「みっしつじけん?」
 諏訪野先生は素っ頓狂な声を上げる。「お前な、もう高三だぜ? いい加減にしとけよ」
「早く帰ったところで、受験勉強の時間にそう影響はありませんよ。総学習時間数のうちのほんのわずかです」
 鴻巣先輩は尊大に顎を上げるが、諏訪野教諭は受験生だからいい加減にして早く帰ろう、ということを言っているのではないと思う。
 確かにねえ、と頷くのは佐竹先輩だ。ぐるりと部屋を見回して言う。
「密室かあ。確かにそうなるのかな。この部屋、入り口は一つだし、他の教室と繋がってるわけでもないし、二階だから窓から侵入ってのもないし。回収した投票箱を入れてから開けるまで、この部屋には鍵がかかってたことになるもんねえ。もちろん鍵、かけてましたよね?」
「当たり前だろうが」
「いやあ、諏訪野先生なら閉め忘れとかありそうじゃないですか」
「鍵はかけたしずっとポケットに入れてたぞ。だから俺が持ってた鍵は誰も使ってない」
「『俺』が? なら他にも鍵はあるってことですか?」
「もちろんある。マスターキーだな」
「それはどこですか?」
 と、鴻巣先輩が割り込む。
「それが生徒にばればれだったから、マスターキーを使った盗難事件なんてのが起こったんだろうが。保管場所は移動したし、それを生徒に言うなって提言したのは鴻巣、お前だぞ」
「事情が別です。議長として、学校側に回答を求めます」
「……今は事務室だ。普通生徒は入らないぞ。教員だって行くことは多くない」
「投票箱の鍵は?」
「それはこの部屋にずっと置いてあった」
「なるほど。なら生徒会室さえ開けられれば、白票の操作はできたわけです。生徒会室の鍵は二つ。その二つとも一応は誰も手の触れることが出来ない場所にあった」
 ふうむ、とわざとらしく唸って、鴻巣先輩はふっと表情を崩す。
「そうなると結論は簡単になってしまいますよ。諏訪野先生か事務員さん、どちらかあるいはどちらもが犯人です」
 諏訪野教諭は呆れたように言う。
「そんなわけないだろ。俺はその時間職員室にいた。事務員さん含め、他の先生のアリバイ証言でも持ってきてやろうか? なあ鴻巣、もう少し現実的な案をだな……」
 鴻巣先輩が制す。「先生方がこんなことをするメリットがないことは分かってますから。それにこんな簡単な話だと面白くない」
「鍵を使うのが無理ならさ、ピッキングで開けるって方法もあるんじゃない?」
 佐竹先輩は先ほどからチョークを弄んで、遠くを見ている。「こう、針金とか使ってガチャガチャとさあ」
「可能性としてはありますね。では佐竹さん、一度ドアの鍵を確かめてきてくれませんか。ピッキングがされたなら、傷が残っているはずです」
「またあたし?」
「あなたの推理でしょう?」
「はいはい」
 大儀そうに立ち上がり、手のひらで風を送りながら教室を出た。五秒ほどして帰ってくる。「何も無いね。きれいな鍵穴だった」
「そうですか。今回佐竹さんの推理は短絡的でしたが、一番シンプルな案でしょう。つまり、物理的密室を誰かが作り出した、という案ですね」
 選挙管理委員のほとんどは、もはや机の下で黙々とスマートフォンを触っている。今のこの会話は彼らにはどう聞こえているのだろう、と考え、ふいに妙な哀しさが襲ってきた。多分、彼らにとっては相当にどうでもいい言葉の応酬のはずだ。同じ言葉でも、聞き手によって意味の重みが全く異なる。
 誰が言うか、誰が聞くか。
 多分、世界はそんな風に回っているのだろう。
「ならお前は、どうやったって言いたいんだ? もちろん考えがあるんだろうな?」
 諏訪野教諭の堪忍袋も大概なのだろう。語気にいらだちを隠し切れていない。
「一応は。今まで様々な可能性を考えましたが、まだ考えていない可能性があります。それではないか、と」
「なんだよ」
 彼女はわずかに微笑み、そっと薄い唇を舐めた。
「投票箱を回収して諏訪野先生がこの部屋を出るとき、中に犯人がいた、という可能性です」
 思考に一瞬の空白。
 スタートラインに立った時のように、肺がわずかに痙攣した。
「意味が分からねえな」
 一呼吸おいて言ったのは諏訪野教諭だった。ゆっくりと言ったために、いつものだみ声より重々しく響いた。
 鴻巣先輩は動じない。圧縮した自信を胃袋に押し込んだような顔つきだった。
「だからそのままの意味ですよ、先生。
 十六時四十分頃、諏訪野先生が投票箱が揃ったのを確認して部屋を出るその時、実はこの部屋に生徒が残っていたんです。この教室は物品等で死角も多い。しかも投票箱が大量に机の上にあった。適当に隠れれば、実際は誰かがいても気が付かないでしょう。先生は気が付かないで鍵をかけた。そして室内には犯人と投票箱が残った。
 あとは簡単です。投票箱の鍵は部屋の中にある。その鍵で投票箱を開け、白票にすりかえ、外に出る。投票用紙は毎年同じ様式ですから、用意するのは簡単でしょう。一連の作業は、そうですね、五分もあれば充分でしょう。各クラスの投票箱の白票の数がばらばらだったのも、時間が無かったからでしょうね。そうして生徒会室を出て、何食わぬ顔で教室に戻るだけ、というわけです」
「待て待て。生徒会室の鍵はどうするんだ。物理的に閉めるのが無理なんだろうが」
「そもそも鍵なんてかけてないんです」
 西日で赤く染まった頬で語る鴻巣先輩は、とても美しかった。
 諏訪野教諭はもう疲労感を隠そうともしない。「本当にお前、はっきり言いなさい」
「先生はさっき、この部屋に入るとき鍵はかかっていたと言いましたか?」
「言っただろう」
「いえ、違います。正確には『鍵を開ける音がした』と言ったんです。もしかして、鍵を開けたのは別の人物なんじゃないですか?」
「あ、いや、しかし、確かにそうだが……」
「鍵を開けたのは、一緒にいた秦さんなんでしょう?」
 鴻巣先輩の視線がちなつを捕えた。冷静と興奮、絶妙なバランスを保った温かい視線だった。
「つまり真実はこうです。
 秦さんは投票が終わり投票箱を生徒会室に持ってきた。そして、その後に来る選挙管理委員にまぎれ生徒会室の机の下に姿を隠したんです。投票箱が揃った後、諏訪野先生は誰もいないと思い鍵を閉めた。その後、生徒会室内で秦さんは投票箱を開け、白票を紛れ込ませたんです。
 白票を紛れ込ませた後、内側からドアの鍵を開け、教室に戻りホームルームを受けた。そして、ホームルーム後すぐに生徒会室に向かい諏訪野先生と合流した後鍵を受け取り、鍵を開けたふりをして生徒会室に入った。どうですか?」
 生徒会室のすべての視線がちなつに集まった。ちなつは大きな音に驚いたリスのように固まっている。皆の目を一身に浴びて、ちなつはようやく我に返ったようだった。
「え、いやわたしは――」
「違うと思うなあ」
 佐竹先輩だった。気だるげに、くるりとチョークを回す。
「ちなつちゃんじゃないと思うな、あたしは」
「どうしてそう言えるの?」
 鴻巣先輩は余裕をもってしっとりと微笑んだ。
 対照的に、佐竹先輩の返答は無味乾燥としていた。
「だってあたし、ちなつちゃんと一緒に生徒会室から教室に帰ったもん」
 佐竹さんのあっけらかんとした口調に、鴻巣先輩は口を開いたまま固まった。
「ええっと、そうなんです」
 と、申し訳なさそうにちなつが言う。鴻巣先輩が言葉を発する前に、佐竹先輩は言葉を継いだ。
「共犯でもないよ、もちろん」
「……それは、あなたが結論づけることではありません」
「そもそもさっきの話は、無理があると思うな」
「いったいどこに?」
「ホームルームのところ。さっきの話は、ちなつちゃんが開票作業のために真っ先に生徒会室に行って諏訪野先生と合流することが前提として成り立ってる。けど、ちなつちゃんのクラスより先に、ホームルームが終わるクラスがあったらどうするの? 密室は作れないよ?」
 けど、と言った鴻巣先輩の、その後の言葉は出てこなかった。
 ようやく、人形のように整った唇から絞り出した言葉は、「それなら」だった。 
「それなら、あなたは真実はどうなのだとお考えですか」
 鴻巣先輩の強い視線を、佐竹先輩は正面から簡単に受け止めた。
「さあ? 真実なんてどこにあるのか知らないけど」
 佐竹先輩は笑うと、頬に縦のえくぼができる。
 とても魅力的だった。
「違うことは違うと言っただけだよ、あたしは」
 沈黙の幕が下りた。
「……」