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東京港湾警察署の最寄り駅までは、途中で電車を乗り換えて一時間以上かかる。徒歩のぶんも入れれば、一時間半というところか。
いちおう午前九時ぐらいには着けるよう、翌朝、芳晃は沙梨奈よりも早く家を出た。
(この時間だと、通勤ラッシュにぶつかるな)
できれば避けたかったものの、こればかりはどうにもならない。出発をあとにずらして遅くなり、釈放される絵梨と入れ違いになってもまずい。
(だけど、九時前に釈放されたりしないよな?)
沼田の話では、そこまで早くはならない感じであった。役所関係が始まるのはだいたい九時ぐらいだから、それから手続きをするとなれば、早くて十時ぐらいか。
そんなことを考えながら、芳晃はラッシュアワーをやり過ごした。在宅の仕事だし、教職時代を含めても、満員電車に乗った経験は数えるほどしかない。人波に揉まれるのはかなりのストレスで、電車を降りて駅の外に出たときには、解放感を味わった。
名前のとおり東京湾に近い警察署まで、歩いて二十分ほどかかった。
正面玄関から入ると、そこはわりあいに広いロビーであった。長椅子がいくつか並んでおり、奥に区役所みたいな横長のカウンターがある。その向こう側に並んだデスクで、大勢が仕事をしているのも一緒だ。
芳晃は総合案内と表示のあるところに進んだ。
「あの、本日釈放される筒見絵梨の身内なんですが」
用件を伝えると、警官なのか事務員なのか定かではない若い女性が「はい」とうなずく。特にどうしろと指示してくれる様子がなかったので、こちらから訊ねた。
「どこで待てばいいんでしょうか?」
「そちらのほうでどうぞ」
素っ気ない口振りで、カウンターに対して垂直に並んだ長椅子を示される。言うことはそれだけなのかと、芳晃は眉をひそめた。
「何時ぐらいに釈放されるのかわかりますか?」
「ここではわかりません」
質問にも冷たく返され、苛立ちと怒りがふつふつと湧く。
(警察もお役所仕事なんだな)
いや、他の役所のほうがもっと親切だし、対応も丁寧だ。ここは時代に取り残されて、昔ながらの横柄さを後生大事に守っているようである。
それとも、犯罪者の身内だから、邪険にしてもいいと思っているのか。
自動販売機があったので缶コーヒーを買い、背もたれのない長椅子に腰掛けて、芳晃は絵梨が出てくるのを待った。
(あそこから来るのかな?)
カウンターの右に通路があり、「関係者以外立ち入り禁止」の札が立っている。あの向こうに妻がいるのではないか。
コーヒーを飲み終えたら、することがなくなる。本でも持ってくればよかったと、芳晃は悔やんだ。携帯にも、暇つぶしになるようなアプリはない。
芳晃はため息をついて立ちあがり、空き缶をゴミ箱に捨てた。
何か読む物がないかロビーを探すと、チラシの並んだラックがあった。確認すれば、各種手続きに関するものや防犯のチラシなど、わざわざ手に取る気になれないものばかりだ。
諦めて長椅子に戻り、天井を仰ぐ。外に出て、コンビニで雑誌でも買ってこようかとも考えたが、そのあいだに絵梨が出てこないとも限らない。ひたすら待つしかなさそうだ。
そのうち、一般の来訪者が姿を見せ始めた。免許証や車庫証明、落とし物や道路使用許可など、それぞれの窓口で手続きをする。交通事故証明の件で、担当者に面会を求める者もいた。
それらのひとびとをぼんやりと眺めて時間を潰し、とうとうお昼になった。
(腹が空いたな)
近くにコンビニはあったものの、飲食店は駅前あたりにしかなかった。それに、外に出たら妻と行き違う気がしてならない。
食事は諦め、尿意を催したのでトイレを探す。ロビー内には見当たらず、立ちあがってあちこちに目を向けたところ、例の立ち入り禁止の札が立った通路の奥に表示があった。
(なに、かまうものか)
かれこれ三時間も待たされたのだ。用を足さねばならない状況に追い込んだ責任はそっちにある。芳晃は挑発的な気分で通路のほうに進んだ。咎められたら反論するつもりで。
ところが、誰からも声をかけられぬまま、目的の場所に到着したから拍子抜けする。
(あの札は飾りなのか?)
それとも、無闇に立ち入らないよう牽制するためのものなのか。
用を足して戻るとき、通路にエレベータがあるのを発見した。もしかしたら、絵梨はこれを使って降りてくるのだろうか。
(まさか、地下に拘束されてるってことはないよな)
署内の案内図はどこにもない。昨日、ここまでの道順を調べたとき、建物の入り口や、どこの窓口かなども確認しようとしたのだが、ホームページには記載がなかった。テロや襲撃などを警戒して、そういった情報は表に出さないようにしているのか。
ロビーに戻ると、さっきまで坐っていたところに若い男がいた。仕方なく、芳晃は他の長椅子に腰掛けた。
(おれと同じで、身内が釈放されるのを待っているのかな?)
そう考えたのは、その若い男がどこの窓口にも行かず、手持ち無沙汰なふうにあたりを見回していたからである。間もなく彼は携帯を取り出し、小さな画面に視線を落とした。
通路のほうから二十代と思しき女が現れたのは、十分ほど経ってからのことだ。彼女は若い男の前に真っ直ぐ進み、声をかけた。
「あ──」
男がすぐに立ちあがり、女と言葉を交わす。手を繋いで出て行ったところを見ると、恋人同士なのだろうか。
(やっぱり釈放を待ってたんだな)
女は化粧っ気もなく、疲れているふうに見えた。
(絵梨もあんな感じで出てくるのかな)
長く自由を奪われれば、体力を使わずとも心労が著しいに違いない。罪もないのにそんな仕打ちを受けた妻が、可哀想になってくる。
出てきたら、まずはいたわってあげようと決心する。ただ、ひとつ気になることがあった。
(さっきの男、あまり待たなかったな)
あらかじめ時間がわかっていたふうである。