第一章 妻
1
 筒見芳晃が仕事の打ち合わせから帰宅すると、娘の沙梨奈がリビングでテレビを観ていた。
「おかえり」
 彼女は四十インチの画面から一瞬だけ視線を外し、父親を迎えた。
「ただいま。ママは?」
「知らない」
 まだ帰っていないらしい。芳晃は眉をひそめた。
 沙梨奈は中学一年生で、すでに反抗期を迎えている。とは言え、その対象はもっぱら母親の絵梨だ。ふたりがぶつかるところを、彼は毎日のように目撃していた。
 ところが、父親に対しては以前と変わらぬままだ。恐れられているわけではなく、彼女から話しかけてくるときには、決まって愛らしい笑顔を見せてくれる。
『理不尽だわ』
 父親と母親で態度の異なる娘に、絵梨が不機嫌をあらわにしたことがある。彼女は文字通りに沙梨奈を溺愛したし、甲斐甲斐しく世話を焼いてきたのだ。なのに、恩を仇で返すような振る舞いをされ、我慢できなかったのだろう。
『そりゃ、あなたはいいわよ。沙梨奈のご機嫌を取るだけなんだもの。わたしはいつも憎まれ役で、だから沙梨奈はわたしにだけ反抗するのよ』
 愚痴られても、芳晃は黙っていた。娘のご機嫌など取ったことはなく、反論ならいくらでもできたにもかかわらず。
 絵梨とは十歳も離れている。結婚したのは、彼女が二十二歳のときだ。
 そのため、納得し難いことを言われても、しょうがないと諦めてしまうことがままあった。これは、高校で教鞭を執っていた過去とも関係しているのか。絵梨は最初に担任した生徒よりも若く、もう三十代の半ばを過ぎているのに、子供っぽく感じられた。
 いや、単なる印象ではない。彼女は未だに大人になりきれていないところがある。反抗期の娘と同じレベルで口論をし、ときに言い負かされることもあったのだから。
 絵梨は家でじっとしているのを好まなかった。友達と会うとか服を買いに行くとか、何かと理由をつけては外出したがった。以前は週三日ほどパートタイマーをしていたのも、家計のためではなく気晴らしみたいなものであった。
 沙梨奈が中学生になり、彼女は勤め先を変えた。休日以外は家を空けるようになったが、芳晃は反対しなかった。そのほうが好都合だったからだ。
 彼は教職を辞して、在宅の仕事をしていた。3LDKの賃貸マンションは、家族三人で暮らすには充分でも、家に誰もいないほうが仕事に集中できる。
 だからと言って、遅くなることまでは許していない。
(まだ帰ってないって、仕事が終わらないのか?)
 芳晃はリビングの時計を見あげた。すでに午後七時近い。いつもなら絵梨はキッチンに立って、夕食の準備を終えている頃である。
 帰りが遅くなるのは、今日が初めてではない。けれど、そのときは夫に連絡をして、沙梨奈や家のことを頼んだ。
(打ち合わせで出かけるって言っておいたから、頼んでも間に合わないと思ったのかな?)
 だったら尚のこと、遅くならないようにするべきなのに。
 芳晃は自室に入ると、絵梨の携帯に電話をかけた。ところが呼び出し音が鳴らず、電源が入っていないか電波の届かないところに云々と、味気ないメッセージが流れるのみであった。
 妻の勤め先は、電車で二十分ほどのところである。駅から近いと聞いているし、都内で電波が届かないなんてことはあるまい。あるいはバッテリーが切れたのか。
 芳晃はリビングに戻ると、沙梨奈に提案した。
「今夜は外で食べよう」
「え、ママは?」
「仕事で遅くなるんじゃないかな」
「ん……わかった」
 彼女はテレビを観ていたかったようであるが、素直に出かける準備をした。
「どこへ行くの?」
「どこったって、この近くだとあそこしかないだろ」
「ああ、おそば屋さんね」
 ちょっと不満げに口許を歪めたのは、洋食のほうがよかったからだろう。パスタとかピザとか、まだ子供だからそういうものを好むのだ。
 ここはいちおう二十三区内でも、西側のはずれに位置する静かな住宅街である。歩いて行ける距離にある食べ物屋は限られていた。
「宿題は終わったのか?」
 道すがら、父親らしく訊ねたのは、娘とふたりだけの照れくささを誤魔化すためもあった。
「帰ってからするよ」
 答えたものの、テレビを観て、遅くなってから始めるに違いない。いつもそうなのだ。
 そば屋までは、徒歩で五分とかからない。テーブルの他に座敷もある店内は、夕食どきということで席が半分以上埋まっている。芳晃たちは隅っこのテーブル席に着いた。
「ええと、カレー南蛮をください」
 メニューをざっと眺めたあと、沙梨奈は迷うことなく、いつもと同じものを頼んだ。
「おそばとおうどん、どちらになさいますか?」
「うどんでお願いします」
 芳晃は天ざると、焼酎のそば湯割りも頼んだ。連絡もせずに遅くなった妻への苛立ちもあって、飲みたくなったのである。
「お酒って美味しいの?」
 先に出されたそば湯割りに口をつけたところで、沙梨奈が率直な質問をする。
「美味しくなかったら飲まないよ。どんな味か知りたかったら、二十歳になったら自分で確かめればいいさ」
「でも、飲んで不味かったらソンだし、前もって知っておいたほうがいいじゃない」
 十代らしい真っ直ぐな理屈に、芳晃は頬を緩めた。
「今、パパが飲んでいるのは焼酎をそば湯で割ったものだけど、これを美味しいと思うようになったのは、三十歳を過ぎてからだね」
「じゃあ、それまでは不味かったの?」
「少なくとも、美味しいとは思わなかったな。ていうか、そもそも飲む気にすらならなかったよ。そばだって、美味しいものとそうでないものがわかるようになったのは、やっぱり三十歳よりもあとだったし」
「じゃあ、パパが最初に飲んだお酒って何?」
「ビールだね。それだって、最初は苦いだけだったけど、飲んでいるうちに美味しいと感じるようになったんだよ」
「つまり、慣れたってこと?」
「んー、それもあるかもしれないな」
 娘の疑問に答えながら、芳晃は少し心配になってきた。
(この子は、酒を飲んでみたくなってるんだろうか)
 中学生にもなれば、大人がすることに興味を抱くのは自然である。だが、できればもうしばらく、あどけない少女のままでいてもらいたい。父親としての偽らざる気持ちであった。
「お待たせいたしました。カレー南蛮うどんになります」
 沙梨奈の注文したものが、先に運ばれてきた。
「さ、食べなさい」
「うん」
 彼女は割り箸を手にすると、カレー南蛮につきもののネギを横によけた。
「好き嫌いをするんじゃないぞ」
 親の務めとして注意すると、渋い顔を見せる。と、一転、甘えるような笑顔を見せ、
「パパが食べて」
 おねだりの口調で言った。
「ネギもお酒と一緒だよ」
「え?」
「本当は美味しいってわかるのは、大人になってからなのさ」
 これに、沙梨奈はきょとんとしたものの、父親の発言の意図を察したらしい。子供扱いされたことに頬をふくらませ、反論しようと口を開きかけたものの、
「あ、そっか」
 何かを閃いたふうに、満足げな笑みをこぼした。
「わたしはまだコドモだから、ネギを食べなくてもいいんだよね」
 逆手に取った屁理屈に、芳晃はあきれた。それでも、自ら子供であると宣言した愛娘に、安心したのも確かである。
「そう言えば、次の本はいつ出るの?」
 だしが飛ばないように注意深く麺をすすった沙梨奈が、思い出したように訊ねる。
「まだ決まってないよ。今日は打ち合わせをしてきただけで、これから内容を詰めなくちゃいけないんだ」
 教育関係の本を書く仕事をしていると、彼女には説明してあった。以前は教職にあったことも話している。
「わたしも将来は、パパみたいな仕事がいいかなあ」
「パパみたいって、学校の先生か?」
「無理むり。そんなにアタマよくないもん」
「じゃあ、本を書く仕事?」
「んー、難しいのは書けないけど、お話を作るのは好きだし」
 どうやら小説家をイメージしているようだ。
「だったら、本をたくさん読まなくちゃ。でないと、自分でも書けるようにならないよ」
「そうなの? でも、本って読んでると眠くなっちゃうんだよね」
 素直に打ち明けられ、芳晃は苦笑した。
「どうして本を書く仕事がいいんだ?」
 質問に、またも子供っぽい答えが返される。
「だって、ずっと家にいられるじゃない。寝坊しても叱られないし」
 宵っ張りで朝も起きてこない父親が羨ましいらしい。芳晃はやれやれと肩をすくめた。

 

「いっそこの手で殺せたら」(2/10)は、8月26日に公開予定