自宅に戻っても、絵梨はまだ帰っていなかった。
(おかしいな……)
携帯に電話をしても繋がらない。さっきは帰宅途中かもと考えたが、職場からここまで、それほど時間はかからないはずだ。もしかしたら、事件や事故に巻き込まれたのか。
沙梨奈は、母親の不在を気にする様子がない。口うるさい人間がいないのを幸いと、再びテレビの前に陣取った。宿題に取りかかるのは、まだ先になりそうだ。
芳晃が娘に注意をしなかったのは、不吉な予感を覚えたためである。おとなしくテレビを観ていてくれと願い、自室に入ってどうすべきかと考える。
勤務先に連絡して、帰宅したかどうか確認したかった。しかし、妻がどこでどんな仕事をしているのか、芳晃は知らない。友達の店を手伝うとしか聞いていないのだ。口振りからして、アルバイトに毛の生えた仕事という印象だった。
どういう友達なのか、どんな店なのか問い質さなかったのは、妻の交友関係を詮索することに遠慮した部分もあった。普段はお喋りな彼女が、仕事については自ら話そうとしなかったし、女同士のことに首を突っ込むのもためらわれた。
知り合いに聞いたところ、夫婦だから互いのことをすべて話すわけではないらしい。パートナーの勤務先を知らない者もいたし、興味がないと言い放った妻帯者もいた。
芳晃は、絵梨がどこで何をしているのか、いちおう気になっていた。けれど、年齢差がネックになって、確認できなかったところがある。
教職時代、芳晃は生徒たちが夢中になっている流行りものとは距離を置いた。無理して話を合わせていると思われたくなかったし、大人として迎合できないという自負もあった。
それと似た感覚を、絵梨に対しても抱いていた。こちらがずっと年上であるがゆえに、鷹揚なところを見せたかったのだ。働き出して数ヶ月しか経っていないし、いずれ教えてくれるだろうと心配事を先送りにしていた。
女友達ではなく男のところにいたらとか、怪しい商売に関わっているのではないかといった疑念は持たなかった。妻を信じていたからである。
結婚して十四年経っても、彼女は新婚時代と変わらぬ愛情表現を示してくれる。すぐに手を握りたがるし、キスもせがむ。愛されているとわかるから、裏切られるはずがない。
それでも、職場の連絡先ぐらい確認しておくべきだった。悔やみながら、もう一度電話をかけても結果は同じ。芳晃はいても立ってもいられなくなった。
「ちょっとコンビニに行ってくる」
テレビを観ている沙梨奈に告げて、急いで出かける。向かった先は、最寄り駅近くの交番であった。直ちに捜索してもらえないかもしれないが、事件や事故が起きていないかぐらいはわかるだろう。
普段はパトロール中の札が出ていて不在のことが多いのに、幸いにも警官の姿があった。
「すみません」
声をかけると、デスクにいた警官が立ちあがる。おそらく二十代で、まだ初々しい。
「はい、何でしょうか?」
「実は、妻が帰宅しないんです。携帯も繋がらないものですから、事故にでも遭ったのではないかと心配で、こちらで何かわかればと思って参りました」
「そうですか、了解いたしました。とりあえずお話を伺いますので、こちらに坐っていただけますか」
パイプ椅子を勧められ、芳晃は腰掛けた。そのうち帰ってくるでしょうなどと、冷たくあしらわれることも予想していたから、話を聞いてもらえそうでホッとする。
若い警官はノートを机上に広げ、ボールペンを手にした。
「まずは旦那さんのお名前とご住所を教えていただけますか」
芳晃は住所とマンション名、氏名を述べた。
「奥様のお名前は?」
「絵梨です。絵画の絵に、果物の梨で絵梨です」
警官はうなずきながらフルネームをメモした。
「普段は何時頃のお帰りなんですか?」
「中学生の子供がおりますので、夕方の六時前には必ず帰ります。遅くなるときもありましたが、その場合はちゃんと連絡を寄越しました」
「六時……もう二時間は経ってますね」
腕時計を確認し、彼が眉をひそめる。事件性があるかどうか、判断に迷っている様子だ。
「奥様のお勤め先は?」
「杉並駅の近くです」
「所轄は杉並警察署ですね。では、ちょっと確認します」
警官は机上の電話の受話器を取ると、壁に貼った番号表を見ながらプッシュした。相手はすぐに出たようである。
「こちら××署××駅前交番の宮永巡査です。たった今、奥様が仕事先から帰らないという男性が見えまして、事件か事故に遭った可能性がないか、調べていただけないかということなんですが──」
彼は芳晃の住所と氏名、絵梨の名前も伝えてから、送話口を手で塞いだ。
「すみません。奥様の年齢は?」
「三十六です」
「三十六歳です。杉並駅の近くで勤めているとのことですが……はい……はい──あ、特に事件や事故の報告は入っていないと」
芳晃は胸を撫で下ろした。最悪の事態は免れたようである。
宮永と名乗った警官は、さらに先方と言葉を交わし、一旦受話器を置いた。
「いちおう各部署に問い合わせてみるとのことですので、しばらくお待ちいただけますか?」
「ああ、はい。わかりました」
うなずいて、居住まいを正した芳晃であったが、ふと胸騒ぎを覚えた。