、すこぶる「人間的な顔」を見せている。とても「冷酷な殺人マシーン」とは言いがたいのだ。『シリア・サンクション』の訳者黒木章人氏もおそらくそのことは十分に承知していると思われる。『シリア・サンクション』の主人公マット・ドレイクが「あくまでひとりの人間であり続ける」ことを主張したいがために、コートランド・ジェントリーのある一面を逆に強調したにすぎない。たしかにそういう面がないではなく、それは私も認めよう。しかし「冷酷な殺人マシーン」と言われると、やはり釈然としないのである。

 だから、というわけではないのだが、この『シリア・サンクション』、ノーラン・フィッツパトリックがカッコよすぎて気になる。特殊作戦部隊の指揮官だが、カッコいいのはいいものの、よすぎると嘘くさくなる。主人公のマット・ドレイクは同じくエージェント・ヒーローでも、フィッツパトリックよりもやや逸脱しているので救いがあるが、背景にフィッツパトリックのようなカッコよすぎる男がいるのかと思うと、すこし気になる。ようするに私、軍人や工作員など任務型ヒーローの物語を好きではないのだ。もっと個人的な匂いが強いほうがいい。

 たとえば、終わり間近の場面を引くのはマナー違反だが、アサド政権に拘束されているCIA要員を救出しに潜入するドレイクが、その救出相手と対面するシーンがあることくらいは紹介してもいいだろう。それからどうするかが、重要なので、それを書かなければ許されると勝手に判断する。主人公のドレイクは、後ろ手に手錠をかけられ、コンクリの床に埋め込まれた輪っかに短い鎖でつながれた状態で意識を取り戻すのである。もちろん、足にも手錠をかけられている。その足は骨折していて、満身創痍だ。ドレイクが目を覚ましたのは、CIA要員が捕らわれている独房である。捕虜となっているCIA要員は警戒の色を帯びた口調で言う。「あんたは誰だ?」。このあとがいい。

「マット・ドレイク。あんたを救い出すためにここにきた」

 おいおい、身動きのとれない状態でそれを言うのか。こういうユーモラスな面があるのもこの小説の特徴で、この手のものでは大変珍しい。アクションの緊度も迫力ももちろん素晴らしいし、一気読みの面白さだ。フィッツパトリックのカッコよさが気になるので、今回は留保をつけるけれども、この面白さと迫力は認めなければならない。この第1作ではまだ決着のついていない面がいくつか残っているので、ぜひとも続刊を読みたい。判断はもう少しあとだ。

 次に手に取ったのが、アメリー・アントワーヌ『ずっとあなたを見ている』(浦崎直樹訳/扶桑社ミステリー)。こちらはフランスミステリーだ。物語は、銀行員のガブリエル、その妻クロエ、写真家の卵エマ、この3人の視点で語られる。冒頭で溺死するクロエの視点がずっと入り続けるので、相当にヘンな小説だが、何なんだこれ、と思っていると、とんでもない展開になっていく。これ以上書いていくとネタばれになりそうなので出来ない。気になる箇所が幾つかあるので、読んだ人と話したい小説だ。

 今月の最後は、サイモン・スカロウ『ベルリンに堕ちる闇』(北野寿美枝訳/ハヤカワ文庫)。1939年のベルリンを舞台にした小説だ。党幹部の妻で、元女優のゲルダが殺されるのが発端。この事件の捜査を、ゲシュタポ局長から命じられたシェンケ警部補がその裏側に潜む真実を探っていく、というミステリーである。このシェンケ警部補が党員ではないことと、元レーシングドライバー(事故で断念して警察官になる)であることが、この小説の雰囲気を伝えている。ようするに、普通の警察官ではないということだ。

 ナチス政権下のドイツで、事件の捜査にあたるという小説は珍しくない。終戦直前のベルリンを舞台にした作品が過去にあり(作品名が思い出せない)、空襲下のベルリンで犯人を捜すのかよ、と思った記憶があるが、この『ベルリンに堕ちる闇』では戦争はまだ始まったばかり。そういうなかで捜査にあたる警察官を読みごたえたっぷりに描いていく。

 だから、これを今月の推薦作にしてもいいのだが、留保付きとはいえ、アクション小説愛好者としてはやっぱり気になるので、『シリア・サンクション』に今月は○印をつけておきたい。