大滝弁護士から電話がかかってきたのは、間もなく日付が変わるという時刻であった。
『弁護士の大滝です。結論から申し上げますと、奥様にお会いできませんでした』
 案の定、予想したとおりにはならなかったものの、芳晃は言葉を失った。
(え、どういうことだ?)
 弁護士と面会できないほど、重大な罪を犯したというのか。いや、都の迷惑防止条例に、そんな罪状はなかったはずだ。
『実はですね、奥様には別の弁護士がおりまして、私は接見できなかったんです』
「じゃあ、妻が雇ったんですか?」
『いえ。奥様のお勤め先に依頼されたとのことでした』
 弁護士がすでについていたとわかり、芳晃は胸を撫で下ろした。
(勤め先が雇ったってことは、やっぱり仕事中に逮捕されたんだな)
 条例に違反する行為も、命令されてしたのであれば、罪は軽いだろう。もしかしたら、店の責任者も逮捕され、すぐに弁護士を呼んだのかもしれない。
『そういうことですので、詳細についてはそちらの弁護士にお訊きください。沼田さんとおっしゃる方で、今夜か、あるいは明日にでもお電話があると思います。旦那さんが大変心配なさっているので、早めに連絡してほしいと伝えましたから』
「そうですか。ありがとうございます」
『弁護費用はお勤め先で負担されるようですし、私のぶんも、そちらのほうから支払っていただけるとのことです。筒見さんへの請求はございませんので、その点もご安心ください』
「わかりました。御足労をおかけしました」
『いえ、これが私共の仕事ですので。では、失礼いたします』
 通話が終わり、芳晃はふうと息をついた。何があったのか未だにわからないものの、気持ちはだいぶ楽になった。
(弁護士がついているのなら、もう心配いらないな)
 ただ、絵梨の勤め先と仕事内容が、好ましくないものなのは間違いあるまい。友達の店と言ったが、本当に友達かどうかも怪しい。それこそ風俗関係というのもあり得る。
(とにかく、今の仕事は辞めさせないと)
 今後はどこで何をするのか、前もって話をさせよう。彼女も今回のことで懲りて、慎重に仕事を選ぶはずである。
 そんなことを考えながら待ったものの、弁護士からの電話はなかった。
 芳晃は深夜二時過ぎまで起きていたが、さすがに今夜はもうないかと、諦めてベッドに入った。普段なら明け方まで仕事をするのだが、気疲れが著しく、そんな気になれなかった。
 目が覚めたのは朝の七時前だった。まだ眠く、二度寝しようとしたのであるが、
(──あ、まずい)
 妻がおらず、娘を学校に行かせなければならないのを思い出して飛び起きた。
「沙梨奈、朝だぞ」
 いちおう年頃であり、ドアを開けずに声をかける。部屋の中から「んー」と半分寝ぼけたみたいな返事があった。
 キッチンに行き、買い置きの食パンを探す。幸いにも一枚だけ残っていた。
(忘れずに買っておかなくちゃいけないな)
 絵梨がいないあいだ、家のことはすべて自分がやらねばならないのだ。
 食パンをトースターに入れ、冷蔵庫から卵とベーコンを出す。スクランブルエッグをこしらえ、ベーコンもカリカリに焼いたところで沙梨奈が現れた。
「え?」
 キッチンに立つ父親を認め、驚いたように目を丸くする。それでも、昨夜言われたことを思い出したか、「ああ」とうなずいた。
「おはよう、パパ」
「おはよう」
 挨拶を交わし、食卓に着いた娘の前に朝食を出す。
「ソースとケチャップ、どっちがいい?」
 訊ねると、沙梨奈は「ケチャップ」と即答した。スクランブルエッグに赤い模様を描き、「いただきます」と両手を合わせる。
「牛乳飲むか?」
「うん」
 芳晃は牛乳をカップに注ぎ、電子レンジで温めた。
「朝ごはんは、パパが作ったほうがいいな」
 ホットミルクを受け取った中学生の少女が、甘えるような口調で言う。
「どうして?」
「ママは雑なんだもん。卵はいつも目玉焼きで、しかも半分ナマだし。牛乳だって、冷たいのをそのまま出してくるんだよ」
 芳晃は朝食を摂らないことが多い。そのため、妻が娘に何を食べさせているのか、よく知らなかった。ただ、普段の様子からして、本当にそうなんだろうと納得できた。
 とは言え、あまり期待されては困る。甘やかすのも得策ではない。
「朝食ぐらい、自分で作れるようにならなくちゃいけないぞ」
 父親らしく諭すと、「はーい」と返事をする。実行するには時間がかかりそうだ。
「あ、そうだ。保護者会の出欠の返事、今日までだったと思うけど」
 沙梨奈に言われ、芳晃は「何だそれ」と訊き返した。
「ママにプリントを渡したよ」
 学校からのたよりは、芳晃も目を通すようにしていた。かつて教職にあったから気になるのだ。しかし、保護者会の件は初耳だった。
 たぶんあそこだろうと、リビングのテーブルを確認する。下の棚板にプリントがあり、確認すると保護者会は来月であった。
(それまでには釈放されてるんだろうな……)
 不安がぶり返す。弁護士がついても、万事うまくいくと約束されたわけではない。起訴された場合の有罪率は恐ろしいほど高く、無罪を勝ち取るのは至難の業だと聞いたこともある。
(いや、そこまでにはならないさ。取調で誤解が解けて、釈放されるはずだ)
 プリントの出欠票部分に氏名を記入し、出席に○を付ける。
「ほら、これ」
 戻って切り取った出欠票を渡すと、沙梨奈は小首をかしげた。
「保護者会、パパが来るの?」
「どうして?」
「だって、パパの名前が書いてあるから」
「べつにどっちの名前でもいいだろう。あくまでも代表者ってことなんだから」
「そうなの? でも、ママはいつも自分の名前を書いてたよ」
「ほら、ママが帰れなかったら、パパが保護者会へ行くことになるしさ」
 言わなくてもいい弁明を口にするなり、娘が表情を曇らせる。
「……そんなに長く家にいないの?」
 いくら反抗していても、母親の不在が月を跨ぐまで長くなると考えたら、不安に駆られるのも無理はない。まずかったなと、芳晃は失言を悔やんだ。
「いや、そこまでにはならないか。心配しなくても大丈夫だよ」
 明るく励ますと、沙梨奈は「うん」とうなずいた。
 朝食を食べ終え、彼女は自分で食器を洗った。登校の準備をするため部屋に戻る。
 芳晃はリビングで落ち着かない時間を過ごした。携帯を手に、弁護士からの電話を待つ。
(さすがに、こんな早い時間からはこないか……)
 そうは思っても、万が一と考え、視線を携帯に向ける。
 制服に着替えた沙梨奈が、部屋から出てきた。
「さっきの出欠票は持ったか?」
「持ったよ。じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 後ろ姿を見送って間もなく、玄関のドアが閉まる音が聞こえる。芳晃はふうと息をついた。
(おれ、緊張していたんだな)
 中学生の娘とふたりっきりだったからではない。隠している事実が知られないよう、気を張っていたためだ。