「なら、動かす側になるためにはどうすればいい? まず思いついたのは、自分が今どれだけの人間を動かせるのか知るべきだ、ってことだった。
いつだってそれが一番大事だ。自分の位置を確かめること。『何になりたいのか夢を持て』とかいう大人がいるけど、あれは何なんだろうな? 何も考えてないんだろうな、きっと。紙の地図が使われなくなって、みんながスマートフォンの地図を使うようになったのはなんでだと思う? 自分の位置が分かるからだよ。目的地が決まったところで自分の位置が分からなければどうしようもない。逆に自分の位置さえ分かってしまえば、どこへでも行ける」
どこへでも、と氷室は繰り返す。
自分に言い聞かせるように。
「……まあ、そんなことを考えてる時に絶好の機会がきたんだ。生徒会長選だよ。どうにかしてこの機会を使えないかなあって」
つまり、こういうことだった。僕はゆっくりと言葉を紡いだ。
「お前は、自分にどれだけ票が集まらないか見ることで、自分の信任の尺度にしたのか?」
おもしろいだろ、と氷室はにやりと笑った。
おもしろい、と心底感心した。
信任投票とは、より多く票を得ることで信任が認められるという仕組みだ。その数こそ信任の大きさだと、普通理解する。
しかし、氷室はそれでは納得できなかったのだ。信任票には、とりあえず入れたという票がある程度入る。積極的な自らの信任の大きさを計れたとは正確には言えない。
だからあえて、白票を投じさせたのだった。
曖昧な信任票でも不信任票でもない票。それをカウントすれば、本当に自分の言に従った者の人数が分かる。
それこそ今の自分の位置だ、と。
「まあ、満足してるさ」
氷室はゴミ箱に紙くずを放るように、ぽいと投げてよこす。
「再選挙になりそうだったってことは、三分の一以上が白票だったんだろ? まあ、大方オレの思ってたとおりだった。鴻巣先輩が推理大会を開くであろうことも、もちろん想定内だよ」
そうか、と言った。
つもりだった。
「――そうか?」
自分が発した言葉だと気が付くのに、少し時間が必要だった。
「本当に、そうか? 自分の演説も応援演説も投票もこの結果も、本当に全て、お前の思った通りだったのか?」
一陣の風が吹き、立ち止まる氷室を追い越す。僕は夜空を見上げてみる。そこには思い通りの景色が浮かんでいるだろうか? あるのは黒く霞んだ空と、哀しいほど小さな煌めきが見えるだけだ。
生死去来、棚頭の傀儡、一線絶ゆる時、落々磊々。
考えていたのだ。
僕らは一体、何にとっての傀儡なのだろう。
どの糸を、操っているのだろう。
どの糸を切られて、落ちてゆくのだろう。
「……お前とは一年生の時同じクラスだった」
ようやく言った氷室は、街灯の下でどこか遠くの方を睨んでいる。
「その時から思ってたよ。お前は苦手なタイプだって」
「……」
「大体曖昧な反応で煙に巻いちまう。痩せこけてる癖に妙にタフだ。掴みどころがない。一年も同じクラスにいると、大体振る舞いの綻びが見えるもんだけどな。まあ、けど今ようやく見られたよ」
吐き捨てるように、
「オレはお前とは違う」
と、氷室は言った。
夏の風がゆっくりと冷めていく。つい数時間前にはあれほど暑く滾っていた空気が、嘘みたいに、全く違う様相で僕の周りを漂っている。何だか、信じられない気分になる。
「諦めてるお前とは、違うんだよ」
言葉を返す代わりに、目の前の缶を蹴ってみた。音を立てて転がって、死体のようにやがて止まった。
この缶をもしこのまま放置したらどうなるのだろう、と考えた。風に転がされ川に流され土砂に埋もれ錆びて朽ちて、多分、それだけだ。僕は間違いなく、この缶を蹴って、動かした。しかしそれで一体、世界の何が変わったというのか?
そんなことを思って、しかし言わなかった。諦めている僕が言ったところで、きっと氷室には届かないし、別に届けたいわけでもない。
誰が言ったか、誰が聞いたか。
そういうものなのだろう、とだけ思った。
翌日、部室棟の前でシューズの靴紐を結んでいると、ふいに僕の影が大きくなった。聞き慣れた軽快な声が落ちてくる。
「お疲れさま」
佐竹先輩だった。部室の前で見る彼女の制服姿は久しぶりで、なぜだか一瞬言葉に詰まった。「あ、どうもです」
何がおかしいのか、佐竹先輩は今日の天気のように晴れやかに笑う。切れ目がきゅっとかまぼこ型になって、頬には縦に大きくえくぼが入る。
僕は靴紐を整え、頭を下げて背を向けた。
「ねえ清瀬、今日はうまくいってよかったね」
呼び止められて、仕方なく半身だけで振り返る。
今日の投票は滞りなく済んだ。白票もなかった。諏訪野教諭はほっとした様子だったし、皆特に昨日のことを話すこともなく解散した。鴻巣先輩だけ、僕を一瞥し去っていった。
「氷室君にうまく言ってくれたんだね」
「はい?」
「キミが氷室君に言ってくれたんでしょ? 白票なんて入れさせるのを止めるように」
にやにやと佐竹先輩は面白そうに笑っている。まるで友人をからかう小学生みたいに。八重歯をのぞかせ、いたずらっぽく。要するに。
「本当、さすがですね」
腹の奥から息を吐くと、それだけで疲れた。
佐竹先輩ははゆるゆると近づいてきて、手洗い場の縁に腰を下ろした。「制服、汚れちゃいますよ」「あ、そっか。部活のくせ、まだ抜けないんだよね」
「椅子持ってきましょうか」
と、僕が聞くと「大丈夫、ありがとう」と、佐竹先輩は一瞬真面目な顔をして僕を見上げた。夏服の首元、赤いボウタイが揺れた。
しかしすぐ破顔して、
「優しいね。相変わらず」
「いや……」
彼女の言う優しさとは何だろう。なぜかとても愉快になって、細く笑みが零れた。