それにしても、と僕は話題を戻した。
「諏訪野先生が帰ってこないな。職員室で何してるんだろ」
「……」
「色々あったからじゃない?」
 ちなつに無視された言葉を、佐竹先輩が掬いあげてくれる。彼女は持ち込んだ参考書を気だるそうに開いていた。僕は佐竹先輩に尋ねる。
「色々って何です?」
「最近退学者が出たばかりだから」
「だから?」
「ま、何事も丁寧に対処したいんでしょ」
 と、佐竹先輩は興味が無さそうに、参考書を一ページ繰った。
 一か月ほど前、三年生の数人が教員の更衣室に忍び込み盗難をした。佐竹先輩はそのことを言っているのだ。地方紙の片隅に掲載された程度だったが、警察まで来る騒動になった。学校側も対応に追われたと聞く。
 砂埃の舞う灰茶色のグラウンドに目をやる。サッカー部はグラウンドを周回している最中で、そこに氷室がいるかどうか、ここからは分からない。
「何にしても、いじめはないと思いますよ。そもそも氷室をいじめられるほど影響力のある人間なんて思いつかない」
「氷室君って、二年生で一番人気者な感じだもんね。三年生の間でも評判いいよ」
「求心力があるんですよ。人が集まってきますから、あいつの周りには。良い奴ですからね」
 佐竹先輩は参考書から視線を上げ、まじまじと僕を見つめた。
「なんですか」
「や、清瀬がそんなに具体的に人を誉めるなんて、珍しいと思って」
「そんなことないと思いますけど」
「けど、あんまり無いでしょ。ユウ君くらいじゃない? いつも誉めてるの。そういえばユウ君、氷室君の応援演説だったけど、格好よかったね」
 ですよね、と即座に反応したのはちなつだった。
「ユウくん、最高でしたよね。なんというか、もう最高」
 ちなつは餌をほおばったリスのようだ。僕には絶対に見せない表情だった。
 僕とちなつとユウは幼なじみだ。佐竹先輩も同じ小学校だから幼なじみと言えなくはないが、ユウとちなつは保育園の頃から一緒だった。
 ちなつのユウへの情熱は相当なもので、これは昔からずっとそうだ。特に中学生になってから、一段と熱を帯びたように思う。高校生の今、それは多分、恋愛感情と呼べるものになっているのだろう。
「ユウらしかったよな、良くも悪くも」
「あんたには話してない」
 ちなつが僕に一段と厳しくなったのも、中学生の頃だったろうか。
「ユウ君、もう、本当によかった」
 応援演説にあてられた時間は三分間だった。三分といえば陸上部が大体一キロメートルを走る程の時間で、聴衆に語りかけるには充分とは言い難い。校長なんて二十分話しても、話したいという執着心しか伝わってこない。
 しかし、ユウは違った。
「ええっと」
 というわずかな躊躇いから、ユウの応援演説は始まった。原稿はなく、聴衆を直視してユウは語った。
 ユウは、氷室がいかに頭がいいか、教師からも友人からも信頼が厚いか、そういった類のことをたどたどしくも実直に語りかけ、そうして最後にこう締めくくった。
「今回、氷室に応援演説を頼まれた時、俺、本当にうれしかったんです。面倒だな、と思う場面でも、氷室に言われると前向きに頷いちゃうんですよね。氷室に頼られてるのが、心底嬉しくなる。……うん、俺、こうして氷室の応援ができて本当によかったです」
 ユウの演説が終わった瞬間の静寂、それは深雪の早朝のようだった。清廉でしかし深みがあった。感嘆と嘆息の入り混じった異様な空気だった。
 決して上手い演説ではない。しかしそこにはそう感じさせる人間性があった。
 昔からユウはそうなのだ。実直で、無垢で、潔白。
「はっきり言って、ユウ君の演説は氷室君より、全然よかった」
 と、ちなつは元も子もないことを言う。
「ま、だから余計、この状況は理解できないよね」
 そう佐竹先輩が苦笑いを浮かべた時、ちょうど生徒会室のドアが開いた。
 佐竹先輩はパタン、と本を閉じる。大学入試の古典の参考書だった。佐竹先輩ほどの頭脳でもやはり受験勉強はしないといけないものなのだな、と平凡な僕は平凡な感慨を覚える。

「まあ、あれだな。これまでの選挙で、白票がここまで多かったことはないな」
 と、諏訪野教諭は首にかけたタオルで汗を拭いながら、青いチューブファイルを開いた。いくつか付箋が貼られているところを見ると、職員室で何やら確認していたのだろう。実はこういう丁寧なところがあるのも、諏訪野教諭の魅力の一つだと思う。
「ちなみに、生徒会役員選挙管理規程の第五条第三項には次の通りだ。『選挙は全校生徒の三分の二以上の有効投票を必要とする』。黒板の集計数にあるとおり、今回白票が三分の一を超えてる。つまり、その規程を準用すると、今回の選挙が無効となる」
 わざとらしいほど淡々としているせいで、まるで頭に入ってこない。聞き流してくれと言わんばかりだった。
「……ええっと。無効ということは」
 僕は頭を整理しながらの発言になる。
「やっぱり、再選挙になるってことですか? 白票多数によって立候補から募ることに?」
「そうだな。この規程の趣旨からいうと、再選挙ってことになるだろうな。選挙そのものが無効になるわけだから、立候補からやり直すことになる」
「それじゃあ立つ瀬がありませんよ。氷室の」
 諏訪野教諭の肉のない頬が引き締まった。微笑みだと気づくのに、少し時間がかかった。
 が、すぐにいつもの分かりやすく覇気のない表情に戻って、
「ま、そうだな。規程でそうなっている以上、これは変えようがない」
 けど、と続く言葉には、先ほどとは比べ物にならないほど抑揚がついていた。
「仮にだけどな、これが単なる白票じゃなく、なにかしらの不正があった場合は別だろうな。それは第五条第八項にある通りだ。いいか、読むぞ。『投票又は開票作業中等に不正が発覚した場合には再投票とする』。つまり不正だと選挙管理委員が判断したら、『再選挙』じゃなく『再投票』になるってことだ」
 生徒の多くが理解していないのを察して、佐竹先輩が簡単に補足してくれる。
「要は、『選挙管理委員会が不正と判断した場合は、もう一度選挙演説も応援演説もしなくて済む』ってことですね? あくまで『再投票』なわけだから。もちろん、立候補者も氷室くんのままなんですね?」
 諏訪野教諭は大きく頷いた。
「そういうことだ。審議事項は選挙管理委員会の多数決だから、お前らが不正かどうか判断しろ。ただ、不正と判断するにはそれなりの根拠が必要だ。氷室がいじめられてないとすれば、なんでこんなことが起こったのか、職員会議で説明できる根拠がいる」
 諏訪野教諭は丁寧に言葉を選んでいるようだった。十分に選んで、低いしゃがれ声で付け加える。
「ま、上手くやってくれ」
「なるほどです」
 と、佐竹先輩はあっさりと頷いた。
「なら、とっとと議長を決めて片づけちまってくれ。……ああ、そうだな。時間もないし、議長くらいは推薦しとくか」
 ちら、と目だけを動かして諏訪野教諭が捉えたのは、一人の女子生徒だった。ボウタイの赤色で三年生だと分かる。
「なあ、鴻巣。こういうの得意だろ、お前。議長やってくれよ」
 鴻巣先輩は、銀縁の眼鏡を丁寧に拭いた。了解した、という意味らしい。黒い長髪が濡れたように光っている。とても綺麗な人だが、どこか他者を寄せ付けない鋭さが漂っていた。まるで、人形のようだな、と思う。
「みんなも、どうだ。鴻巣でいいだろ」
 誰も返事をしない。もちろん、異論はなかった。