「ありえないと思いますよ」
 一通り考えてみて、結局僕はそう言った。
 間の悪いことに、生徒会室の窓枠で油蝉が鳴き始めた。選挙管理委員の生徒たちの視線は僕に集まるが、今何を言っても蝉にかき消されてしまうのは明らかだった。
 やはり、こんな場で発言をするのは性にあっていない。どう振る舞えばいいのか分からず、僕はもぞもぞと座り心地の悪いパイプ椅子に背を預けた。
 夕暮れを待つ七月の空は、夏の色を帯びつつあった。せっかちな蝉はすぐそこに来ている夏を呼びつけるように、必死になって鳴いている。その苛烈さに比べると、確かに僕の話はそれを遮るほど重要なものではないように思えてくる。
 少なくとも、僕の話は机上にある問題を解決するものではない。
 机上には三つの紙の山がある。あるのは、先ほど開票が終わったばかりの八津丘高校生徒会長選の投票用紙だ。
 一つの山は信任票。一つの山は不信任票。一つの山は白票。
 一番高い山は信任票。
 次いで高いのは、白票だった。
「氷室がいじめられてるなんて、ありえないと思いますよ」
 蝉が茹るグラウンドへ飛んで行くのを見届けて、僕は口を開いた。「だって生徒会長に立候補したのは、氷室聖二ですよ? あの人気者がいじめで白票を入れられたっていうのは、ちょっと違うんじゃないかって思いますけど」
「あたしも清瀬と同意見ですね」
 思いがけず言葉を拾ってくれたのは、三年の佐竹優希先輩だった。彼女が陸上部を引退してから一月ほど経つ。顔を合わせるのは久しぶりだったが、深いえくぼといたずらっぽい八重歯を覗かせる、軽快な話し方は相変わらずだった。
「あたし二年生のことよく分からないですけど。氷室君、三年でもわりと評判いいですよ。イケメンだしサッカー部の部長だし、勉強もできるって話だし」
 真っ先に同調したのが佐竹先輩だったのが、いささか不気味だった。しかし、安堵の方が大きかった。誰も反応せず話が進まない、というのが今一番避けなければならないシナリオだった。
 どうやら、ほっとしていたのは僕だけではないようだった。部屋の隅で物憂げな表情を浮かべていた生物担当の諏訪野教諭も、安心したように長く息を吐き出した。
「お前らの言う通りだよなあ、やっぱり。そりゃ、氷室がいじめられてるなんてことねえだろうさ。何かイレギュラーがあったってことだろ。うん、そうに決まってる」
 教師としては、いじめがあるという結論は何としても避けたいところなのだろう。その安堵を素直に態度に出すところが、諏訪野教諭の評価を分けている。教師らしく威厳を持ってほしいと眉をひそめる生徒もいる一方、立ち飲み屋のおじさんのような雰囲気に好感を持つ生徒もいる。僕はどちらかというと後者だった。
「しかしそうすると、清瀬よお」
 ヘビースモーカーの諏訪野教諭の声は、三十代前半とは思えないほど掠れている。いつも着ている白衣が黄ばんでいるのも、煙草が原因なのは間違いない。「ならこの白票はどう説明したらいいんだ? 俺の見立てだと、開票作業に怪しい動きはなかったと思うがな」
「うーん、そうですよね」
 僕がそう応じると、諏訪野教諭はあからさまに不満げな表情を浮かべた。無精ひげを無造作に撫でまわす。
「なんだ、清瀬。何か思いついたことがあったわけでもないのか?」
「すみません、何もないです」
 今度はベランダで蝉が喚き始めた。
 諏訪野教諭が立ち上がって、窓をぴしゃりと閉める。書棚の上の古強者の扇風機の音が、雑多な生徒会室に大きく響く。諏訪野教諭は大儀そうに肩を叩きながら、「職員室に行く」と涼しい部屋へと逃げて行った。

 今期、八津丘高校生徒会長に立候補したのは、僕と同じ二年生の氷室ただ一人だった。前生徒会副会長として学校側の信頼も厚く、サッカー部部長として生徒に顔がきく。眉目秀麗、博学多才。
 なにより、それでいて生真面目すぎない。
 高校生の支持を集めるには、それが不可欠だ。政治の話からアイドルの話まで、話題は尽きない。模試の順位で称賛されることもあれば、友人からいじられて笑われ役に徹することもできる。教師は彼を叱りながらも、苦々しげに笑って許してしまう。氷室はいつも爽やかで、嫌みがない。端的に言うと、友達が多い。
 そんな氷室が、実はいじめを受けていて生徒会長に支持されなかったという事態が、僕には想像できなかった。開票の際、黒板に記した各クラスの集計表を、僕は見るともなく見ていた。
「ねえ清瀬。珍しいね」
 いつの間にか隣に佐竹先輩が座っていた。頬杖をついて、覗き込むように見上げてくる。生徒会室の長机は口の字型になっているが、席は指定でない。開票作業を担当した選挙管理委員が、諏訪野教諭が帰ってくるのを手持ちぶさたに待っている。この学校は一学年六クラスだ。選挙管理委員は各クラス一名でそれが三学年だから、計十八名がこの狭い部屋につめこまれている。
「なにがです?」
 僕が答えると、佐竹先輩は探るように角度を変えて僕を見た。彼女の細い髪は、華奢な肩にかけて外側に跳ねている。陸上部を引退してから伸ばし始めたのだろう。
「なにって、清瀬が大勢の前で発言する事が珍しいなあって」
「そうですか?」
「そうよ。キミ、人前で発表するのが嫌いだって、昔から言ってたじゃない?」
 抑揚があって、軽やかで、佐竹先輩の話し方は聞き手を彼女へぐっと引き寄せる力がある。佐竹先輩とは小学校から高校まで同じ学校に通っているが、昔からこの口調だけは変わらない。愛嬌がある、というと少し知的な成分が足りない。魅力的、というのが一番近いかもしれない。
「単純に、氷室がいじめられてるってのはないかな、って思っただけですよ」
 と、僕は説明する。しかし、佐竹先輩はまだ腑に落ちていないようだった。
「ま、それはそうなんだけどさ。氷室君をそうやって擁護するほど、キミって彼と仲良かったっけ?」
「一年生の頃クラスも一緒でしたし」
「ふうん?」
「まあ、何より早く部活に行きたいですしね。期末テスト明けなのに動けないなんて、最悪ですよ」
「でもあんたのせいで、それも難しくなったんじゃないの?」
 高い声で口を挟んだのは、佐竹先輩の右隣に座る秦ちなつだった。
「あんたが変なこと言わずに適当にやり過ごしてたら、諏訪野先生がうまくまとめてくれてたかもしれないのに。そうすれば、いつも通り選挙結果のポスターを作って掲示板に張って、すぐに部活に行けてた」
 歯切れよい声を発する度に、うなじで一つに束ねた髪が子犬の尻尾のように跳ねた。ちなつは初夏の早朝のように、きびきびと気持ちよく僕をけなす。「せっかく久しぶりに気持ちよく走れると思ったのにさ」
 ちなつが僕に噛みつくのは生まれてこの方ずっとそうで、もはや響かない。彼女は小さな顎を上げ眉間にしわを寄せ、断定的な言葉が溢れる唇をきゅっと縛って僕を眺めている。僕に対してよく見せる表情で、それは競技場でガムを吐き捨てているランナーを見る表情と大体同じだ。