3
 母親が逮捕されたなんて、娘に伝えられるわけがない。
「さっき、ママから電話があったよ」
 芳晃は帰宅すると、リビングでテレビを観ていた沙梨奈に、平静を装って告げた。
「ふうん」
 彼女が興味なさげに相槌を打つ。普段反抗しているためか、少しも心配していないらしい。
「親戚のひとが倒れて、看病しなくちゃならなくなったんだって。急だったから、パパや沙梨奈に連絡できなかったそうだよ」
「え、親戚って、おじいちゃん?」
 沙梨奈がテレビから目を離し、驚きをあらわに振り返る。祖父のことかと思ったようだ。二年前にからだを悪くして入院し、彼女も見舞ったのである。
「そうじゃなくて、おじいちゃんのいとこって言ったかな。パパも会ったことがないひとで、家も関西のほうなんだって。だから、しばらく帰れないかもしれない」
「そうなの。それじゃ仕方ないね」
 父親の作り話を、沙梨奈はあっさりと信じた。芳晃は在宅で仕事をしているし、家事はひととおりできる。何も心配はないらしい。
「家のことはパパがするけど、沙梨奈も自分のことは自分でやってくれよ」
「うん、わかった」
「テレビもそろそろ終わりにして、宿題をしなさい」
「はあい」
 沙梨奈は返事をして、素直にテレビを消した。
 部屋に向かった娘を見送り、芳晃は自室に入った。まずは弁護士を頼まなければならない。
(弁護士なら誰でもかまわないってわけじゃないんだよな)
 刑事と民事があり、さらには相続や離婚など、各々得意とするものがあるのではないか。逮捕されたのなら刑事事件なのだろうし、そちらの専門家に依頼すべきだ。
(弁護士の費用って、どのぐらいかかるんだろう……)
 そんなことも気にしながら、芳晃はパソコンを立ち上げた。ブラウザの検索バーに「弁護士 刑事事件」と入力すると、一千万件以上もヒットする。情報がネットにたくさんあるのは、必要としている人間が多い証だ。自分だけではないのだと、少しだけ気持ちが楽になった。
 いくつかの弁護士事務所のサイトを閲覧し、芳晃は刑事事件の手続きのあらましを理解した。逮捕されると七十二時間以内に勾留が決定され、それで起訴されれば、いよいよ裁判になるという。
 絵梨は大それた事件を起こせる人間ではない。何かの間違いか、せいぜい軽微な罪を犯しただけなのだ。担当の刑事は迷惑防止条例違反と言ったが、それこそひと様に迷惑をかけた程度のことだろう。
 だとすれば、このまま帰りを待つという手もあるのではないか。しかし、どの弁護士のサイトにも、逮捕されたらすぐに私選弁護士を接見させ、不利な状況に陥らないようアドバイスを受けるべきだと書かれてあった。
 但し、着手金だけで二、三十万円もかかるようだ。払えないわけではないものの、即座に決断するには高額である。
(そういえば、国選弁護人って制度があったよな)
 無料で弁護をしてもらえるはずだと思いつつ調べれば、基本的には起訴されたあとか、勾留が決まってからつけられるものだという。資産の証明も必要で、収入によっては報酬を支払うことになるようだ。
(やっぱり私選の弁護士を頼むしかないのか)
 早急に対処したほうがいいのは、間違いなさそうだ。すぐ出向いてもらえるよう、芳晃は杉並警察署に近い弁護士事務所を探した。
(とりあえずここか)
 条件に当てはまる事務所のホームページを見つけ、さっそく電話をかける。
『はい、大滝法律事務所です』
 呼び出し音が鳴って、直ちに先方が出る。芳晃は心の準備が整わず、絶句してしまった。
『もしもし、どのようなご用件でしょうか?』
 訊ねられ、ようやく「ああ、えと」と声が出る。
「実は、妻が逮捕されまして」
 そう告げただけなのに、電話に出た男はすべてを了解したふうな口振りで『なるほど、わかりました』と答えた。おかげで、気持ちがすっと楽になる。
(こういう依頼は珍しくないんだな)
 このまま引き受けてもらえそうな感じである。任せても大丈夫なようだ。
『私は弁護士の大滝亮一と申します。そちら様のお名前を教えていただけますでしょうか』
「はい。筒見芳晃です」
 問われるままに住所と電話番号、妻の氏名と生年月日も伝える。経緯も簡単に説明した。
『そうすると、奥様はお仕事先で逮捕されたのでしょうか?』
「おそらくそうかと思います」
『奥様のお勤め先はご存知ですか?』
「いえ、そこまでは聞いていなくて。ただ、杉並駅の近くなのは確かです」
『わかりました。ところで、私共の事務所のことは、どこでお知りになりましたか?』
「あの、ホームページを拝見して」
『それでしたら、ある程度ご理解されていることと思いますが、こういう依頼をお引き受けする場合、着手金というものがかかりまして──』
 弁護士費用を丁寧に説明される。日当や交通費などの実費も加わり、高額だという印象は変わらなかったが、はっきりと伝えてもらうことで信頼できた。
『とりあえずはそれだけお支払いいただくことになりますが、よろしいでしょうか?』
「はい。是非お願いします」
『では、これから杉並警察署のほうに行って、奥様と接見いたします。旦那様に依頼されてとお伝えしますが、よろしいですか?』
「かまいません」
『何か奥様に伝言などはありますか?』
「いえ、特には。とにかく、どういう事情でこういうことになったのかが知りたいので」
『そうですね。その点をちゃんと教えていただかないことには、私のほうもアドバイスも弁護もできませんので、伺ったことは旦那様にもお伝えします』
 大滝弁護士は話し振りもなめらかで、はきはきしている。最初からいい弁護士に当たったと、芳晃は幸運を噛み締めた。
「お願いします。あ、それから、家のことは心配しなくてもいいと伝えてください」
『承知いたしました。奥様もきっとご安心なさるでしょう。では、接見が終わり次第ご連絡いたしますが、電話のほう、遅くなっても差し支えありませんか?』
「はい。何時でも大丈夫です」
『わかりました。では、後ほど』
 通話が終わり、芳晃は全身から力が抜けるのを覚えた。すべて片付いたわけではなくても、とりあえず道筋ができて安堵したのだ。
(……だけど、絵梨のやつ、何をやったんだ?)
 都の迷惑防止条例違反だと刑事は言った。そもそもどんなことをしたら罪になるのか、芳晃は知らない。弁護士からの報告を待つだけなのも落ち着かないし、調べることにした。
 検索したところ、条文はすぐに見つかった。全九条しかない。
 該当する行為は、ダフ屋やショバヤ、景品の買取り、粗暴な行為や痴漢、ストーカーの他、押売に客引き、ピンクビラの配布である。その名のとおり、迷惑としか表しようのないものばかりであった。
 第八条には罰則も書かれてあった。それによると常習を除けば、どんなに重くても一年以下の懲役または百万円以下の罰金で済む。仮に絵梨が裁判にかけられても、何年も刑務所に入ることにはならないわけだ。逮捕されるのは今回が初めてだし、そういう場合はだいたい執行猶予がつくのではないか。
 逮捕という言葉を重く捉え、平和な日常をすべて奪われた気がしていた。けれど、そこまで深刻になる必要はないのかもしれない。
 気持ちが落ち着いて、思考も前向きになる。もっとも、気になる点が無きにしも非ずだ。条例に定められた行為の中に、妻が関わりそうなものが見当たらなかったのである。
 ダフ屋やショバヤなどするはずがない。粗暴な言動とも無縁だ。痴漢は論外で、押売も無理だろう。今どきピンクビラなんてものが存在するのかも疑問だった。
 消去法で検討した結果、残ったのはストーカーと客引きであった。しかし、普段から過剰なほどの愛情表現を示してくれる妻が、他の男につきまとうなんてあり得ない。
(そうすると客引きか? そっちもなさそうなんだけど)
 夜の仕事ならともかく、昼間に働いていたのである。杉並駅の周辺は繁華街ではなく、オフィスと商業ビルが半々という感じだった。仮に、早い時間から開いている飲み屋があっても、昼間に客引きなどするだろうか。
(いや、飲み屋とは限らないのか)
 だいぶ前のことになるが、芳晃は街中で声をかけられた。マッサージ店の客引きで、年齢の定かでない女性が、片言の日本語でイカガデスカと誘ってきたのだ。あれはそれほど遅い時刻ではなかった。
 とは言え、絵梨にマッサージは無理だろう。少なくとも商売として成り立つ腕はない。
 では、単なるマッサージではなく、性的なサービスを施す風俗関係はどうか。勤め先のことを話そうとしないのは、夫や娘に言えないことをしているためかもしれない。
(まさか、絵梨にかぎって──)
 胸の内で否定しても、他の可能性は見当たらなかった。
 三十代の半ばでも、絵梨は童顔のため若く見られがちだ。それに、結婚したときには友人たちから、可愛い嫁さんをもらいやがってとやっかまれた。風俗嬢なら務まるだろう。
 人妻を売りにする風俗店もあると聞く。浮気はしないと信じられても、愛情のない行為なら、お金のためと割り切って働くのではないか。
 絵梨が性的に奔放というわけではない。夫婦仲こそ睦まじくても、男として満足させられている自信がないため、もしやと疑ってしまうのだ。最後に抱いたのがいつだったか思い出せないぐらい、夫婦の営みから遠ざかっていた。
 そうなると、否定したはずのストーカー行為もあり得る。後腐れのない男と関係を持ったつもりが、しつこくつきまとったせいで通報されたとか。
 もしも誰かが芳晃の頭の中を覗いたら、どうしてそこまで悪いほうに考えられるのかと、あきれ返るに違いない。けれど、これは彼なりの自己防衛であった。
 これまでの人生で、思い描いたとおりに何かが実現したことなどない。若い頃は将来について夢想することが多かったが、現実は厳しく、夢は夢で終わるのが常だった。
 これは逆の意味でも真である。困難に直面したときには、あらかじめ最悪の結果を想定した。なぜなら、思ったとおりにはならないからだ。これは経験を通して身につけた知恵であった。
 不吉な想像で胸を痛めながら、芳晃は弁護士からの連絡を待った。