宵口の帰路、川沿いの土手、街灯が思い出したように灯る。僕の隣には生徒会長選に立候補した氷室聖二がいる。
「清瀬から一緒に帰ろうって誘ってくるなんて、珍しいじゃん」
 氷室は言いながら、自動販売機で買った缶コーヒーを開けた。彼の髪は部活終わりにもかかわらず、教室にいる時のように綺麗に整っている。柑橘系の制汗剤の香りが時折漂う。缶を傾けると、今度はコーヒーの香りに変わった。
「まあ、会長選のことで、ちょっと」
 と、僕は言う。
「あ、お前選管か。色々お疲れさん」
「まったくだよ。けど明日もあるんだ」
「明日?」
「再投票になったから」
「ん?」
「明日は頼むよ」
「え、いや、頼むってなんだよ。というか明日も投票あんの?」
「明日はもう白票にしないようにみんなに言ってくれよ。今日も結構大変だったんだから」
 氷室はコーヒーを飲む手を、一瞬止めたようだった。街灯の光で、二重瞼の奥の瞳が鈍く光った。
 が、すぐに相好を崩した。いつもの軽い口調で、
「あれ、オレお前に言ってたっけ?」
 いや、と僕は小さく首を振る。
「じゃあ、誰かから聞いた? 選管の奴には言わないように忠告してたんだけど」
「言われてないよ」
 氷室は唇をめくるようにして小さく笑った。いたずらが暴かれた少年のように可愛げのある表情筋の動きだった。
 僕は知らなかったが、もしかしたら選挙管理委員の中にも、既に真相を漏れ聞いていた生徒はいたのかもしれない。しかし、誰も言わなかった。それは多分、この笑みのおかげだ。こいつの案に乗ってやってもいいかな、と思わせるような、絶妙な安心感のある笑顔。ユウの応援演説の言葉を借りるなら『氷室に頼られてるのが、心底嬉しくなる』。そういう類の笑みだった。
「ならどうして気がついたんだ? オレがみんなに白票入れるように頼んだって」
 大したことじゃない、と僕は出来るだけ簡単に答えようと努める。
「消去法だよ。会議ではまず、白票は氷室に対するいじめじゃないかって話になって、それはすぐ否定されたよ。氷室に限ってありえないって。その後は鴻巣先輩が司会になって、細かく検証したんだ。あらゆる可能性を探って、残ったのが真実だって言って」
「鴻巣さんかあ。オレ、去年の学祭実行委員で一緒だったんだ。時間かかるとか、そういうコスト気にしないんだよなあ、あの人」
「そうそう。それはもう細かく考えるんだけどさ、でもどうしたって細工とかトリックって無理なんだよ。挙句の果てにはもともと生徒会室に誰かが隠れてた、みたいな話になってさ。常識的に考えてそれはないよ。あんなくそ暑い部屋に残るメリットなんて、誰にもない。そこまで来たら、一度どこかで見落としてることがあるって考えた方がいい」
「現実的だな」
「そもそも、トリックとか密室とか、そういう話になってるのがおかしいんだよ。トリックとか密室とかじゃないとしたら? それなら簡単だよ。不正投票なんか最初から無かった。みんな、自分の意志で白票を入れたんだ。いじめはあり得ない以上、それを取りまとめられるのは、立候補者であるお前くらいだよ」
 なるほどなあ、と氷室はコーヒーを飲み干した。「鴻巣さんが色んな可能性を考慮したせいで、そこに戻っちゃったわけか」
「何にしても、あれだけの票を動かすには、人望が必要だから。考えられるのはお前くらいしか思いつかない」
 川で冷やされた風が、二人の間を通り過ぎる。
 それで、と彼は言う。
「オレが職員室へ呼び出されず明日再投票って事は、会議ではオレが犯人って指摘は無かったんだな?」
「ああ、結局外部犯で落ち着いたよ。外部犯である証拠もないけど、そうでない証拠もないからな。本当、明日は普通に投票するように言ってくれよ」
 かかか、といかにも可笑しそうに、氷室は笑い飛ばした。
「まあ、しょうがないかな」
「なら、いい」
 言いたいことはこれで全てだった。僕としてはもう話すべき事は無かったが、氷室はそうではないようだった。
「馬鹿なことをしたって、思ってるだろ?」
 珍しく湿った口調だった。空になった缶を放り投げ、おもむろに蹴り始める。蹴る度に、甲高い音が寂しげに河川敷に響いた。そういえばこの土手は蝉の声が遠い。あればわずらわしいが、無ければそれはそれで物足りない。そんなことはきっといくらでもある。
「この世には二種類の人間がいる、っていう常套句があるじゃん」
 まるで自動販売機からコーヒーが落ちてくるように、ありきたりな現象らしく彼は言葉を漏らす。そう見えるということは、そう見せようとしているのだと、僕は理解する。
「何かをするやつとしないやつ、っていうのがさ。ほら、カラマーゾフの兄弟を読む人間と読まない人間とか、スウィングする奴とスウィングしない奴とか。二項対立みたいなのがあるだろ。清瀬にはそういう持論みたいのってある?」
 考えてみたが、氷室は別に僕の答えなど求めていないようだった。僕の沈黙の幕が重いことを悟ると、慌てずに言葉を継いだ。
「オレはこう思うわけ。『この世には二種類の人間がいる、動かす奴と動かされる奴だ』。……どう思う?」
「うん、まあ、そうとも言えるかな、と思う」
 そして二項対立とは、どんな偉大な思想家が語ろうとも、大抵「そうとも言えるかな」という程度のものでしかない。
 誰が言ったか、誰が聞いたか。
「相変わらず、なんというか、模範解答だな」
 面白くなさそうに氷室は缶を蹴る。
「とにかくオレは、そうなんだ。いろいろな二項対立があるんだろうけど、二項対立で人間を語るとき大事なのはその汎用性だよ。『動かす奴と動かされる奴』ってのは、誰もが納得できる回答だろ? 誰だってその両方を経験しているからさ」
 からんからん、と痛切さを含んだ音が鼓膜に刺さる。
「動かす側にいたい、って思ったんだよ」
 氷室の声は日の暮れた後の焼けたアスファルトのように、平らで奥底はじんわりと熱い。
「動かす奴と動かされる奴、オレは前者にいたいと思った。そして自分は多分そっち側にいられる素質がある、とも思った。別に自慢してるわけじゃないんだ。客観的に見て、オレはそれなりに勉強もできる。サッカー部でも部長だ。友達も多いと思う」
 この台詞がまったく嫌味に聞こえないのも、その『素質』の一つなのだろう。