(事件や事故でないとすると、何があったんだ?)
 家出、失踪といった単語が頭に浮かぶ。だが、夫婦仲に問題はなかったし、絵梨は娘に反抗されて気に病むようなタイプではない。だとすると、他に何が考えられるだろう。
「奥様に、普段と変わった様子はありませんでしたか?」
 宮永巡査の質問に、芳晃はギョッとした。胸の内を見透かされた気がしたのだ。
「いえ、特には……」
「仕事に出られる前のご様子はいかがでしたか?」
「それはちょっとわからないんです。私は在宅で仕事をしていまして、生活が不規則なものですから。今日も昼近くまで寝ていたので、起きたのは妻が出勤したあとでした」
 丁寧に説明すると、若い警官がなるほどというふうにうなずく。
「奥様のお仕事は何ですか?」
「友達の店を手伝っていると聞いています」
 詳しくは知らないことを匂わせると、「そうですか」と相槌を打たれる。芳晃は次第に肩身が狭くなってきた。それもこれも、絵梨が帰ってこないせいなのだ。
(まったく、何をやってるんだよ)
 心配や不安が、苛立ちに取って代わる。実は友達と会って話し込んでいたなどと、気の抜けるような結果に終わるのではないかと思えてきた。
 プルルルルル──。
 電話の着信音が大きく響き、心臓がとまりそうになる。宮永巡査はすぐさま受話器を取った。
「駅前交番の宮永です。はい……わかりました……はい。生活安全課の小柴刑事ですね」
 電話の応答に、芳晃は動悸を乱した。
(刑事ってことは、やっぱり事件に──)
 不安がぶり返す。何があったのか、受話器を奪って問い詰めたい衝動に駆られた。
「了解しました。では、そのように伝えます」
 受話器を置いた宮永が、眉間にシワを刻む。芳晃に向き直ると、
「奥様は、杉並警察署におられます」
 どことなく機械的な口調で告げた。
「何か事件に巻き込まれたんですか?」
 前のめり気味に確認すると、彼はノートに目を落とした。
「詳しくは、杉並警察署の生活安全課にお訊ねください。小柴が担当ですので、そちらから説明があると思います」
 さっきまでと異なり、市民に寄り添う態度を示さない。いっそ余所余所しいぐらいだ。
「杉並警察署の電話番号をお教えしましょうか?」
 問いかけが、やけに遠くから聞こえる。芳晃は「お願いします」と、掠れ声で答えた。
 宮永巡査はメモ用紙に警察署の電話番号と、「生活安全課 小柴」と書いて寄越した。
「こちらは代表番号ですので、生活安全課の小柴に繋いでもらってください。用件を伝えれば、可能な範囲で事情をお伝えできると思います」
 可能な範囲とはどういうことなのか。事件の被害者であれば、そんな言い方はしないはずだ。
 つまり、絵梨が何か罪を犯したというのか。
(いや、あいつに限って、そんなことをするはずがない)
 模範的な人間とは言えずとも、ごくごく普通の市民である。悪事に手を染めるとは考えられない。仮に嫌疑をかけられたのだとしても、何かの間違いに決まっている。
「大丈夫ですか?」
 芳晃はメモ用紙を手にしたまま、しばらく固まっていたようだ。宮永に声をかけられ、ようやく我に返る。
「あ──ああ、はい」
「それでは、奥様の件、あとはよろしいですね?」
「はい……ありがとうございました」
「気をつけてお帰りください」
 芳晃は追い立てられるみたいに交番を出た。
(何をやったんだ、絵梨は?)
 誤解で警察の世話になったのだとしても、何もせずにそんな目には遭うまい。行動に怪しいところがあったために、見咎められたのではないか。
 望みがあるとすれば、問い合わせ先が生活安全課という点である。警察組織に詳しくはないが、名前からして傷害や窃盗など、凶悪犯罪を扱うところではなさそうだ。
(きっと大したことじゃないのさ)
 自らに言い聞かせ、芳晃は駅前の小さな広場に移動した。隅っこで携帯を取り出し、さっそく警察署に電話をかける。
『はい、杉並警察署です』
「あ──わ、私、筒見と申します。妻の筒見絵梨の件で、生活安全課の小柴さんにお伺いしたいのですが」
『承知しました。お繋ぎしますので、少々お待ちください』
 慣れたふうに取り次がれ、芳晃は安堵した。こんな問い合わせは日に何件もあるのだろう。
(そうさ。べつに特別なことじゃないんだ)
 日常の中で起こった、些細な出来事に過ぎない。保留のメロディを耳にしながら、いくらか気持ちが穏やかになる。
『はい。生活安全課、小柴です』
 保留音が消え、担当者が出る。携帯を耳に当てなくても聞こえる大きな声であった。
「筒見と申しますが、筒見絵梨の件で」
『ああ、はいはい。お身内の方ですか?』
「筒見絵梨の夫です」
『ご主人ですか。筒見絵梨さんは、こちらで身柄を預かっております』
「預かるというのは、いったいどういう──」
『率直に申し上げれば、逮捕したということです』
 そうであってほしくなかった現実を突きつけられ、からだから力が抜ける。崩れそうになる膝を、芳晃はどうにか真っ直ぐに保った。
「……絵梨は何をしたんでしょうか?」
『まだ取調中でして、詳しくはお伝えできませんが、都の迷惑防止条例に違反した容疑がかかっております』
 そんなことでと言いそうになり、芳晃は口をつぐんだ。迷惑防止条例がどのような行為を禁止しているのか詳しく知らず、軽微な行いで逮捕されたように感じられたのである。
「あの……いつぐらいに釈放になりますか?」
『わかりません。容疑が固まって立件、起訴されれば、相応の期間になるでしょう』
「本人と面会はできないんですか?」
『取調のあいだは、弁護士しか接見できません。必要があれば弁護人を依頼してください』
 小柴という刑事は、声の大きさそのままに尊大な話しぶりだった。説明も曖昧だし、家族が逮捕された者の心情など、少しも慮っていないふうである。
「弁護士というのは、どちらに依頼すればよろしいんですか?」
 諍いとは無縁の生活を送ってきたのだ。弁護士の世話になったことは一度として無く、どこに連絡すればいいのかなんて知らなかった。
『警察は、そこまでの面倒は見られません。ご自身でお探しください』
 冷たくあしらわれて、さすがにイラッとする。
「では、弁護士を頼んで、小柴さんのところに行っていただければいいんですか?」
『どう対処するかは、弁護士ならわかるはずですが』
「そうですか……」
『あとはよろしいですか?』
 面倒くさそうに訊ねられ、芳晃は藁にも縋る思いで問いかけた。
「あの、せめて本人と電話で話すことはできませんか?」
『無理です』
 きっぱりと返されるなり、情けなさが募る。
『では、これで失礼します』
 電話が無情にも切られ、芳晃は著しい脱力感を覚えた。しばらくは何も考えられず、茫然とその場に立ち尽くした。