ひとりになって楽になり、睡魔が襲ってくる。少し眠ろうかと思ったものの、そのせいで電話に出そびれたらまずい。起きて待っていたほうがいいと判断し、芳晃は脱衣所に向かった。洗濯機を回すためである。
動いていれば眠らずに済むし、気も紛れる。洗濯だけでなく掃除もするつもりだった。
弁護士から電話が来たのは、すべての部屋に掃除機をかけ、洗濯物をベランダに干したあとのことだ。
「はい、筒見です」
『ああ、どうも。私、奥さんの弁護をする、弁護士の沼田と申します』
しゃがれた声からして、高齢のようである。
「お世話になります。あの、妻は──筒見絵梨の様子はいかがでしょうか?」
相手からの報告を待ちきれずに訊ねたものの、
『ええ、元気にしておられましたよ』
呑気な返答に、芳晃は不安を覚えた。短いやり取りだけで、頼りにならなそうな印象を持ったのである。昨晩依頼した大滝弁護士のほうが、ずっと覇気があった。
「妻はいったい、何をしたんですか?」
質問しても、返ってきたのは要領を得ない説明だった。
『いや、何もしていないようですね。たまたま現場にいて巻き込まれたというか、誤解されたというのが奥様の言い分です』
「つまり誤認逮捕なんですか?」
『警察のほうは、そうは考えておらんでしょう』
何があったのか、さっぱりわからない。わざと言葉を濁しているかにも感じられた。
「妻は釈放されるんでしょうか?」
この質問にも、沼田弁護士は『まだわかりませんねえ』と他人事みたいに答えた。
『警察や検察は、逮捕したら起訴しなければならんと躍起になるんですよ。罪がないとわかっても諦めません。被疑者の勾留が認められたら、期間のギリギリまで留め置くんです』
「勾留の期間はどのぐらいなんですか?」
『十日です。但し、十日の延長が可能ですので、最大で二十日になりますね』
芳晃は全身から力が抜けるのを覚えた。つまり、絵梨は三週間も帰れないことになる。
「勾留されずに済む方法はないんですか?」
『そうですねえ。奥様が罪を認めて、証拠隠滅の恐れもないとなれば、勾留する必要はなくなります。ただ、やってもいないことを認めるわけにはいきませんから』
「それはそうでしょうが……」
『私のほうでも、勾留請求を却下するよう働きかけるつもりですが、奥様が逮捕の事由を真っ向から否定しておりますので、期待されないほうがいいですね』
望みがなさげな口振りに苛立つ。弁護士として無能だと認めたにも等しいではないか。
「妻には何の容疑がかかっているんですか?」
『旦那さんは、警察のほうとは話をされたんですよね?』
「ええ、いちおう」
『そのときに、どのような説明を受けましたか?』
「都の迷惑防止条例に違反したと聞きました」
『ああ、なるほど』
詳しい罪状を教えてもらえるのだと思えば、またも予想を覆される。
『奥様が逮捕された理由や状況については、奥様ご自身から旦那さんに話したいそうです』
「え?」
『ですから、私のほうから旦那さんに伝えることは何もありません。奥様のご様子であるとか、釈放の日取りが決まった場合にはご連絡いたしますが』
芳晃はとても信じられなかった。悪い冗談か、からかわれているのかと思った。
「では、妻の容疑というか、何をして逮捕されたのかは教えていただけないのですか?」
『そういうことになります』
「私は絵梨の夫なんですよ」
『私の依頼人は奥様です。弁護士は依頼人の利益を最優先にしなければなりませんので』
芳晃は到底納得できなかった。しかし、教えてほしいと食い下がっても、沼田弁護士は『奥様にお訊ねください』の一点張りだった。
「では、勾留が決定したら、妻と面会ができるんですか?」
『それはわかりません。面会を許すぐらいなら釈放するでしょうし、勾留段階での面会は期待しないほうがいいですね。否認の場合は接見禁止になることが多いんです』
彼はどことなく面倒くさそうな口調で説明する。いい加減終わりにしてもらいたいと、心の声が聞こえてくる気がした。
「沼田さんは、妻の勤務先から雇われたと聞きましたが、間違いないですか?」
『ええ。弁護士費用はそちらからいただきますので、旦那さんはご心配なさらずに』
お金のことが気がかりなのだと、決めつけているフシがある。馬鹿にされているようで、今や芳晃は、沼田に不信感しか抱いていなかった。
「沼田さんを雇った店、あるいは会社かわかりませんが、名前を教えていただけますか」
弁護士が無理なら勤め先に問い合わせようと考えたのである。従業員が逮捕されたのだから、身内に説明する義務があるはずだ。ところが、
『申し訳ありませんが、許可を得ることなく顧客の情報を開示することはできません』
と、けんもほろろの返答をされる。
「でしたら、許可を得てください」
『いちおう確認してみます。しかし、勤め先も奥様から聞けば済むことですから』
悪夢としか言いようのない受け答えに、忍耐が限界に近づく。だが、彼は妻との唯一の架け橋だ。怒鳴りつけて機嫌を損ねようものなら、二度と連絡を寄越さないかもしれない。
(これじゃあ、絵梨を人質に取られているようなものじゃないか)
おまけに、彼女自身も弁護士に何も言わせないなんて、理解に苦しむ。一緒になって何か企んでいるのかと、疑心暗鬼に陥りそうだ。
「では、家のことは心配するなと、妻に伝えてください」
怒りを抑えて依頼する。娘には逮捕された件は話しておらず、親戚の看病でしばらく帰らないと説明したことも伝えると、
『承知しました。まあ、お母さんが逮捕されたと知ったら、お嬢さんはショックを受けるでしょうからね。賢明な判断だと思いますよ』
上から目線の沼田に、これ以上の会話は無駄だと悟った。
「とにかく、よろしくお願いします」
怒鳴りつけたいのを堪え、芳晃は通話を切った。