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 それからの日々は、不安との闘いであった。
 身内が逮捕されて、平然としていられるわけがない。誰だって同じ立場になれば、落ち着かない毎日を過ごすことになるであろう。
 芳晃の場合、弁護士費用といった金銭的な負担がないのは、幸運と言えたかもしれない。けれど、その弁護士が頼りないというか、いっそ信用ならなかった。
 次に連絡が来たのは二日後だ。絵梨と面会した報告であった。そのときも、奥様はお元気ですと述べただけで、取調の状況など訊ねても、残念ながら答えられないと言われた。
 ならばと、芳晃は彼にフルネームを訊ねた。本当にちゃんとした弁護士なのかを確認するためである。彼は至極あっさりと、沼田寛二という名前を教えてくれた。
 芳晃はさらに、逮捕の理由や勤め先を沼田弁護士が話す許可を与えてくれと、妻に伝言を頼んだ。何もわからないままでは、不安が増すばかりだったのだ。
 その返答は、次に電話が来たときに伝えられた。釈放されたら自分で話すから待ってほしいと、絵梨は言ったという。
 どうしてそこまで頑ななのか。妻の身を心配する一方で、芳晃は怒りに近い蟠りも抱いた。娘に嘘をつき、仕事も家事もこなすことで、肉体的にも精神的にも疲弊していたのだ。
 沼田寛二の名前で検索したところ、ちゃんと弁護士会に所属しており、事務所も持っていた。事務所名からして、個人経営のようだ。
 住所もわかったから、そこに赴いて直談判しようかとも考えた。対面すればこちらの苦境が伝わり、善処してくれるのではないかと思ったのである。しかし、電話連絡をしているのにわざわざ訪問するなんて、信用していないのかと怒らせる可能性もあった。
 弁護士との対決は後にして、芳晃は絵梨が働いていたところも探した。彼女の持ち物を漁り、手帳やメモの類いをすべて洗い出したものの、肝腎なことは何ひとつわからなかった。
 スマホになら、勤務先や友人の電話番号が登録してあるはずだ。しかし、それは警察の手にある。証拠品として押収されたのであれば、いくら夫でも渡してくれないだろう。
 こうなったら現地調査しかない。沙梨奈が学校へ行っているあいだに、絵梨が勤めていた場所の最寄りである杉並駅へ、芳晃は向かった。
 駅周辺は店舗とオフィスが半々で、妻と関わりのありそうな店は多くない。最初は虱潰しに当たってみるつもりでいた。
 だが、それはかなり難しいと、現地に到着して気がつく。絵梨は友達の店と言ったけれど、そもそも店かどうかも定かではないのだ。仕事中に逮捕されたのなら、看板を出していない、いかがわしいところの可能性もある。
 ならば、彼女の写真を地元の人間に見せて、訊ねまわるのはどうだろう。警察でもない人間がそんなことをしたら怪しまれるから、夫婦で撮った写真を出して、妻を捜していると言えば同情を買い、教えてもらえるかもしれない。
 あれこれ方策を練ったものの、結局何もできないまま、芳晃は帰路についた。
 だいたい、そこまでしなくても、いずれ絵梨は釈放されるのだ。余計なことをして、あそこの旦那が奥さんに逃げられたなんて噂が立ち、それが沙梨奈の耳に入っても困る。
 ここは勾留期間が十日で終わるよう祈るしかない。ところが、明日はいよいよ釈放かという日に、沼田弁護士から勾留が延長されたと電話があった。
「何もやっていないのに、どうして延長されるんですか?」
 落胆が苛立ちを呼び、芳晃は突っかかるように訊ねた。
『前にも申し上げましたが、彼らは逮捕したら起訴に持ち込みたいんですよ。ですから、勾留する明らかな理由がなくても、容疑者を期限ギリギリまで留め置くんです』
「だけど、勾留を請求するのは検察官で、決定は裁判官ですよね? 裁判官が必要ないと判断しないんですか?」
 調べた知識を披露しても、返ってきたのは人を食ったような言い分であった。
『所詮役目が異なるだけで、彼らはお仲間ですから。同じ穴のムジナってことですよ』
 芳晃は、この国の司法制度を信頼していた。警察にも悪い印象など抱くことなく、何かのときには頼りになる存在だと認めていた。ところが、妻が逮捕され、理不尽としか言いようのない扱いを受けたことで不信感が募り、怒りを覚えるようになった。
(警察官が市民の平和を守るなんて、嘘っぱちじゃないか)
 もはや何も信じられなくなりそうだ。
『とにかく、あと十日の辛抱です。そもそも犯罪の証拠がないまま起訴をするのは無理なんですから、勾留期間が終われば必ず釈放されますよ』
 沼田の言葉に縋る以外、路はなかった。
「ママが帰るまで、まだしばらくかかるみたいだよ」
 その日の夕食で、芳晃は沙梨奈に伝えた。
「そう」
 素っ気ない相槌を打ちながらも、彼女の眉間に浅いシワができる。いくら反抗期でも、ずっと母親の顔を見ていないから、さすがに寂しいのではないか。
「パパは、ママと電話してるの?」
 質問され、ドキッとする。
「ああ、たまにね。ただ、こっちからは電話ができないんだ」
「どうして?」
「ママはずっと病院にいるからさ。病院内は携帯禁止だからね」
 かつてはそうだったが、今はそこまで厳しくない。使用禁止のエリアこそあっても、その他の場所ではマナーを守れば許されている。その点を突っ込まれないかと危ぶんだものの、中学生の少女は素直に「そうなんだ」と納得した。
「何なら、沙梨奈がいるときに電話するよう、ママに伝えようか?」
 実現できないことを持ちかけたのは、逮捕勾留されているのを悟らせないためである。それに、どうせ拒むだろうとも予想した。
「べつにいいよ」
 案の定、沙梨奈がかぶりを振る。芳晃は胸を撫で下ろした。
「パパだけじゃ行き届かないところもあるだろうけど、もうちょっと我慢してくれ」
 不自由はさせていなくても、女親がいないと細かい配慮ができないところもあろう。だから気遣ったのであるが、
「ううん。わたしは大丈夫」
 沙梨奈はカレーライスを口に入れると、満足げな笑みを浮かべて言った。
「それに、パパが作るご飯のほうが美味しいもん」
 芳晃は涙ぐみそうになった。心労が重なっていたものだから、愛娘の優しい言葉が胸に深く沁みたのである。
(沙梨奈のためにも、早く帰ってこいよ……絵梨)
 妻への情愛も募る。もっとも、いつもこうではない。こんな事態を引き起こし、尚かつ弁護士に説明をさせないものだから、怒りを抱くこともあった。好悪は日々変化し、もう知るものかと荒んだ気持ちになるときもあれば、帰ってきたら抱きしめてやりたいと、愛しさにも駆られるのである。
 様々な感情に苛まれながら、芳晃は時間をやり過ごした。一日がやたらと長く感じられ、不安から逃れるために、芳晃は掃除や洗濯などの家事に没頭した。
 普段はしないガラス磨きに精を出し、コンロの油汚れも徹底的に落とす。ベッドカバーやカーテンも洗濯した。帰宅した妻が部屋を見て、どこもかしこも綺麗になっていることに驚く顔を思い浮かべると、少しは愉快な気分になれた。

 

「いっそこの手で殺せたら」(8/10)は、9月1日に公開予定