鴻巣先輩は次の言葉を探しているようだった。「けど」「それなら」――しかしその次の言葉はなかなか現れなかった。
鴻巣先輩の人形のような静謐さは、完全に失われていた。糸の切れた人形のように俯いて、わずかに見える下唇は、噛み締められて白くなっていた。デパートで迷子になった子どもを探す親のそれのように、探すべきものを完全に見失った悲愴感と、はた迷惑な憤りで満ちていた。
「ねえ清瀬」
――彼女の声は、いつだって鼓膜を妙に震わせる。
「キミはどう思うのか、聞きたいな」
佐竹先輩はこの状況で、そんな言葉を僕に寄越してきた。置き所を見失った無数の視線が僕に突き刺さる。
誰が言うか、誰が聞くか。多分、そういうことだろう。
僕は口を開いた。
「……まだ考えていない可能性があるんじゃないでしょうか。例えば……外部犯の可能性はどうでしょう」
「馬鹿馬鹿しい」
真っ先に反応したのは、やはり鴻巣先輩だった。
「あり得ないでしょ。確かに私はさっき外部犯について言及しなかったけど、それは考えるまでもないと思ったからよ。そもそも今回の事件の問題は鍵をどうやって開けたか、あるいは閉めたかなの。内部であろうが外部であろうが関係ないの」
「もちろん、僕も鍵をどうやって開けたかが問題になると思います。まあ、もう一つ問題があるとは思いますけど。ええっと、とにかく、犯人は鍵を開け白票を操作し、鍵を閉めて出て行った。これしかないでしょう」
「だからその鍵はどうしたっていうの」
「そもそも、鍵は何個あったんでしたっけ」
「諏訪野先生のポケットの分と事務室のマスターキー、それだけよ」
「本当にそうですか? 鍵は本当に二つだけだと言い切れますか?」
例えば、と僕は言った。
「最近マスターキーが盗まれた、なんてことは無かったですか?」
諏訪野教諭に目をやると、じっとどこかを見て何かを考えているようだった。しばらく待つと、ゆっくりと焦点が戻ってきた。
「あったな。それもつい最近」
僕は頷く。
「そうです。教員更衣室の盗難事件ですよ。あれはマスターキーを使用して起こった。ならそのマスターキーの合い鍵が作られていた可能性が残されているんじゃないですか?」
つまり、と佐竹先輩が僕の言葉を引き取る。
「つまり、犯人は退学になったうちの元生徒」
ふん、と鴻巣先輩は鼻をならす。薄い唇が嘲るように歪んだ。
「馬鹿馬鹿しいわ。飛躍しすぎてる。常識的に考えてそんなことがあるわけないでしょう? あいつらがそんなことする理由がない」
常識的に、と名探偵は今になってそんな言葉を口走る。
「動機は一応、ありますよ。鴻巣先輩、先輩自身が動機ですよ。先輩が彼らを退学に追い込んだんですよね? なら彼らがあなたを恨んでいてもおかしくはない。今回こうしていたずらをしたら、選挙管理委員のあなたが表に出てくることは明白だった。特に、密室事件なんていう特殊な状況だったなら。……これがさっき言ったもう一つの問題です。そもそもなぜ密室にする必要があったのか? それは鴻巣先輩を引っ張り出すためですよ。密室なんていう特殊な状況なら、必ず鴻巣先輩が出てきて推理をする。けれど、おそらく退学した者は容疑者から外れ、あなたは間違った推理を披露し、恥をかくことになる」
「そんな飛躍した論理、推理でもなんでもないわよ。大体、証拠がない」
鴻巣先輩の意見は、概ね正しい。
清く正しく、そして一点だけ間違っている。
僕は背筋を伸ばした。夏を待つ蒸れた空気が、一気に肺に入り込んだ。
「僕の意見に賛成の方は挙手をお願いします」
誰も動かなかった。
最初に手を挙げたのは佐竹先輩だった。「もう、それでいいんじゃない?」
次々と手が上がり、最終的には鴻巣先輩以外の、全ての手が天井に向けられた。
「諏訪野先生、こういう結論みたいです」
バン、と鴻巣先輩は机を叩いて勢いよく立ち上がった。
「ちょっと待ちなさいよ! 何勝手に決めてんのよ! こんなふざけた非論理的な話、私は認めないから! 証拠も何もないこんな推理を信じるなんて、あなたたちどれだけ馬鹿なのよ!」
「鴻巣先輩」
と、僕は言った。
「これは会議です」
彼女が間違っているのは、その一点。
「今、行っているのは選挙管理委員会の会議なんですよ、先輩。推理大会じゃない。先輩は探偵じゃなくて議長です。そして僕らは委員。先輩も諏訪野先生に言ってましたよね? 『教員に議決権はない。あくまで生徒による自主的で開かれた会議体だ』。先輩自身、忘れてませんか? この部屋にはたとえ発言していなくても、十八人生徒がいる会議なんですよ」
声を張る。ここで蝉の声に負けるわけにはいかない。
「選挙管理委員会の審議事項は多数決で判断する。……そうですよね、諏訪野先生」
「そうだな」
諏訪野先生は腕を組んで、染みのある頬を嬉しげにひねり上げた。「その通りだ」
鴻巣先輩はしばらく佇んでいたが、馬鹿な話、と一言つぶやいて腰を下ろした。怒りを噛み殺すように机の上を睨んでいる。
「じゃあ議長、結論を」
佐竹先輩が背中から鴻巣先輩を促す。「今回の審議の結論を、どうぞ」
「……先ほど彼が述べた意見が賛成多数で可決されました」
それでも冷静な口調はさすがだった。
諏訪野先生が滑り込むように口を開いた。
「それじゃあ早速、次に再投票について考えるか。今日この場で『不正のため再投票』の掲示を作って、昇降口へ掲示する。演説は端折って、再投票のみ明日ホームルームの時間に――」
用意していたかのように滑らかな口調に注目が移り、僕はようやく静かに息を吐くことが出来た。体中の筋肉が弛緩するのが分かる。
ぽん、と肩を叩かれ顔を上げると佐竹先輩だった。彼女は一度わずかに頷き、席に着く。お疲れさま、ということだろうか。僕はそれに微笑んで返す。佐竹先輩はあくびを噛み殺しながら、参考書を開いた。
「――」
それからしばらく、諏訪野先生が話を続けたが、ほとんど頭に入らなかった。頭に回っていたのは、先ほどちらりと見えた、佐竹先輩の参考書に載っていた一節。
生死去来
棚頭傀儡
一線絶時
落々磊々
小説
その意図は見えなくて
あらすじ
第42回小説推理新人賞受賞作「その意図は見えなくて」(「見えない意図」改題)を含む全5篇の連作短篇集。高校生たちが、部活や学校行事、進学に悩みながらも前進する姿を日常の謎を絡めて描いた青春ミステリー。
その意図は見えなくて(6/10)
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