芳晃は沼田弁護士に電話をかけた。もしかしたら、釈放される時間が伝えられているのではないかと思ったのだ。
『はい、沼田です』
「あ、どうも。筒見です」
『あー、はいはい。どうかされましたか?』
「今、港湾警察署なんですが、妻がまだ釈放されないんです」
『そうですか』
「何時になるか、わからないんですか?」
『ええ。こればかりは向こうの判断で、事前に教えてくれないんですよ』
 では、さっきの若い男がすぐに会えたのは、偶然だったのか。
「つまり、ここで待つしかないわけですね?」
『そうですね。筒見さんは、いつからそちらに?』
「九時ぐらいからです」
『それはご苦労様です。受付に、何時に釈放されるか訊いてみましたか?』
「はい。だけど、わからないと言われました」
『ああ、やっぱり』
 彼も警察に不満を抱いている様子ながら、結局は他人事でしかない口振りだ。
 消化不良のまま電話を切り、芳晃は闘志を燃やした。妻が釈放されて、それで終わりにしてなるものか。この事態を招いた者に、必ず責任を取らせるのだ。
 まずは彼女の勤め先と話をつけねばならない。弁護士を雇って役目を果たしたと考えているとすれば、大きな間違いだ。家族がつらい目に遭ったぶん、きっちり償いをしてもらおう。
 難しいのは警察である。不当な逮捕だと訴えたいが、相手は司法制度の一翼を担う存在だ。専門の弁護士でも雇わない限り勝ち目はあるまい。
 それに、事が大きくなると、絵梨が逮捕されたと他に知られてしまう。たとえ無実でも、警察の世話になったというだけで、ひとびとは色眼鏡で見るものだ。
(そうすると、何もできないのか……)
 警察に対しては、泣き寝入りするしかないのか。芳晃はやり切れなかった。
 絵梨はいつまで経っても現れなかった。なかなか進まない時計を何度も確認し、とうとう午後四時を回る。
(本当に夕方まで待たされるのか?)
 こんなことなら、もっと遅くに来ればよかった。
 署員の対応にも腹が立つ。こっちが朝から待っていると、彼らだってわかっているのだ。気を利かせて担当者に連絡を取り、早めに手続きをするよう促したって罰は当たるまい。
 帰りはいつになるかわからないと、沙梨奈には伝えてある。学校へ行くときはちゃんと戸締まりをして、鍵を持って出るようにも言ったから、遅くなっても心配はない。
 だが、今日は久しぶりに親子三人水入らずで、夕飯を食べたかった。
 そのとき、芳晃が通路に目を向けたのは、妻と背格好の似た女性が現れたからである。
(……違ったか)
 年齢も同じぐらいのようながら、まったくの別人だ。一瞬だけもしやと思ったものだから、心臓がバクバクと鼓動を大きくしていた。
 やれやれと肩を落とした芳晃であったが、
「ツツミさん──」
 名前を呼ばれて顔をあげる。それは芳晃に向けられた声ではなかった。女性のあとを追ってきた制服警官が、彼女を呼び止めたのである。
(同じ名前なのか?)
 その女性も釈放されたばかりのようだ。同時期に同姓の女性が拘置されていたというのか。
 ふたりは何やら言葉を交わし、女性がお辞儀をして警官から離れる。こちらに向かってきた彼女は、長椅子の芳晃に目をくれることなく、ポケットから携帯を取り出した。
 芳晃は反射的に立ちあがった。携帯のケースに見覚えがあったからである。
(絵梨のものじゃないか!)
 これは偶然ではない。瞬時に悟った芳晃は、
「筒見絵梨さん?」
 と、抑えた声で呼びかけた。すると、彼女が足を止めて振り返る。こちらを見て、怪訝そうに首をかしげた。
 間違いない。この女が絵梨の名前を騙って逮捕され、勾留されていたのだ。では、本物の絵梨はどこにいるのか。
 頭の中で疑問が渦を巻く。迎えた結末が予想外すぎて、芳晃は混乱した。
「お前、誰だ。どうして絵梨のフリをしているんだ?」
 詰め寄るなり、女の顔が強ばる。身を翻して逃げようとした彼女の手首を素早く掴み、
「逃げるな、おい!」
 声を荒らげ、ぐいと引っ張る。「イヤッ」と悲鳴があがっても、周囲の目に己がどう映るのか、芳晃は考えるゆとりを無くしていた。
「答えろっ! 絵梨はどこにいるんだ!?」
「助けて! 誰かっ」
 女がロビーに響き渡る金切り声を上げる。
「おい、何をしている!」
 怒鳴り声と足音が迫り、芳晃は振り返った。何人もの警官たちが、こちらに向かってくるのが見えた。
 それでも怯まなかったのは、彼らが手を貸してくれると思ったからである。妻の名を騙った女を、一緒になって問い詰めてくれるはずだと。
 ところが、屈強な男たちに拘束されたのは、芳晃のほうだった。
「おい、やめろ。この女を捕まえろ」
 必死に抵抗しても多勢に無勢。女の手首を掴んだ手も、無理やり離されてしまう。
「逃げるな、待てっ」
 正面玄関に向かって駆け出した女に、必死で手を伸ばしても届かなかった。
「あの女を捕まえてくれ。あいつはおれの妻──」
 精一杯訴えても聞き入れられず、芳晃は床に押し倒された。その上に、いくつもの汗くさいからだがのし掛かる。
「やめてくれ、く、苦しい」
 もがけばもがくほど、警官たちは容赦なく体重をかけてきた。こうすることが最善の方法だと教わっているかのごとくに。
 息ができず、声も出なくなる。それでも抵抗したのは、妻の行方を知る唯一の手がかりを逃がすまいとしてであった。
 けれど、折り重なった警官たちの隙間から見えた玄関に、あの女の姿はすでになかった。
(そんな──)
 全身から力が抜ける。抵抗の失せたからだに、いっそうの重みがかけられた。
「ぐはッ」
 激痛が走ったのと同時に、芳晃は絶望の闇に沈んだ。

 

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