いよいよ勾留期限を迎える前日の昼過ぎに、沼田弁護士から連絡があった。
『奥様は、明日釈放されます』
芳晃は全身の力が抜けるのを覚えた。
「あ──ありがとうございます」
礼を述べるなり、瞼の裏が熱くなる。弁護士のくせに役に立たないと恨んだこともあったのに、感謝の思いが溢れ出た。不安と緊張が一気に解けた反動だったのだろう。
『それで、私が奥様をお迎えに上がってもいいのですが、もしも旦那さんがご自分で行かれるというのであれば──』
「私が迎えに行きます」
沼田の言葉を遮り、芳晃は前のめり気味に告げた。一刻も早く会いたかったし、訊きたいことが山ほどあったのだ。
『承知しました。では、そうしてください』
「何か手続きとか、必要なものはありますか?」
『いいえ、何もありません。奥様が出てこられたら、一緒にお帰りください』
「釈放されるのは、何時頃なんですか?」
『あー、わかりませんねえ』
この返答に、芳晃は眉をひそめた。
「え、わからないというのは?」
『何時に出るというのは、すべて向こうの判断と都合になりますので、こちらには一切教えてもらえないんですよ』
そんな無責任な話があるかと、芳晃は腹が立った。釈放されるのだから、犯罪の証拠がなかったわけである。責任者がきちんと連絡して、迷惑をかけたと詫びるべきところなのに。
とは言え、無実の人間を意味なく勾留し続けるような連中だ。過去の冤罪事件でも、型どおりの謝罪会見で幕を引いていたではないか。担当した刑事や検事が責任を取ることもなく。
「そうすると、早朝に釈放されることもあるんですか?」
『まあ、手続きもありますので、それはないでしょう。私の知っている限りでは昼前とか、日が暮れてからということもありました』
どうやら早めに警察署を訪れて、あとは待つしかないらしい。どこまで振り回されねばならないのかと、やるせなくなる。
「わかりました。では、早めに杉並警察署へ行くことにします」
『え、杉並?』
沼田が怪訝そうに訊き返したものだから、芳晃は戸惑った。
「妻は杉並警察署に逮捕されたんですよね?」
『それはそうなんですが、拘置施設の関係で、港湾警察署のほうに移送されてるんですよ』
「え、いつですか?」
『逮捕の翌日なんですが、お伝えしてませんでしたかねえ』
呑気な口振りで言われ、芳晃は手にした携帯を床に叩きつけそうになった。
「……いえ、伺ってませんけど」
『旦那さんが雇われた弁護士と話したときには、もう移送が決まっていたので、その件は伝えたつもりだったんですが。ひょっとして、彼が言い忘れたのかな?』
他に責任を押しつけて、過ちを認めないつもりらしい。おかげで、電話が掛かってきたときに抱いた感謝の念は、綺麗さっぱりなくなった。
「では、港湾警察署のほうに行ってみます」
『ええ、そうしてください。何にしても、よかったですね』
朗らかに言われても胸に響かない。面倒なことが片付いて、清々しているふうに聞こえた。
それでも、通話を終えた後で安堵の思いが湧いてきた。
(帰ってくるのか、絵梨──)
家族三人の生活が、ようやく取り戻せるのだ。
夕方、沙梨奈が帰宅すると、芳晃はさっそく母親の帰宅を伝えた。
「ママは、明日には帰れそうだよ。時間はいつになるかわからないけど」
「あ、そう」
沙梨奈は興味がないというふうにうなずいたが、本当は嬉しかったに違いない。その証拠に、頬が少し緩んでいた。
その日の夕食は、彼女の好きなハンバーグをこしらえた。
「そっか……明日から、ご飯はママが作るんだね」
つぶやくように言った娘に、芳晃は首をかしげた。
「どうかしたのか?」
「わたしは、パパに作ってほしいんだけど。ママよりも美味しいから」
父親をおだてているわけではなく、本心のようである。けれど、肩を持たれても素直に喜べない。親子三人で良好な関係を築きたかった。
「ママがいても、パパが作ることだってあっただろ」
「まあ、そうなんだけど」
「この際だから言っておくけど、あまりママに反抗するんじゃないぞ」
「どうして?」
「ママだって、沙梨奈のことを考えて、一所懸命やってるんだ。そのぐらいわかるよな」
「うん、まあ……」
「自分がママの立場だったらどう思うか、考えてみなさい。沙梨奈がママにするような口答えを、親になった自分がされたら嫌だろう?」
「わたしは、ママみたいな母親にならないもん」
沙梨奈が不満げに口を尖らせる。彼女にも言い分があるようだ。
「もしもママに不満があるのなら、ちゃんと話し合わなくちゃ。ただぶつかっていても、何の解決にもならないぞ」
「それは──うん……」
「とりあえず、明日はちゃんと『おかえりなさい』って言えよ」
「わかった」
彼女がいつになく神妙な面持ちを見せたのは、母親が不在のあいだに思うところがあったからではないか。これを機会に、母娘の関係が良い方向にむかってくれればいいのだが。
そのぐらい得られるものがなければ、割に合わない。