投票結果を集計した時、僕がまず思ったのは「このままだと再選挙になる」ということだった。去年も選挙管理委員会だったため、再選挙の項についてはぼんやりと記憶していたのだ。
選挙結果は昇降口の掲示板に張り出される。もし再選挙の場合、そこにはどんな文字が入るだろう?『不信任のため再選挙』あるいは『白票多数のため再選挙』といったところだろうか。
氷室の応援演説をした実直なユウが、それを見てどう思うか?
再選挙の際、ユウは一体どんな思いで、再度氷室の応援演説をするというのか?
「それを避けるためにキミの出した結論が、不正投票があったことにする、ってことだったんだ。犯人なんてどうでもよくて、どうにかして不正があったという結論にする。そうしたら、掲示板に張ってあるのは『不正のため再投票』になるから、ユウ君も傷つかなくて済む。
氷室君の票数操作のことに気づいてるのに、外部犯なんて推理をしたのもそのためでしょ? 氷室君の票数操作は別に『不正』じゃないもんね。だって『清き一票を』って言うのを『清き白票を』って言い換えてるだけで」
観念して、僕は項垂れてみせた。
「何も違わないです。その通りですよ。最初から気が付いてたんですか?」
「まあね」
思えば、僕が会議で最初に『いじめなどありえない』と発言した際、拾って議論を進めてくれたのは佐竹先輩だった。
「さすがですね」
「いやまあ、あの慎重なキミが一番最初に発言するなんて、変だもん。しかも『ありえない』なんて断言するなんて。それから、そうだなあ。諏訪野先生が規程の話をしたとき、『やっぱり再選挙ってことですか?』って言ったよね。『やっぱり』って何? それはそもそもの前提として、キミが再選挙になることを危惧してたってことじゃないかなあって」
まあ、と彼女は言った。
「これだけ長いこと見てれば分かるよ」
佐竹先輩の言葉に、胸の奥が締め付けられそうになる時がある。
その理由は未だに分からないが、そういう時は大抵、無性に走り出したくなる。スパイクを履いて、全力で、がむしゃらに。
彼女は立ち上がって僕の肩にぽんと手を置いた。手のひらの温もりを、布一枚を介して感じる。
僕はため息交じりに呟いた。
「本当は、鴻巣先輩が適当に犯人を指名してくれると思ってたんですけどね……」
「あはは。諏訪野先生もそれを期待してただろうね。ま、結果的にキミの思い通りに進んでよかったじゃない」
それは、本当にどうなのだろう。氷室の言葉を思い出す。
――動かす側にいたい。
僕たちは地方の高校生で、十七歳で、その裁量はあまりにも少ない。青春だとか全力だとか、皆口々にはやし立てるけれど、要は出来ることが限られているからそれに注力するしかないだけなのだ。
一球を追いかける、一筆に込める、一秒に賭ける。皆がそれを青春と賛美する。それを受けて若者は注力する。皆が言う青春を満喫しようと、若者は若者を演じさせられる。僕らは自由のようで、少しも自由ではない。もっと大きな何かに動かされている。もっと大きな、巨大な、敵いようのないものに。
しかし中には、その大きな何かを切り裂いて走り抜ける走力と持久力を持った、特別な奴もいる。
「佐竹先輩は動かす人と動かされる人、どちらになりたいですか」
「どっちでもいいよ」
飴玉を投げて寄越すように、彼女は言った。
「だってどちらでもあり得るもん。動かしてる人はまた誰かに動かされてて、動かされてる人はまた誰かを動かす。それは輪っかになってて、誰がはじめかなんてわかんないよ。卵が先か鶏が先かみたいにね。例えば」
例えば、ともう一度言った。
「昨日のあの会議だって。鴻巣は探偵として事件を暴いてるつもりだったんだろうけど、そもそもそれだって、諏訪野先生の望んだ結論に沿ってただけじゃない? 議論を進めたのは確かに鴻巣だったけど、あの会議の行き先を決めたのは、あくまでも『白票による再選挙』を避けたい諏訪野先生だったよ。
けど結局諏訪野先生だって、思うように鴻巣を動かせなかった。結局上手く落としどころを見つけたのはキミ。そしてその清瀬も――」
彼女の笑みが寂しげに見えたのは、きっと頭上の蝉が鳴きやんだせいだ。
「誰かに動かされてるのかな?」
いたずらっぽい笑みは、砂糖菓子のように甘く柔らかい。直視できずに、僕は遠くの山を見る。
「生死去来、棚頭の傀儡……って、先輩分かります?」
「一線絶ゆる時落々磊々――。世阿弥だね。『棚の上の作り物の操り、色々に見ゆれども、まことには動く物にあらず。操りたる糸のわざなり』だっけ。キミ、よく勉強してるじゃない」
「理系ですけど、古文は得意なんです」
「それで? 世阿弥がどうしたの?」
「どう思いますか、先輩は」
「ん?」
「佐竹先輩は何に動かされてますか」
「世阿弥はそれを心とか言ってたけど。うーん、あたしは、そうだなあ。親に、先生に、友人に、あるいは小生意気な後輩に」
「圧倒的に動かす側の人間って、いると思いますか」
「さっきも言ったけど、いないよ」
「いますよ」
「……いないよ、清瀬。そんな人はいないんだよ」
なぜ佐竹先輩がそんな哀しそうな顔をするのだろう。笑いそうになる。
「いますよ。天才とも呼ばれるような、そんな全てのルールのもとみたいなやつが」
氷室の言うように、動かす側の人間は確かにいる。
しかし、彼はなれないだろう。
『動かす側になりたい』と理想の姿を求めている彼は、多分なれない。もちろん、名探偵になりたい鴻巣先輩だって。
『何者かになりたい』という感情は、言い換えれば『何者かに見られたい』という承認欲求でしかない。見られたい自分に近づくように、自分で自分をプロデュースして、自己で自己を操っているだけ。
本当に動かす側の人間は無自覚だ、と思う。
無垢で、純粋で潔白。
見えない意図を内包する白票よりも、さらに白く。
その白さの後ろに、小賢しい意図も糸も無い。
腕時計を見て、グラウンドへ向かった。夏を待つ土は固く、十分な反発を僕の身体に伝える。
「いつからだろうね」
呼び止めたわけではないだろうが、顔だけ振り返る。彼女の伸ばし始めの髪が風に靡いて、視線は焼けたアスファルトにあった。
「いつから、キミにとって、ユウ君はそんなにも特別になったんだろうね?」
僕は笑って走り出した。
ちょうど、グラウンドを小柄の男子生徒が駆け抜けた。小柄のわりに大きなフォームで弾むようにトラックを回っている。まるで火が踊り狂っているかのようにまっしぐらだった。
そこには何もなかった。
グラウンドがあって、白線があって、彼自身がただそこにいた。火は自身が燃えさかっているのを知らない。そういう強さだった。
彼は一周して、僕の目の前でグラウンドに倒れ込んだ。
「ユウ」
呼ぶと、ユウは苦しそうに、しかし零れるように笑い、僕に応えた。僕もつられて笑った。
それだけで、十分だった。
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